第2話


 没頭し続けていた、河崎は。はじめはやつらを殺す、その一点だけのために。だが次第に興味深くなってきてもいた。無論やつらに対する殺害の意志は微塵も揺らいではいない。

「ほう……」

 様々なこの世ならざる存在が書物には記されていた。知らず河崎は笑っている。いままでの己の人生とはいったいなんだったのか、そう思うと笑わずにはいられなかった。

 ――なんだこれは、と怒り狂っていたのすら懐かしい。

 真っ当な世界を馬鹿にしているかのような数多の記述。自分が知らなかった世界の裏側。河崎は没頭し、没頭し没頭し続けて頬は削げきった。

 あまりに悍ましい事実の羅列だった、彼が読んだのは。お伽噺と一蹴できればどれほど楽になれることか。あの動く像を目の当たりにし、やつらと相対し。河崎にはこれらが夢物語とは到底言えない。

 ――事実。紛れもない事実がここにある。

 目にするたび、読み進めるたび絶え間ない頭痛と吐き気に襲われた。左目の義眼の奥は痛み続けた。それにももうずいぶんと慣れた。慣れるほど、研究は進み、すでにこれは河崎の日常ともなっている。読書、とは言えないだろう。彼の周囲には多くのメモが散乱し、辞書が山積みに。まるで本の山に囲まれる学者のようでありながら、古の魔術師の工房のようでもある。あるいは中世の錬金術師とでも。

 薄暗い蔵の中、河崎はほぼここで過ごしていた。書物を手から離すことはほとんどない。唐突な吐き気にもかまわず、床には乾いた吐瀉物がこびりつく。それでも研究の手は緩めなかった。

 ――殺す。

 日々何度となく内心に呟いた。慶太のため、自分のため、世のため。すべての理由を放り出し、ただひたすらにやつらを殺す、そのためだけに。それは妄執というべきものだったのかもしれない。

「……またか、どこだ」

 舌打ちをし、河崎は渋々と席を立つ。いま読んでいた本がメモを取った隙に消えるなどいつものことだ。

「帰ってこい」

 本に呼びかける不自然。河崎は一人きりで暮らすうちにそんな己となっていることに気づいていなかった。書架の間をさまよい、文句を垂れる。ここの本はこうして頻繁に不可解な振る舞いを見せた。嘲笑うように揶揄するように。

 ――お前に研究する価値があるのか、と言われているようだ。

 ならば真価を示すまで。河崎はにやりと笑って手を伸ばす。目的の書物はそうあるべくして本来の書架に納まっていた。

「お前が必要だ」

 言えばほんのりと手の中でぬくもりを帯びたかのよう。気のせいとわかってはいる。ここの本は冷たく、あるいは湿り気を帯び、時に凍りつく。だが温かであることは断じてない。

 河崎が書架から抜き出した本に触れていた別の書物の表紙、ちらりと見やれば焦げていた。肩をすくめてやり過ごす。どうせ明日になれば何の痕跡もなく元通りだ。

 机に戻った河崎は込み上げて来る笑いを隠さない。机の上に置かれたままだった本の一冊、開かれていた。あたかも先に自分を読めと主張するかのよう。

「お前はまだ後だ」

 ぽん、と本を叩けば不満げな手触り。狂っている、己でもそう思う。狂人は狂気の自覚があるものなのだろうか。だが河崎には狂気に犯された自覚があり、それと知りつつ止まる気はおろか戻る気もなかった。

 背をかがめるようにして本を読む。削げた頬に薄明かりが差しなおさらに不健康に見えた。けれど河崎は窶れたとの印象がなかった。よけいなものをすべて擲ったがゆえの硬質な体貌とも言える。捨てるべきではない人間としての柔らかな部分を河崎は擲ち研究を続けた。

 とはいえ、否応なしに机から離れることもままある。生身の人間であるからには食わねば死ぬ。死んでは殺せない。その忌々しさに河崎は舌打ちしつつ街に出ることもあった。

 ――煩わしい。

 苦い顔の河崎を仮にかつての知人が見たとして、彼だとわかる保証はない。別人のような河崎だった。

 それでも身についた習性は変わらなかった。人のいる場所に赴くとき、河崎は公安時代のよう周囲への点検作業を怠らない。

 ――必ず。

 やつらはいる。ならば自らを晒すのは下策。そう考える限り無駄ではないだろう。鋭い眼差しも人がいる限り隠されていた。そのような態度は人目を引くだけだ。何気ない眼差しが周囲を探り、情報を集める。

 変わって、変わっていない都津上だった。河崎たちが狂気に飲み込まれつつあったころに起きた同時多発事件も風化しかけている。街の多くの人は早く忘れたいのだろうと河崎は思う。

 ――忘れて、そうやって生きていく。そういうもの、だったはずなんだがな。

 小さな微笑が彼の唇に浮かんで消えた。忘れ得ない経験ならば、いったいどうすればいいのだろう。忘れたいとすら思えない経験は。

 ――慶太。

 口の中に蘇る血の腥さ。歯に感じた肉の弾力。そっと嘔吐をこらえるよう口許に手を当てたのに気づく人などいなかった。

 こうして買い出しに出てくるたびに行く場所がある。カフェ・ブラックロータス跡地。いまだ貸店舗の看板が出たまま、借り手はついていない様子。がらんとした店内が明るい通りからぼんやりと覗けた。

 ――あそこに。

 地下への入り口がある。無謀に突入し、慶太を殺すことになった地下への扉が。隠されたそれを次の借り手はどうするのか。

 ――だから、やつらは戻ってくる。

 他の借り手がつくより先に自分たちの手中に収めるために。河崎はそう信じて疑わなかった。

「まだ潰れたまんまだねー」

 ふと背後から聞こえた若い女性の声。友人と喋りながら歩いているのだろう。河崎はかつてのよう無害な顔を作る。習性ともなったそれを作るのは苦でもなかった。

「すみません、ちょっといいですか?」

 大学生だろうか、彼女たちは河崎の声に足を止めては首をかしげる。それから顔を見合わせてはにこりと笑った。以前の河崎は成功したベンチャー企業の幹部のようだった。いまはよけいなものを削ぎ落とし、けれどこうして温顔を作れば精悍さが際立って有名企業のやり手、と言ってもいい。

「なんですか?」

 彼女たちもそんな河崎の容姿に信用を見るのだろう。無防備にすぎるな、と河崎自身は内心に苦笑するのだけれど。

「ここのお店、閉店したままでしょう?」

「そうですねー。もう長いですよね、新しいお店も入らないし」

「ここって、飲食店は厳しいですか?」

 どうやら河崎を企業のリサーチ担当とでも解釈したらしい彼女たちだった。河崎もそれらしく振る舞っているから無理もない。

「そうでもないと思いますよ」

「だよね、前のお店も」

「うん、いきなりだったもんね」

 友人同士で話しはじめた彼女たちに河崎は蔵にいるときとは打って変わって優しげ。穏やかで有能な会社員を思わせた。そう見えるだろう己を彼は嘲笑っていた。

「前のお店というと……?」

「ブラックロータスっていうカフェが入ってたんですよ」

「そうそう、おいしかったのにね」

「うん、面白いドリンクいっぱいあったし」

「写真映えもよかったのにね」

 閉店してしまって残念だ、年月を経ても彼女たちは口にする。河崎は笑顔で礼を述べて立ち去った。その心中など他者にはわかり得ない。

 怒り。

 ブラックロータスの閉店を嘆く声を聞くたびにかきたてられるのは怒りに他ならない。自らの復讐心に油を投げ込むため、河崎はこうしてカフェの話を聞くようにしている。

 ――必要ないのにな。

 そのようなことをせずとも、瞋恚の炎は消えることはない。やつらが這いつくばって詫び、自らの手で己の神なる像を破壊し、そして全滅したとしても消えることはないと河崎にもわかってはいる。

 ――復讐は無意味だと? 馬鹿馬鹿しい。俺の気が紛れる。

 気が済むなどとは言わない。あれらが死に絶えても終わったことになどできない。それでも立ち止まることはできなかった。

 ――無意味だと言うなら、俺と同じ経験をしてから言え。

 その上でやつらを許すと言う人間がいるならそれは史上最高の聖者か馬鹿だと河崎は思う。いずれ、できることではなかった。皮肉に彼の唇が歪んだとき、ポケットの中で端末が震える。取り出したスマホの画面に表示されていた名前にひとつ肩をすくめ彼は通話に出る。

「あぁ、よかった。警部……いえ、河崎さん。お元気でしたか」

「まぁ、それなりに、な」

「そうですか。……ん、なんか音がしますね。外です?」

 屈託のない明るい相楽の声に河崎は身のうちが震えるような思いがした。これが人間としてあるべき生活、それを眼前に据えられた心持ち。

「ああ、買い出しだ」

 それだけを短く告げる河崎に相楽は気づかなかったかのよう普段通り。通話越し、日に焼けた相楽の笑い顔が見えるかのよう。

 ――慶太と並んだら若いのが遊んでるようにしか見えないと思ったこともあったな。

 相楽と慶太は接触がない、顔どころか名前すら知らない。知っていたのは河崎だけ。一人は死に、一人はいまだに気にかけてくれる。

「たまには外に出るのもいいですね。今日なんか天気もいいし、散歩にはちょうどいいじゃないですか」

「そうだな」

 同意のようで拒絶だった、それは。相楽にも伝わったのだろう。一瞬の無言。通りを歩きつつ河崎はその無言を味わっていた。捨て去ったものがここにある、と。拾いたいのではなく、観察するかのように。

「買い出しとか、一人で大変じゃないです? たまには手伝いますよ」

「問題はない。一人だからたいした量でもない」

「そりゃそうか。うーん、他に手伝うことあったらなんでも言ってください」

 必要ない、河崎は言いかけた。それを止めたのはあるいはタイミングかもしれない。彼女たちと会話した直後だったからか。

「ブラックロータスというカフェを覚えているか」

「もちろん」

「いまもまだ、貸店舗の看板が出たままだ。不動産屋は連中が何者だったか、把握してたのか」

「よくわからない店子だとは言ってましたね。反社会勢力だとの確信はなかったものの怪しい連中との認識はあった様子です。干渉されたくなかったのだろうと解釈してましたが、家賃の振込はきちんとしていたとも言ってました」

「そうか……。地下」

「はい?」

「不動産屋は地下の存在を知ってたのか」

 当時、相楽がハッキングによって発見した地下室だった。違法に作られたものに違いなく、認識していた可能性は低い。もし知っていたのならばやつらの同類と考える必要がある、河崎はそう思っていた。

「そんなものがあったのか、と驚いてましたね。記憶になかったようです。違法に作られたものとの認識はなく、記憶にないのは別の物件と混同したせいだろうと」

 勘違いしたと気に留めていなかった不動産屋だと相楽は言った。いい加減な、と河崎は思うもののよくある話でもある。所詮そんなものだと肩をすくめた。




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