第3話
「ねぇ、河崎さん」
「なんだ」
「そろそろ、戻って来ません?」
「退職した身だ」
「手段なんかいくらでもあるじゃないですか」
戻って来てくれ。言われるたびに河崎の気配が硬くなるようだった。こうしていまなお手助けをし、気にかけてくれ。ありがたいとは思っている。いまの不動産屋の話にしてからそうだ。河崎一人では入手できない情報を相楽はいとも容易く漏らしてくれた。それは取りも直さず河崎が公安に戻って来ると信じるがゆえだろう。
「河崎さんだったら、いますぐでも復帰できます」
「俺にはやるべきことがある」
「戻って来てからでもできるじゃないですか。むしろ公安にいた方が色々できる。そうでしょう?」
「俺だけで充分だ」
「河崎さん……」
「情報感謝する。切るぞ」
返答を待たずに通話を切った。たぶん、またかかってくるだろう、いずれ。河崎はそっと首を振り溜息をつく。相楽が買ってくれているのは嬉しく思う。だが、こうして帰って来いと言われるとやはり決意が新たになる。やつらを殲滅する、その煮え滾るような思いがかきたてられる。
――相楽には、言えんな。
自分のせいで猪突しているのかと愕然とするだろう、彼は。違うと言ってやる気にまではならない。これは己の責任、己だけで解決する問題、そう心得ているだけだった。
かすかな溜息、それでいて河崎に油断はなかった。ふらりと散策しているようでいて、周囲に対する警戒は怠らない。いまも、ひしひしと気配を感じていた。やつらが、いる。見やった先にはエスニック料理店チャイチャイ。あの店はブラックロータスと繋がっている。一味と考えていいだろう店舗。だがしかし、仲間であってあのとき地下にいたやつら自身ではない。ゆえに再度やつらは戻って来るとの強い思い。
――妄想とでも笑えばいい。
いずれ必ず自分の正しさが証明される。河崎は苦く歪んだ笑みを漏らし郊外の家へと帰って行った。
買い出しが済めばまた研究に戻るだけだ。本を開けば馴染んでしまった吐き気の衝動。物ともせずに河崎はページの上にかがみ込む。かりかりとペンを走らせる音だけが蔵に響いた。
こうしていると、時間を忘れる。倒れるよう眠るときだけが一日の区切りのような。その夢さえ安らぎではない。ふと、河崎がその目をあげた。
「こんなところにいたんだな、河崎さん」
ゆっくりと蔵の中を見回していたのは相沢。守谷慶太を可愛がっていた相沢組長がそこにいた。河崎は無言で彼を見る。
「伝手……ではないな。あんたを心配するあんたの仲間、と言っておこうか。そちらからここにいるのを聞いて、な」
相楽だろう。河崎の口許に苦笑が浮かんだ。相楽から連絡がきて何日経ったのか、首をかしげて考えてもわからなかった。時間の感覚など疾うに失せている。
「……河崎さんよ」
「帰ってくれ」
「慶太の――」
「俺はあんたの前に顔を出せるような男じゃない」
言葉を遮り断言する河崎に、相沢は瞑目していた。慶太が死んだのだろうことは、とっくに悟っている相沢だ。あの日、慶太は戻らなかった。それで理由としては充分なほどに。
「俺にかかわってくれるな」
机の前に座ったままの河崎だった。公安時代を知る相沢としては目を剥きたくなる。あまりにも、人が違った。相楽という男から聞かされていなかったら、河崎だとは思えなかったかもしれない。
「なぁ、河崎さん」
近づき、机に手をついては彼を覗き込む。河崎は目をそらすことなく相沢を見返した。その目の暗さに相沢は息を飲む。いったい何を見れば人はこんな目をするのかと。
「何があったか聞かせてもらう資格くらいは、あると思うんだがね」
自分の配下であった男が死んだのだろう。語る相沢に河崎は答えず。かすかな溜息が彼の唇から漏れる。相沢はそんな彼に業を煮やしたよう机の上に目をやった。瞬間。
「見ない方が身のためだ」
開いていた本すら閉じて河崎は真っ直ぐと相沢を見上げた。何が記してあるのか、相沢には見当もつかない。だが、こうして近づけば否応なしに感じる寒気。しんしんと冷えるのは蔵の湿気かとばかり思っていたものを。
――この、本だ。本の山だ。これが、原因だ。
悟ってしまった相沢の背筋に汗が滴り落ちる。この立場となるまでに修羅場のひとつやふたつ、くぐっていないはずもない。相沢の肉体には人には言えない傷すら刻まれている。その彼が。
「知らない方がいい」
ゆっくりと、言い聞かせるような河崎だった。ここに来るまでの相沢ならば一笑に付しただろう。が、いまこの瞬間には到底。
河崎はただじっと相沢を見ていた。この場でいますぐ帰れ、と。その左目に相沢が注目した。作り物の目に。それほどの傷を負った河崎が、公安すら辞めて独り何をしようとしているのか。
――知らなくていい。これは俺のなすべきこと。俺だけの仕事だ。誰にも譲らん。
慶太の血肉にかけて、己だけが手に入れる復讐だ。河崎はそこだけは譲らない、譲る気もない。たとえ相沢がどれほど慶太を可愛がっていたとしても。
「……うちの若いのに、身のまわりの面倒を見させよう」
相沢もまた、河崎の覚悟を読み取った。何をするつもりかはわからない。しかし死地を厭わず己を捨てて事を成そうという男の目を見ては止めることなどできようはずもない。
「要らん」
手助けすら拒むか。相沢はそう解釈した。河崎にとって、それはある種の温情だったのだけれど。まともな人間が知るべきではない事実を知ることになる、自分の側にいれば。そんな人間は一人でも少ない方がいい。
――知れば、生きていけない。
己の人生を嘲笑う何者かがいるのでは、妄想じみた考えを持ちつつ生きるのは苦痛でしかないだろう。
「あんたの志はわかったつもりだ。なぁ、河崎さんよ。慶太の敵討ちなんだろうが。だったら一枚噛ませろ。そのくらいはさせてくれ。干渉はせん。あんたがしたいことをすればいい。止める気もない」
「敵討ち、か」
呟くような河崎だった。そんな生易しいものだろうか、これは。言葉では言い尽くせない感情を、言葉にせざるを得ないとき、これほどまでに言語とは空虚になるものか。河崎は笑う。
「頼む、河崎さん」
相沢が頭を下げていた。組長がわざわざ一人でこんなところまで出向いて来た。手下の一人も連れず河崎の前に来た。そしてただの男に向けて頭まで。
――慶太。お前は、こんなに。
可愛がられていたのか。相沢の目に涙を見た気がした。親も教師も頼れなかった慶太の親代わり、正に親父と呼んだそのままに。
「銃を」
一言、河崎はそれだけを。あれらに銃弾が効くものか。否、少なくとも像に効かなかったのは覚えている。
――だが、いまの俺には手段がある。
ちらりと河崎の視線が一冊の本へと。魔術と言うしかないこの世の外の技術を河崎はすでにいくつか得ている、実行もしている。ならばこそ。
そして相沢は無言で懐から銃を取り出した。机の上に置けば、ひどく重たい音がする。
「慶太の銃だ」
「……なに」
「あの日も、持って行けと言ったんだがな。兄貴に迷惑がかかる、と置いていった」
笑っていたよ、相沢は言う。河崎にもその姿が見えるようだった。久しぶりに彼の声が耳に蘇る。兄貴、と呼ぶ屈託のない明るい声が。
「あいつの形見として、受け取ってくれないか」
机の上、相沢は河崎に向けて銃を押し出す。無言で河崎はそれを手に取った。重たい、手に馴染んだ銃ではない。慶太はこんな銃を使っていたのかと小さく笑う。
「あいつらしい……」
どちらかと言えば小型の銃だった。威力よりは命中精度を重視したもの。ただ改造はなされているらしい。それなりに威力も見込めるようだった。銃把を握れば慶太の手を取ったかのような錯覚。河崎は奥歯を食いしばっていた。
「これも渡しておこう」
ペンを借りる、言って相沢は自らの名刺の裏に住所と自身の署名を。銃弾を闇で扱う人間がそこに住んでいる、そう言って名刺を寄越したのに河崎は黙って一礼を。厚情に言葉はなかった。それを理解するとばかり相沢も無言。何も言わず、立ち去る後ろ姿を河崎は見送らない。互いにここから先は不干渉。それが相沢を、彼の組を守ることになる、慶太のために。蔵の扉が閉まった鈍い音がした。
「慶太――」
予備の弾丸まで相沢は置いていってくれた。購入に向かう必要はないだろう。何も銃撃戦などするつもりはないし、そうなったときには負けている。河崎は一度その銃を撫で、懐に飲んだ。持っている必要はない。傍らに慶太を置くような心持ちであったのかもしれない。
少し重くなった胸元を軽く叩き、河崎は書籍へと戻って行く。何冊も、何冊も。いったいこの蔵にはどれほどの本があるのか。妙に水に関する化け物の記述が多いが、河崎が求めるものはいまだ見つからず。
だが、相沢が訪れたよう唐突に。河崎の目は吸い寄せられるよう文章を読んでいた。逸る指先が辞書を引くすらままならない。舌打ちをして、深く息を吸う。吸ったつもりで止めていた。震える指が辞書の単語に。間違いない。
「あった……」
これだ。河崎は確信する。この記述こそが求めていたもの。やつらの正体、あの像の正体。目が文章を追うにつれ、河崎の口許は笑みをこぼす。次第にそれは音声をも伴い。ついには哄笑となった。
「見つけた、見つけたぞ!」
やはり、やつらは人間ではなかった。チョー=チョー人、と称する人型の化け物。人間に似て、だが決して相容れない異形の存在。狂ったやつらが狂った神を奉ずると記述は示す。
チャウグナー・フォーン。それが、あの神の名。やつらが崇めるあの像の名に違いない。血管の浮き出た象のように大きな耳はけれど触肢が生え、鼻は先端が朝顔の花のよう開いては犠牲者の命を吸い取る、そう記されている。
「これだ。これに違いない、これだ。ははははは、これだ、これだ! 見つけた、ついに見つけた。殺す。もう逃がさん、絶対に殺す、一人残らず神諸共に殺してやる」
血走った目で河崎は蔵に叫ぶ。狂っていると思った。この本に書かれていることは事実かと疑えたならばどれほど幸福だろうか。こんなものを記し残すとは狂人か愚者かと思った。こんなものが生きて動いている世界は狂っていると思った。狂っているのは己だとも思った。
「狂ってやがる。全部だ、全部狂ってやがる」
こんなもののせいで慶太は死んだ。ならば殺すまで。胸元を押さえ河崎は笑っていた。
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