第8話
三門は学生街のクラブにいた。夜も更けてなお賑やかな、否、いっそう殷賑を極める店の中に。音楽が鳴り響き酒の匂いが立ち込める。あまり程度のいい店とは言いがたかったけれどかえって情報収集にはちょうどいい。
「一月前の事件のこと、知らないかな」
すでに数人の若者に声をかけた三門だった。酒に酔っただけではない酩酊具合を見せるものもいて、内心に違法薬物の噂が浮かぶ。
「事件? 俺は知らないけど、知ってるのはいるよ」
「よかったら紹介してもらえる?」
「あっちにいるから勝手に話しかければいいじゃん。あそこ」
面倒だとばかり指で示されたが教えてくれただけ幸いだ。酒の一杯でも奢ろうとしたのだけれど青年はさっさと踊りに行ってしまっていた。苦笑しつつ教えられた席へ。店の奥まった場所だった。そこだけまるで壁龕のようになった席に五人ばかりの青年が一団となって座っている。
――空騒ぎしてるって感じだな。当たり、か。
口許だけで三門はちらりと笑う。その席の青年たちは酒を飲むたびにグラスを掲げ乾杯を繰り返す。一種異様な光景だった。
「同席させてもらっていいかな?」
現れた男に彼らは嫌な顔をした。だが三門が季刊レムリアの名刺を出すなり目を眇めた数人。ますます当たりだとの感覚に三門は引かなかった。
「記者がなんの用だよ」
全員に三門が酒を奢るとそれでも場は賑やかに。自棄になって騒いでいるような印象が強まった。
「一月前の事件のことを調べてて。あなたがたが何か知ってるかもってあっちで聞いてね。よかったら聞かせてくれないかな」
「誰だよそんなこと言ったやつ」
ぐっと唇を噛む仕種に恐怖を見た三門だった。確かに凄惨な事件ではあった。巻き込まれた人たちの精神的衝撃は計り知れないだろう。が、これほどの表情になるものだろうか。
――何を知ってる……?
一歩、近づいた感覚に三門は笑顔のまま。ぐいとグラスを煽り酒を干し、仲間うちで馬鹿騒ぎをする彼らの目、淀んでいた。
そしてほどなく。三門に引くつもりがないと悟ったのだろう二人が席を立つ。不快げな顔をした彼らを三門は追わない。話を聞くべきは残りの三人。案の定、彼らは顔を見合わせこそこそと囁きかわす。この大音響の中だ、耳に口を近づけて無理に彼らだけで話すのは滑稽でもあった。そのぶん、彼らの恐怖感が伝わってくるかのよう。三門はそっと拳を握る。
「なぁ、記者さんさ」
「うん?」
「警察とか、言わないよな?」
それは通報されては困る事実があると言っているも同然だと三門はそれでも笑顔。薄暗い店内に彼の口許が笑みを刻んだのが見えた。
「もちろん」
「嘘だろ」
「ん、どうして? 通報なんかしないよ?」
「なんでだよ」
「そりゃニュースソースは大事だからね!」
「へぇ、かっけー!」
一気に喜んでくれたのはいいのだが、感情の起伏の激しさが三門は気にかかる。薬物中毒者の取材をした経験もあった彼だが、それとの相似を見た気分。その間にも青年たちは空ろな笑いをあげていた。
「言わないからさ、教えてくれる?」
「名前とか、出さないよな?」
「出して欲しくないならね」
片目をつぶった三門に彼らは空虚に笑った。そして仲間うちでやり取りをし、ようやくに三門にと向き直る。
「いまはやってない。でもさ、前にちょっといい気持ちになるサプリ飲んでて」
「最近は手頃なのがあるらしいって聞くね」
「記者さんだし知ってたんじゃないの」
「別件でちょっと、ね」
「ふうん……まぁ、そのさ。いまはやってないんだけど」
何度も繰り返す「やっていない」の言葉。これは繰り返し使用していたな、と三門は感じる。内心に眉を顰めていた。相楽は薬物の線はないと否定していたのに、ここでこうして話題が出る。無関係とは思えなかった。
「そういうのってさ、誰から買うの?」
「サプリ? 俺は留学生から買ってた」
「へぇ、留学生かぁ。学部が一緒だったりバイト先で知り合ったりとかかな」
「そうそう。女の子受けのいいカフェがあってさ、そこのバイトから買ってたんだ。みんなそうだよな」
「うん。閉まっちゃったけどな」
「あれでバレたんじゃね?って思って……」
口々に言う彼らに三門は笑顔のまま背筋を凍らせていた。閉店したカフェ、ブラックロータスに違いない。それとなく聞いてみれば正解だった。
「それにさ……三門さんが調べてる事件の犯人がさ」
「あのサプリ使ってたやつだよな、あれ」
「だいたいそうだったと思う。全部知ってるわけじゃないけど」
響きわたる音楽の中、聞き取りにくい彼らの言葉。三門はテーブルの下でそっと拳を握ったつもりだった。けれど予想外に痛みを覚える。まるで彼らの恐怖が伝染したかのよう。
「それで止めたんだ?」
問いに揃ってうなずく彼らは本当に軽い気持ちで「サプリ」として楽しんでいたのだろう。それはそれで恐ろしい話だが。
「どんなサプリだったか、聞いてもいい?」
「うーん。幻覚系、かな」
「すっごい強烈なの」
「めっちゃ跳ぶんだ」
「それがちょっとさ……怖くなかった?」
一人が言えば渋々と、だがようやく怖いと言えたのだろう仲間たち。ほっとかすかな息をついたのが三門には見えた。
「なんつーか、効果の出方が半端なくて。それがけっこう怖くって」
「でもさ、腰抜け扱いされるのイヤだし」
「何度もやってると怖いのに止められなくて」
「急にさ、わぁーっ!ってなるんだよ」
拙い語彙ながら彼の感じただろう恐怖感が三門には理解できるつもりだった。取材の経験から察することはできるつもりだった。そう、思っていたのだが彼らの顔を見ていると足らない、痛切に感じる。
「……人殺ししたくなった」
低い声。よくぞこの店内で聞こえたものだと思う。腹の底に氷を抱えたかのような感覚に三門の口許がかすかに震えた。これだ、と悟る。これが事件の裏側にあったものだと。
「あいつら、あのサプリのせいで事件起こしたに決まってるんだ」
「俺だってあんな風になってたかもって思うと――」
「狂ってる。狂ってた? どっちだろ。どっちも一緒かも。ヤク中がナイフ振り回して暴れたのと一緒じゃん」
ははは、と乾いた笑い声。彼らはそれでもサプリと言いたいのだろう、否、言わねば己が立たないのだろう。三門にそれを追及するつもりはなかった。
「うーん、そのサプリさ。まだ持ってるのあったりする?」
もし現物が入手できれば。そう思ったのだが、ふと疑念がよぎる。こうしてほんの一手間で手に入れることができた情報。相楽がなぜ知らなかったのか、と。
――彼らが言うことが事実なら、薬物反応が皆無ってのも、わからない、な。
三日も経てば反応が出なくなる薬物は多いが、彼らの口調から察するに常用していた形跡が充分に窺える。反応が出ないとは考えにくい。
「……あるよ」
口ごもった一人が、周囲を見回しポケットに手を突っ込む。持っているのだろう、今、そこに。それから三門にちらりと視線を向ける。心得た彼は黙ってテーブルの下でそれを受け取った。
「頼むから通報とかしないでよ。それサプリだし」
「もちろん。約束したでしょ?」
「うん……だけど、さ」
「絶対言わないから。大丈夫」
にこりと微笑んだ三門に彼らは力なく笑う。信じるしかないだろう。それ以上に「サプリ」を手元から離せて安堵している様子だった。
彼らに礼を言い、一旦店を出た三門は周囲に気を配りつつ別の店へ。そこでも取材を敢行したけれどあの店ほどの成果はない。得てして当たるときには最初に当たるもの、ということか。
万が一を懸念して別の店のトイレの個室で渡されたサプリを観察した三門は怪訝な顔になる。真っ黒い錠剤だった、それは。
――口に入れたいようなモンか、これ?
少し変わった錠剤、というようなものではなかった。色ではない、何と言えればここまでの感想は抱かないに違いない。三門が感じたのは、禍々しさ、だった。
――強烈な幻覚。人殺しをしたくなる、か。
この薬によって、犯人たちが殺人に駆られたのだとしたら。時間を決めて服用させてもいい。そうすれば、事件発生時刻はある程度操ることが可能なのではないか。
――そんな薬が、あるのか? 人殺しをしたくてたまらなくなる、なんて。
それがいまこの瞬間自分の手の中にある悍ましさに三門は知らず震えていた。雑誌記者として凄惨な事件の追跡取材は慣れているはず。それなのに、これは違うとの思いが消えない。消えないどころか薄れもせずいっそ濃厚に。
――相楽さんが知らなかった? ないだろ、これ。薬物中毒者が起こした事件、で片付いたはずだ。
一斉検挙のために隠蔽している、との考えも浮かんだがすぐ消えた。ある程度の信頼関係は構築できている。相楽は口止めするだけでよかった。
同時に、どうあっても不可解な事実。カフェ閉店と結びつかないのに、三門は間違いなく関係していると直感している。真の主犯はブラックロータスだと。それに言い知れぬ恐ろしさを感じていた。
いつまでも考えていても仕方ない。数件まわったところで今夜はここまでとして三門はホテルに戻る。夜更けというより未明になりつつあっていささか眠たくもなっていた。
黒い錠剤、閉店したカフェ、殺人衝動とでも言うべき中毒症状。ブラックロータス店内にあったガネーシャ風の彫像、そして。
――けーちゃん、どこにいるんだろ。
もしかしたら、との希望がなかったわけではなかった。クラブでの取材で三門はそれとなく店内を見ていた。彼がいるのでは、と。そんな都合のいい偶然は起こるはずもなく。そっと溜息をつく。
――ついでに写真見せればよかったな。失敗した。
あの場の彼らならばもしかしたら知っていたかもしれない、今更思い至って悔しい。そのせいか、路地から出てきた人に気づかず思い切り体がぶつかった。
「あ、すみません!」
陶器が落ちたような音がして三門は慌ててそれを拾おうとする。その手が止まった。見覚えのある造形。脳裏に浮かんでいたあの彫像。
どういうものなのか。問おうとして相手を真正面から見た三門は唐突な吐き気に襲われていた。
それはひどく小柄な男だった。スーツに帽子をかぶった目立つ姿より背丈の低さが目に留まるのは、見掛けではない異様さを感じるせいか。これが学生が言っていた男だと悟り、確かに人間ではない、言いたくなった。その思いに蒼白となった三門に向け男は驚愕の叫びを。
「ナぜ生きテいル!?」
抑揚のおかしい口調だった。けれど三門を衝撃に叩き落としたのは言葉の意味。
「あんた、守谷慶太を知ってるのか!?」
生きているとは、どういう意味だ。この顔を見て、それを言うとは。三門は考えたくなどない。だが、考える隙もない。舌打ちをした男は内ポケットからナイフを抜き放ち真っ直ぐと向かって来た。
――躊躇がない!
手慣れているなどというものではなかった。あの錠剤が脳裏をよぎる。人殺し。相手の目を見る。少なくとも薬物中毒の目ではない。それが肝を冷やした。
「ちっ」
咄嗟にバッグでナイフを弾く。ざくりと布の切れた感触に三門はぞっとしていた。脅しだと思っていたわけではないが、確実に殺される、その恐怖感。
「死ネ」
立ち居振る舞いを見れば薬物中毒ではないのはわかる。それなのに男には狂気があった。ナイフをかわし続けるにも限度がある。三門は意を決し反撃に出た。
よもやと思っていたのか。男は無手の三門が戦う術を持っているなど想像してもいなかったのだろう。目が見開かれ、唖然としたその眼差しが下へと。自らの腹部に入った三門の拳。鳩尾を抉られ男は呼吸もできず崩れ落ちた。
「舐めんな馬鹿野郎」
ふんと鼻を鳴らしたときだった。男がにたりと笑んだのは。息もできないはずの男はナイフを投げる。三門には掠っただけ。それでも男を殴った拳に傷はつき、血が一滴、滴り落ちた。
なぜか、あとになっても理由はわからない。三門は知らずそれを目で追っていた。流れた己の血を。それは、そのまま、アスファルトに落ちず、空中を滑るよう彫像へ。そして、彫像の鼻の先が血を舐めとったかのよう、血が消えた。
酷い眩暈にわななく唇。男の高笑いが響く。叫びたい気持ちを抑え三門は相楽に連絡を。
「よかったのか……」
あれから数日。男は相楽が手配した警官の手によって逮捕されていた。三門が簡単な聴取を受けただけで済んだのは相楽のおかげだろう。
相楽からは礼の言葉と謝礼金の振込があった。これで事件解決に向かうよと朗らかな彼の声音。三門は応じつつ、違和感が拭いがたい。
三門の手にあの黒い錠剤はある。相楽には知らせていない。そして親類の消息も知れないまま時間だけが過ぎていった。
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