第10話


 うっとりと。至上の歓喜を我が身一身に浴びているかのよう。畏れ敬う神に何かを吸われ、チョー=チョー人は。干からびる、日向はそう思った。吸われたならば、それが道理と。だがしかし、ここはこの世の論理の通じる場所ではなかった。小柄な体は吸い尽くされ、見る見るうちと萎び、そして。

「……ひっ」

 悲鳴が漏れたのにも日向は気づかなかった。男が、変わって行く。河崎も見ていた。否応なしに目にした。あの晩と同じ、慶太と同じ姿へと変異していく男を目の当たりにした。

「醜悪な……」

 ぬたり、河崎が嗤っていた。元が違うからか、慶太の方がずっと本人の姿形が残っていた。慶太、とわかった。いまの河崎、はそれを愛おしくすら感じる。かつての河崎、ならば悍ましく思ったことだろうに。

 河崎の目に浮かんだものか言葉か。日向は心底理解した。いま、自分は慶太を狂わせた事象を我が目で見ているのだと。唇からあがる悲鳴は声のかたちにすらならなかった。喉が振り絞る掠れた息。ナイフを掲げ日向は走り込む。

 それを止め得る敵が、いなかった。日向のナイフに、河崎の魔術に数を減らされたチョー=チョー人は日向の前にはもういない。我らが神を守らんと日向に殺到するも遅い。

「死ね――死ね死ね死ね――っ」

 声の限りに張り上げては日向はナイフを。河崎は言っていたではないか。神にも効く、と。それで殺せるとは思うなと言っていたことまでは浮かばなかった。

 異形の顔色がわかるものなのだと河崎は薄ら笑いを浮かべて見ていた。神に届かんとするナイフ。口々に叫ぶ人外の者共。ナイフは、いかなる彫像に当たった音でも、どんな肉体に命中した音でもない異音を立て、象頭の神へと突き刺さり。

 大気が震えた。それは、あるいは神があげた声であったのかもしれない。痛みか、それとも不快か。目障りなものを弾き飛ばそうと触肢を振り上げた、正にそのとき。

 どん、と神が揺らいだ。見れば口にあのペンダントを咥え詠唱していたのであろう河崎が。両手を突き出し、神に向けて無垢なまでに笑っていた。神が揺れた、それを目にした河崎の口からペンダントが落ちる。彼の血に濡れていた。

「やった。やったぞ、慶太。見ていたか、やつも傷つく。生きている。生きているなら殺せる。あぁ殺せるんだ傷ついたくらいだ殺せる殺せるんだそうだろう慶太もうすぐだお前を狂わせたやつらを皆殺しに」

 たかが掠り傷。神は健在というもおろか。狂った河崎の哄笑が不意に途切れた。彼の狂乱に当てられた日向が棒立ちになったわずかな隙。

「あ――」

 ぽかんとした日向の声、歓喜の極みにいた河崎へと伸ばされていた神の鼻が。振るわれたそれが、河崎を捕え巻きつき。

「慶太、慶太――ははははは、はは、はぐ……ぁ」

 巻き締められた河崎の唇から血がこぼれた。喜びの絶頂にある河崎の肉体が締め上げられていた、長い鼻が彼の体中に何重にも巻きついて。

「あ、あり得ない……そんなに長くない……そんな馬鹿な……」

 震える日向の手が縋るようナイフを握った。汗で滑るそれが手の中で冷たい。

 ごり、ごり。と、音がした。日向にまで、聞こえてしまった。河崎の肉体から聞こえる音は紛れもない、骨の軋む音。河崎が見上げた神の目は嘲笑っていた。遠からず己は死ぬ。体中の骨を砕かれ死ぬ。

「死ぬ、なら……まだ、マシ――だ」

 にぃと笑って象頭の神を睨み返す。玩具のように変異させるのならばやればよし。その前に死んでくれると河崎は笑う。口から血をあふれさせ、鼻から逃れようと足掻きつつ、それでも覚悟を決めて彼は笑う。

「河崎さん――」

 首だけ振り向けた。もうそこしか動かなかった。見れば動いている敵はいない。まだ生きているらしきものも床にのめって動けない。

「河崎さん!」

 駆け寄ってくる彼に河崎は首を振る。こちらに来るなと。止まらない彼を思い留まらせようと、言葉を絞り出す。

「来る、な。慶太、来る、な」

 河崎の目にすでにそれは日向ではなかった。在りし日の慶太が自分を救おうとする姿。ぞわりと神が笑う。そして河崎の目にいっそう鮮明な慶太の姿が。

「だめだ慶太、来るな、慶太――ァ」

 無理に足掻いた。骨が砕けた。慶太に向けて手を伸ばす。止めようと。来るなと。その腕がごきんと音を立てて鼻に砕かれた。袖はあっという間に血に汚れあらぬ方へと曲がる腕。もう一本の腕を伸ばす。同じことになった。ぶらんぶらんと揺れる腕を神は鼻先で弄ぶ。痛いと感じることもなかった。河崎の手から落ちた銃がひどく重たい音を立てて床へと転がった。

「河、崎。河、崎さ、ん」

 目の前で人間が折り砕かれていく。血塗れの塊になりつつ河崎の目だけがいまだ自分を、否、慶太を見ている。必死の形相に日向はだから止まれない。銃を拾い上げ、それから。

 思った以上に重たくて戸惑った。引き金に指をかけ、困惑した。撃つべきは、どちらだ。神か河崎か。その逡巡をつくようだった、地下室の扉が開いたのは。敵の増援か、日向の顔が強張り河崎の視線もまた扉へと。

 二人は見た。なぜここにと考えることもできなった。味方と思うこともできなかった。ただ、なぜ、とばかり。

「あぁ、やっぱりねぇ」

 惨状など目に入っていもしないかの相楽だった、それは。地下室を見回し肩をすくめる。ようやく日向の思考が動き出し、安堵しかけたのも束の間、相楽の視界に入ったチョー=チョー人どもが総じて震えた、あまつさえ利かない体を無理に動かし神の傍らへと這い寄ってはその陰に隠れようと。

「はい……?」

 自分はいま、なにを見ているのか。自分のあげた声が耳に入り、脳の中で反響する。握った銃の重さがなかったら日向は座り込んでいたかもしれない。重たくて、重たくて、それで立っていた。

「呆気ないものだねぇ。せっかく見つけた面白い人間だったのに。脆弱で矮小で果敢ない。あまりにも果敢ない」

 一歩、また一歩と相楽が歩みを進める。あの神が目に入っていないのだろうか。日向の眼差しなど気にした風もなく相楽は捕らえられた河崎を覗き込む。象頭の神もまた、動きを止めて相楽を待つかのよう。

「残念だねぇ、河崎警部」

 嗤う声が地下室に響く。それは、笑い声だったのだろうか。日向にはそう聞こえなかった。ではなんだと問われてもわからない。異質で異常で、この世のものならざる何かが。

 ――あれは、この意味、だった。

 いまにして、日向は理解する。河崎へとペンダントを託した青年の言葉。本当の敵。見誤るな、彼の言葉が。相楽を見上げた河崎が歯噛みしていた。

「惜しかったねぇ。三門さんがせっかく疑いはじめてたのに」

 喉の奥で相楽が嗤う。ちらりと日向を見やった目に、映りたくない。日向は動けもしないのにそう思う。

「しら、べて」

「そうだねぇ。もし三門さんの言葉をちゃあんと聞いて調べてたら、たどりつけたかもしれないねぇ。阻止できたかもしれないねぇ。あのときと同じだね、河崎さん。突撃して、あの子は死んだんだってねぇ。あぁ、その手で殺したんだったか」

 相楽の眼差しは日向へと向かったまま。河崎には慶太に見える男へ向かったまま。河崎は足掻く。また骨の折れる音がした、気にも留めなかった。だが鼻は外れも緩みもしなかった。

「こ、公安の人が、なに言ってんの。相楽さん――」

 これは本当に相楽か。日向は疑いたい。できることならば、疑えたならば。否も応もない、神経が精神が脳が日向の存在が、これは自分が知る相楽に他ならないと悟っている。人間ではない、この相楽の形をした、相楽に違いない何かが、相楽であるのに人間ではない存在が。

「三門さんも面白かったねぇ。よく泳いでくれて。本当に楽しかった」

「なに、相楽さん。なに? どういうことなになんなの意味がわからない相楽、さん……?」

 にこりと相楽が笑顔を作った。日に焼けた闊達で遊び上手な男が作った笑み。それが次第に変わる。別の表情にではない、姿形が、変わっていく。別人へと。

「え、あ。待って――え、待って相楽さん」

 ごりんごりんと音がする。河崎が自らの骨を折り砕き「慶太」のために拘束から脱しようと。それを眺めつつ、相楽は変わった。日向が知る顔へ。

 それは、五年前に取材した都津上大学ラグビー部主務の顔。それは、コンビニ前で取材した会社員の顔。それは、儀式の情報をくれたアルバイトの顔。検索サイトのロゴにも相楽は変わる。無機物なのにそれもまた相楽だった。

「踊らさ、れ。て――」

 取材相手はすべて相楽だったのか。相楽が与えたい情報だけを与えられ、どう動くか観察されていたのか。実に楽しげに相楽は笑っていた。

「そう、こんな顔だった」

 河崎を瞥見した彼はまた別の姿へと。日向に似て、日向ではない姿。慶太へと。河崎の目が見開かれる。鼻が河崎を締め上げる。かっと開いた左目から血に濡れた義眼が落ちた。虚ろな眼窩から血をこぼし、河崎は叫ぶ。声になどならないそれではあった。慶太の姿が、あのときと同じよう変異していくとあらば。耳は肥大し、浮かび上がる血管は触肢めき、鼻は伸び。嘲る顔だけが違う。

 不思議と日向は見たように思う。聞いたように思う。相楽の視線が床に落ち、ペンダントへと向いたのを。

「あれらはこう動いたか、興味深いねぇ」

 くかか、嗤笑する相楽。その影が踊る。淫靡に猥雑に。河崎の目が愕然と。

 轟と河崎が吼えた。それは象神の意志だったのか、それとも別の意志が働いたのか。緩んだ束縛から抜け出した河崎の体はかつてと同じよう動く。慶太の首へと歯を剥いて、肉を噛み破らんと。

 日向もまた動いていた。手にした河崎の、否、慶太の銃。安全装置は外れている。引き金を引けばいいだけ。震える手で銃を構え。

 そして首筋を噛み切ったのと発砲音が、同時だった。




 ――どちらが当たったのか、わからない。やつは膨れ上がり爆散し――異形で異質で悍ましい化け物の姿になったSは、そのまま消えた。

 あれが本当にSだったのか、記者にはわからない。何者かがSと入れ替わっていたのか、それともはじめから、あれだったのか。いまとなっては調べようもない。現場に踏み込んだ捜査官Kの行方もわからないままだ。あの日の記憶は曖昧で、記者にもいまだ理解が及ばないことが多くある。

 あれは、何者だったのか。この上なく悍ましく禍々しくあり得べからざる存在が故に、あれは、あの化け物は美しくもあった、魅せられもした。

 あれは、何者だったのか。外世界より飛来せし神の一柱、そう言われたならば記者は、信じる――

 ことんとペンを置く音と同時に扉が開き日向は振り返る。ほっと息をついて彼は笑顔だった。

「あぁ、すみません。編集長。いま書き上がりましたから。もうちょっとしたらチェックお願いします」

「わかったよ、根を詰めないようにな」

「はい」

 満面の笑みを浮かべた日向にうなずき、男は入ってきたばかりの扉から出て行った。

「先生、どうですか」

「今日はご機嫌がいいみたいでしたよ。また、あの記事を書いてましたがね」

「繰り返し何度も何度も……なんだか、なんと言っていいか……」

「あなたはプロでしょう、真に受けてどうするんですか。患者さんのためにしっかりしてくださいよ」

「あ、はい。すみません、先生。――あら、相楽さん。お見舞いですか? いま先生がお顔見てらしたところよ。今日はずいぶん良いみたい。日向さんも幸せね、こんな風にしょっちゅうお見舞いに来てくれるお兄さんがいて」

 ありがとう、微笑む男を精神科病棟の医師と看護師が見送った。


 ――あの日から、記者の頭にこびりついて離れない音がある。忌まわしいフルートの音色が、悍ましい太鼓の響きが。あぁ、これはなんだ。いあ、いあ! 私の脳に染みついた呪文のようなこれはなんだ。いあ、いあ、にゃるらとてっぷ。太鼓が轟く。足音が。来るな、俺にかまうな。フルートが鳴り響く。足音が、足音が。いあ、いあ、にゃるらとてっぷ、いあ!――




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囁く闇 朝月刻 @asagi_ryo

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