第4話


 夜を日に継ぎ、河崎は本に没入していた。あの本が切っ掛けとなったのか、それともただの偶然か。以来、蔵の中で見つける書籍にやつらの名が散見された。曰く人間ではない。曰く狂っている。曰く人間と同じような肉体。小柄で無毛の頭部をしたチョー=チョー人なる輩。

「同じなら、殺せる」

 切れば死ぬならなんの問題もない。撃てば死ぬならそうするまでだ。生きているなら殺せる。河崎の唇は歪んでいた。笑ったのかもしれない。

 その顔がふとあげられた。相沢がまたも訪れたか、一瞬はそう思った。だがしかし、気配が違う。これは、人間か。唐突とも言える激しさで河崎の身体が緊張した。その人影は、河崎に気づかせることなく彼の傍らに立っていた。それでいて、「人影」としか認識できない。暗がりに見事に入り込んでいた。

「誰だ」

 恐れげもなく河崎は声をあげる。それに影はにこりと笑ったかのよう。無垢すぎて、気味が悪い。無邪気とは邪気の裏返しなのではないか。この世の裏側を知った河崎は皮肉に思う。

「ここの住人……だったもの、ですよ」

 柔らかな声をしていた。けれど、闇の淀んだ声音。あるいは河崎の手元の書籍が自らを読み上げたならばこんな声で語るのかもしれない。無言の河崎に影は首をかしげる。微笑んだような気配だった。

「不法侵入を咎めよう、なんて話ではないのですよ」

 含み笑いの声音に響く潮騒の音。海の轟きが聞こえる立地ではない。まだ充分に距離があるというのに。

「ただ、その本は返していただきたく」

 ついと人影が手を伸ばしてきた。肉体労働には縁のなさそうな、ほっそりとした手指だった。青白いようなそれを河崎はじっと見ている。

「これか?」

 机の上の一冊を取り上げる。だが河崎が思ったよう人影は首を振った。

「いいえ、あなたもわかっているでしょう」

「これ、か……」

 掌を置いた本に影はうなずく。一際異常な本だった。けれど、見つけた場所は拍子抜けするほど。母屋にあった若者らしい部屋の本棚に辞書と一緒に収められていた本。触れるとひんやりとした怖気を感じるそれだった。

「もう、察しているかと思います。それは、人間が読むべき本ではない」

 どこか嘲笑うような声だった。手を差し伸べ、影は動かない。声音からすれば男性だろう。あるいはこの本を見つけた部屋の住人だったのかもしれない。

「……人間?」

 ふと河崎は眉根を寄せていた。影が人間と口にした語調だろうか。非常な違和感を覚えていた、彼は。真っ直ぐと影を見るも姿形すら判然としない。

「それをお読みになったなら、わかるでしょう」

「人ならざるもの、か」

「えぇ」

 優しげな気配が寒気を誘った。これは、確かに人間ではない。こうして言葉をかわしていても、意思の疎通が図れているとは思えない気味の悪さ。滑らかな手さえ、気色が悪い。それを眼前に据えた河崎の頬、蒼白となっていた。

「人間に見えるがな」

 それでも彼はそう口にする。皮肉げに、すでに理解していることを。退けようと言うのではない。戯れにも似て、遥かに真摯。

 ――やつらも、人間に見えた。

 多少小柄だというだけで、人間ではないと誰が疑うものか。それを口にすれば差別に直結する、現代人ならば否応なくそう考える、否、考える以前に思考が拒否する。

 ――それでも。

 心か精神か己の脳か。あれらは人間ではないと悟っていた。拒否するというのならばやつらの存在そのものを。そして、河崎はいま目の前の人影に同じものを感じている、やつらとは違う。だがやはり人ならざるもの、と。

 人間に見えると言われた影が笑う。人間のように冗談を楽しんで笑う影。ぞっと背筋が震えていた。いかに書籍で知識を得ようとも、目にするのはこれほどまでに違うか。

 ――やつらと再会したときの予行演習とでも思えばいい。

 恐怖は、慣れる。嘔吐も頭痛も人外の知識も。人間は慣れる。ならば、慣れればいいだけだ。河崎はまるで訓練するかのようそう心を決める。

「そう見えた方が都合がいい。それだけですよ」

 肩をすくめていた。ならば、やはり。思ったとき影が差し伸べていた手が形を変える。知らず息を飲んでいた。青白い肌はぬらぬらと濡れ、手指の間には水掻きが。鉤爪のついた手を見せつけるよう握ったとき、それは再び人間の手となっていた。目の惑いと信じられたならば。

 ――だがそれは、ここから引き返すも同じだ。

 慶太を忘れ、やつらをのさばらせ。河崎はそれを思うだけで身のうちを焼き焦がされるような苦痛を覚える。死んだ方がましなど、よく言える。そんな生ぬるいものではなかった。生きるも死ぬも同じほど、苦痛だった。

「ご覧の通り、これは皮にすぎないのです」

 ふふ、と影が笑う。河崎を案じると同時に嘲り笑う。

「あんたは……」

「もう読んだのでは? その本に我々のことも記されています。人間は我らを『深きもの』と呼びます」

「……あぁ、読んだ」

「ならばわかるでしょう? 人間は我らにとって餌であり娯楽である。そういうものが、あなたがた人間のごく近くに生きている」

 やつらと同じように。河崎は無理やりに込み上げる唾を飲み込んだ。ぞわりぞわりと忍び寄る悍ましさは、影が正常に言葉を操るからこそ、増幅していた。まして優しげに言うのだから。

「あなたは、まだ人間でいられる」

「どういう意味だ」

「それを読み続けてどうするんです?」

「復讐を」

「人間でいられなくなりますよ」

「ならば――」

「人間であることを捨て、人ならざるものと成り果てても復讐を望むと? それが復讐になりますか」

「誰の手を借りる気もないなら、こうするしかない」

「他人の手を煩わせたくない……いえ、ご自分だけでなさりたい。なるほどね」

 まるで影は河崎を理解しているかのようだった。聞き知っている河崎という男と変わってはいないのだと納得するかのように。

「あなたが復讐したいと望んでいる相手は、あなたがどう考えているかは、知りませんが……」

「神、なんだろうよ。それが神と定義していいもんかは、わからんがな」

「そこまで理解しているなら、殺せると?」

 神殺しなど、人間の身でできるものか。嘲笑う影に反論する気にはなれなかった、河崎もすでに察してはいる。あれが神である以上、殺すはおろか傷つけるさえ。

「それでも……」

「そうしてね、突き進むならば、あなたは借りたくない手を借りることになる。別の神の手に縋ることになる。――その本を読み続ければ神に呼びかける手段さえ手に入る」

「ならばやるまで」

「あなたが思う、というより人間が考える神ではありませんよ? それは、あなたが復讐したいと望む相手と同じかなお悪い相手だ」

「なら、それも殺す」

「別の神の手を借りて? 無限の連鎖ですね。最後にはあなたは自分を殺すことになる。あるいは、それ以前に死ぬか、なお悪いことになるか」

「正直言ってな、どうでもいい」

「どういう?」

「俺は、やつらとその神に一矢報いる。それだけで生きている」

 そのあとのことなど考えられないし考えたくもない、河崎は首を振っていた。今現在のことですら疎かになる自分だ。計画など立てられようはずもなく、無茶無謀とはどこかで理解している。

「俺は突き進むしかできない。狂ってるんだろうよ」

 止まることのできない機械のようだった。自分でそれとわかっている。あれらを殺す、それしか考えられない自分は狂気に飲まれた。わかっていて止められないのだから、狂気というしかない。

「殺せないかもしれない、なにせ神さまだからな」

 皮肉に唇を歪める河崎に影は無言。そそのかすことも止めることもしなかった。

「だが、やつらは殺せる」

「やつら?」

「知ってて話しかけてきたんじゃないのか?」

「さぁ?」

「まぁ、どうでもいいさ。あんたの本によればチョー=チョー人というそうだな」

「あぁ、あれですか。そうですね、殺せば死ぬ。あれは人間ではないだけですから」

 あっさりとしたものだった、影の言葉は。ゆえに、河崎の腹の奥が氷を飲んだよう冷えていた。

「――本を返せというなら、いつかは返す」

「読み続ける気なんですね」

「やつらを殺すためには敵を知らないと話にならない」

「……本当に、聞いていた通りの人柄だな、あなたは」

「なに?」

「別に。独り言ですよ」

 にぃと笑った口許が、なぜかそこだけが鮮明に見えた。男のものにしては甘い口許をしていた。所詮は化けの皮、人ならざるものがここにいる、言葉をかわしている。不意に襲い来る恐慌に河崎は耐えた。影はそれと悟ったか、感嘆の声がかすかに。

「やつらを殺すまで、復讐するまで」

 ここの本を、書庫を貸していただきたい。河崎の厚かましい言葉に影はうなずくでもなく佇む。

「……復讐、ね」

「馬鹿らしいと言ってくれるなよ」

「言いませんよ、そんなものは。気持ちはわからなくはありませんからね」

「人外になにがわかる」

「僕は生れながらに化け物だったわけでもないので」

「……なに」

「ただの余談ですよ。いまはこの境遇に満足している。実にいいものです」

 ほんのりと微笑んだのだろう影の柔らかな気配にひえびえとしてものを覚えた。正に、人ならざるもの。わずかに見せられた手指を思う。

「人ならざるものの神にその身を捧げてでもと決心しているのならば止めません。まぁ、本はお貸ししましょう」

「感謝する」

「……あなたはすでにこちら側に踏み込んだ。それを理解することです」

 理解はしている、河崎は眼差しにその意思をこめて影を見据えた。真っ直ぐと引くことのない目。言葉などに頼るより遥かに正しく通じるだろうと。たとえ相手が人間でなくとも。

「覚悟はできている、そういうことですか」

「そのつもりだ」

 河崎の言葉に、影はからからと笑った。甘いと嘲弄されているようであり、祝福するかのようでもあり。河崎はぞっとその身を震わせる。拳を握り込んで、耐えきった。

「古人曰く、深淵を覗くとき深淵もまたあなたを見ているのだ、とのこと。ゆめゆめお忘れなくお気をつけることです」

「なぜ、俺を気遣う。俺はあんたの家に勝手に入り込んで勝手に本を拝借した身だぞ」

「ではここで正式にお貸しすると約束しましょうか? あぁ、だからといって我々が協力的とは思わないように。僕個人としては、中々に興味深いので用があれば呼んでくれてもかまいませんが」

 方法はそこに書いてあるだろう、影は仄かに笑う。そして、そのときにはお前は人間であることを捨てるのだと。魔術を行使するなど人のなすべきことではないと。それに河崎は大きく笑うばかり。すでに一線は越えていた。

「理由になっていない」

「そう難しい話でもないんですけどね。僕の一族にあなたの無事を願うものがいる、それだけのことです」

「……どういう」

 問いかけは闇に吸い込まれるよう消えていた。影は蕩けるよう失せかすかな笑い声だけが。




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