第7話
日向が調べてきた情報に河崎は眉を顰める。その代わり口許には笑みが。裏腹なそれに日向は背筋が寒い。同じようやつらを殲滅する、そう考えていても立つ位置が違う、河崎はここにいてここではないどこかにいる、そんな気がしてならなかった。
――けーちゃんが信頼した河崎さんて、どんな人だったの。
このような顔をしたのか。内心に問い首を振る。あの写真に写っていた河崎はいまとは別人のよう。彼の横顔を見つつ日向は腕を撫でさすっていた。
「儀式、か……」
それが日向が掴んできた情報だった。彼曰く学生バイトから聞いたとのこと。
「それは、人間か。いや……区別がつくか……」
日向にそれができるかどうか危ぶむ河崎に彼は黙って肩をすくめる。わからないはずがないだろうというように。それで河崎も思い出す、人間と人外の異形と。かつての自分も見てすぐさまに悟ったものだった、と。
――そんな記憶も遠いな。
むしろやつらにこそ、近いものに成り果てている己と河崎は弁えていたのかもしれない。そこまでしてもあれらを殺し尽くす、それだけのために。心の奥底、黒き使者の名を唱える。祈りのようでいて、脅しのようでいて。河崎自身にも判然としなかった。
「踊れと言うなら踊るまで」
「河崎さん?」
「いや、こちらの話だ。――少し調べてみよう」
すらりと立ち上がった河崎は書架の前へと。日向にはどこに何があるかもわからない。河崎は目を閉じていてもわかると言わんばかり。
「河崎さん、片目で本読むの、不自由じゃないんですか」
「慣れた」
取りつく島もない返答に彼がこの魔書に耽溺してきた時間を思う。河崎の背中を見つつ日向は手の届かない何かを見ている気分になった。
「儀式、という言葉はわかりますが、何をするつもりなんですか、やつらは」
「聞きたいか」
「はい」
返事をしたときには日向は悟っている。慶太がそうされたよう、新たに誰かが狂わされるのだと。そして象神に喰われるのだろう。ぞっと身を震わせる日向に気づかず河崎は目当ての本を取り出していた。
「手伝います。と、いっても何をすればいいかわかりませんが」
「辞書、頼む」
河崎の切迫を返答に聞いた。躊躇も逡巡もなく辞書を手渡してくる彼。受け取り日向は待ち構える。本当は、逃げ出したい。不意にそんな気になった。もっと早くそうなるべきだったのだろう。今更ながら恐怖が染み込んでいた。
薄暗い蔵には煌々と照る明かりなどない。二人がいる机の上に頼りない電灯が灯る。河崎は本に映る己の影に舌打ちをしつつ目だけは文章を追うことをやめなかった。
――すごい。
日向にはその本が何語で書かれているのかも見当がつかない。渡された辞書はラテン語で、だからおそらくはラテン語で書かれているのだろう。が、覗き込んだときにちらりと見えた単語は英語のようでもある。
時折無造作に河崎はメモを投げて寄越す、単語を引けという意味だろうと日向は無言で辞書を調べる。要領がわからず河崎に聞くこともあった。少しずつ日向が慣れはじめたころ、河崎の唇が吊り上がる。
「だろうな、まったく。あぁ、その通りだろうよ」
喉の奥で笑う河崎を日向は見ていた。否、見ているしかできなかった。次第に彼の笑いは大きくなりついには哄笑へと。蔵の中に響きわたり反響しては淀んで降り積もるかのよう。
「何かわかりましたか」
だが日向は怯まなかった。椅子に座っているのがやっとの恐怖感、それは確かにここにある。その感情が凍りつくほど、河崎の目が。こちらを見やった河崎はにぃ、と笑った。
「いい情報だった」
相楽に何度言われだろうか。日向はぼんやりと思う。現実感が徐々に、徐々にと薄らいでいく不安感。河崎だけが確固とここに。
――違う、けーちゃん。
河崎の眼差しにかきたてられた憎悪。大事なはとこを殺された怒りというも生ぬるい感情。気づけば日向も笑っていた。
「所詮は蓋然性の問題だが。明後日、だろうな」
「明後日――」
「この異形どもは――」
拳の背で河崎は本の表紙を叩いた。ひどく湿った音がして、到底書籍のそれとは思いがたい。
「星の導きとやらに左右されるらしい」
「はぁ? 女子高生ですか」
「あぁまったくだ。が、事実だ」
「今日は獅子座がラッキーだから儀式に最適、とか。冗談でしょう」
「そこまで頓狂な話じゃないがな、似たようなもんだろうさ」
肩をすくめた河崎に事実と知る。身近な星の巡り。天文学であり占星術であり。それが、あの輩の動きを左右するとは。日向の所属する季刊レムリアにも占い記事は載せている。それだけ身辺に馴染んだものが、いま覆る。
「つらいか」
震える体を抑えかねて両腕で自らの体を抱いた日向に淡々とした河崎の声。日向はうなずくでもなく彼を見る。ぞっとするほど透明で同時に身震いするほど淀んだ彼の目。
「河崎さんは、ここに立つまで、どれだけのものを犠牲にしたん、ですか」
「なにも。なにひとつ。失うものはあの晩にすべてなくなった。やつらに奪われた」
「けーちゃん……」
祈りの文句のよう日向は口にする。そうすることで震えよ止まれと。事実、面白いように止まった。知らず唇から笑いが漏れる。
「続けるぞ」
「はい」
「やつらは明後日の晩、儀式を行うだろう。定期的なもの、と考えていい」
「なぜですか」
「そうしないと、自分たちが神に喰われるからだ」
「な……」
「神と言い信仰と言う。その言葉の概念は忘れろ、せめて違う論理で語られるものと認識しろ」
「そんなものは信仰ではない、なんて言っていたら負けますね。えぇ、その通りだ。それが信仰だろうが祭りだろうが知ったことじゃない。止める、それだけだ。ですよね?」
にっと笑った河崎に日向もまた笑みを。歪みきったがゆえにかえって澄んだそれ。慶太の復讐が、やつらを殲滅できるチャンスが手に入る。いつしか二人揃って大きく笑っていた。
「さぁ、河崎さん。どうやって乗り込みますか」
「武装を整え万全の態勢で」
「武装? 無意味でしょう」
チョー=チョー人とやつらの神チャウグナー・フォーン。それらを河崎の翻訳とはいえ読んで理解した日向の訝しげな顔。河崎は再び立ち上がり、日向を振り返る。
「ついて来い」
蔵の奥へと行く河崎に日向は躊躇なく従った。自分など世界の真実を知ったばかり。だが河崎は慶太の死から五年、研究に研究を重ねたのだろう、この書庫で。周囲を見回せば本だけがある。時間と埃とかすかな臭気。饐えた肉のようでいて乾ききった骨のようでもある。河崎の歩みに空気が動き、漂う臭いはまた変わる。今度は夏の漁港の腐った魚の臭いに。次々と変化するそれらに日向は顔を顰めつつ彼の背を追う。
書架の間を抜け、奥へ奥へと。最奥には小さな階段があり、蔵の二階へと続いていた。
「足元に気をつけろ」
それだけ言ってさっさと上がっていく河崎だったが、案じられた日向は舌にえぐみを感じた。
――けーちゃんに言ったんだ、いまの。
河崎の背中がそれと語っていた。舌打ちをせんばかりに無言の背中が。
そして日向が上がりきったとき、ぼうと明かりが灯る。光源はと見れば言葉を失った。河崎の手が光っている。明かりを持っているのではない、彼の手の上、明かりがある。
「魔術だ」
皮肉な口許だけがはっきりと見えた。日向はうなずくしかできない。その中で思う、これが河崎の対抗策なのだと。それと知れば頼もしいばかり。日向の唇が笑みの形になっていた。
手に光を灯し河崎は積み上げてある箱を開けていく。様々な実験のための道具類が収めてあった。河崎が持ち込んだもの、はじめからあったもの。久しぶりに元の住人を思い河崎はかすかに笑う。
「武道の心得があると言ったな。ナイフは使えるか」
「……多少は、と言っておきます」
「遠慮がちなものだ」
くつくつと笑い声をあげた河崎は今更常識かというよう。それと感じて日向も苦笑していた。
「やんちゃしてた時期もあるので、それなりに使えますよ」
「……妙なところまで似てるもんだ」
「……えぇ」
投げ渡してきたナイフを宙で受け止め日向は鞘から刃を抜き放つ。河崎の手の光だけのここで、ナイフは鮮烈に反射していた。
「これが?」
「神には効かん。それは覚えておけ」
「つまりチョー=チョー人は殺せるということですね。わかりました」
「神にもまったく効かないわけじゃないがな」
「そうなんですか?」
「傷くらいはつけられる……かもしれない、という程度だ。頼ると死ぬぞ」
「肝に銘じます」
慶太のように死ねば河崎が何をしでかすか。そちらの方こそ日向の背筋を凍らせる。
「チョー=チョー人は人間と同じだ、体格が悪いぶん――」
「楽に殺せる」
にぃと笑う日向に河崎は険しい顔つき。そんな気持ちでは逆に餌食になるばかりと。小柄な相手と侮った五年前が河崎を苛んでいた。
「こちらは二人だ。やつらは大量にいる、と思っておけ」
「……わかりました。どれくらい?」
「五年前は十人弱というところだったな。なにより、神がいる」
ぞわりとした。日向だけではない、河崎もまた。あの情景を鮮明に思い出せばそうもなる。寒気で済むようになった己を嘲笑する余裕すらあったのが過去との差異。
「わかりました、気をつけます」
どう気をつければいいのかはわからなかったが。所詮は人外との対決、場当たり対応の方がまだましだ。何を考えても無駄だと思えばこそ。
「河崎さんはどうするんですか」
「準備だ。手伝ってもらうぞ」
「なんなりと」
よもや、日向は想像さえしたことがなかった。こうと知っていたら同意しただろうか。動かない体で必死に息をする。極度の疲労が日向の肉体を襲っていた。
「眠れ。すぐによくなる」
言われて目を閉じる。浅い呼吸が次第にゆったりとした寝息に変わっていくのを聞きつつ河崎は魔術を準備していく。日向のおかげで己だけでせずともよくなった。これで儀式には間に合う。
「慶太、もうすぐだ。もうすぐ帰るからな」
あの地下室に。河崎は囁きつつ魔術をかけるための手はずを整える。ともすれば視線は眠る日向に向きつつ。
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