第3話
どこかで察しては、いた。慶太がすでにこの世の人でないことは。日向にもわかっていた。けれど、こうして聞かされると胸に迫るものがある。
「けーちゃん……」
あの仄かな笑顔はもう見ることができないのか。そんなことを思った。自分といるときだけ、二人でいるときだけ笑った慶太。日向の目に涙が張っていた。
「慶太を殺したのは俺だと言った意味がわかっただろう」
河崎は意図してその唇に触れる。この口で、歯で慶太の首を噛み破ったのだと。この口の中に慶太の血があふれたのだと知らしめるように。それに日向は首を振る。
――認めたくないか。
苦く思う。人が人の首を噛み切るなど、想像もできない事象だろう、日向には。死んだことさえ認めたくないだろう。そう思った河崎だが日向は真っ直ぐと彼を見つめた。
「けーちゃんは……」
それきり、だが言葉にならない彼だった。思うところはありすぎて言葉がうまく出てこない。人間らしい態度だと河崎はうなずく。こんなとき人間はこんな顔をするものだと思い出す。
「慶太を殺した俺が復讐だとかおこがましいがな」
やつらを許す気は毛頭ない、ゆえにお前は退け。そう言ったつもりの河崎が目を瞬く。
「それは違います」
いままでの逡巡が嘘のような日向だ。断言し河崎を見つめる、否、見据える。眼差しの強さに河崎が唇を引き結んだ。
「けーちゃんは殺されたなんて思ってない」
「知った風な口をきく」
「俺は慶太のたった一人の親類です。慶太が信じてた一人だけの血縁です。だから、わかりますよ、けーちゃんがなに考えてたかくらい」
歪んだ唇は笑ったのかもしれない。無理をして、いまだ衝撃は強いだろうに。日向はただ強靭な眼差しで河崎を見ては言う、慶太が感じていただろうことを。
「……何が言いたい」
慶太を大事に思っていた人間の思いが河崎の心を揺らしていた。己にそんなものが残っていたと驚くほど強く。視線を伏せたのは河崎の方。その目の前に日向が再びスマホを押し出す。
――慶太。
先ほどはよく見ていなかった写真。ブラックロータスだろう。若者が行くカフェでドリンクなど似合わないと顰め面だった自分がいたはず。慶太は適当に買ってきましたよ、と笑いながら河崎好みのものと自分用には甘い苺味のドリンクを買っていた。
――若頭補佐が飲むようなもんか、まったく。若いもんに示しがつかないだろうに。
今更気づく。だから、自分とだったのだと。河崎と共にあるときだけ、慶太は年相応の青年でいられた、いたかった。甘え、だったのだろう。
親には放置され教師は頼りにならず。誰からも見捨てられて一人きりだった慶太。悪い道に嵌まり込んで河崎に出会った。
――そう、思ってたんだがな。
慶太が死んではじめて河崎は彼にも心を許せる血縁がいたのだと日向を見て知る。たかだか血縁、河崎だとて親戚のことなど気にしたことはない。だが慶太にとっては違っただろう。親に見捨てられた慶太にとって、血の繋がった日向が懐いてくれるのはどれほどの救いだったか。
「けーちゃんの顔、見えますよね」
呟くような、それでいて突き込んでくる日向の声。河崎は黙ってうなずく。穏やかに笑う慶太の顔が写っていた。
「信じてたんです、河崎さんのこと。俺だってけーちゃんのこんな顔見たことないです」
「そう、なのか?」
「けーちゃんにとって俺はたぶん、弟みたいなものだったと思います。俺が甘えるばっかで、けーちゃんのことを助けてあげられたことは一度もない」
悔いになっていた。幼すぎて、若すぎて、慶太の苦しみなど少しもわからなかった自分の過去。両親が邪険にするのが嫌で大好きな兄のような男だった。
「だったら、けーちゃんにとって河崎さんは? 兄のような存在だったんじゃないかと思います」
――ご無沙汰してます、ご活躍はこちらまで聞こえてますよ。兄貴。
屈託のない慶太の声が耳に蘇り河崎は体を強張らせていた。我知らず拳を作る。酷く痛んで爪が食い込んだと知った。
「けーちゃん、そいつらになんかされて、気が違ったんですよね。だったら、狂った自分のままでなんかいたくない。そう思ったに決まってる」
「だからといって」
「だから、河崎さんに決着つけて欲しかったに決まってる。河崎さんだったら、ちゃんとしてくれるって」
「それで殺されてりゃ世話はない」
「違う、そうじゃない。河崎さんだから、殺してくれるって、慶太はそう思ったんですよ、なんでわからないんですか!」
本当はわかっているはずだ、日向は唇を噛み締めて河崎を詰る。認めてくれと、慶太の望みだったと。
「……こうやって、河崎さんが自分を責める。それだけがけーちゃんの心残りだった、と。俺はそう思います」
「知った口を叩きやがって」
ぎょっとしていた、日向は。哄笑、だろう。それは。河崎は驚くほど大きく笑っていた。歪んだ目をしたまま、熱に狂ったよう彼は笑う。
――怖くはないな。
自分も同類なのでは、と日向は苦笑していた。慶太の決着がつかねばどこにも行けない場所に立っている。退けと言われて退けるのならばこんなところにいなかった。
「けーちゃんは、慶太は、安心してたはずです。河崎さんごめんって。ありがとうって」
笑い続ける河崎の耳に、それは慶太の声のよう聞こえた。あの安堵の表情を思い出す。必要がないくらい焼きついた顔を瞼の裏に浮かべる。
「慶太……」
懐に納めた彼の銃を服の上から押さえた。体温が移ってぬくもりを帯びた気がする彼の銃。哄笑がかすかな笑みになったのを日向は見ていた。
「河崎さん」
「慶太のことは、これで終わりだ。事実は全部喋った。だから」
「帰りません」
「おい」
不快そうな河崎に日向は貫く眼差し。相楽の協力者として彼はどれほど有能なのかと河崎は苦笑する。記者であり、この気概がある。慶太の信頼した人間だというのを除いてもこちらに近寄らせたくはなかった。
「俺が都津上に来た理由、聞いてもらえますか。嫌だと言っても話しますが」
「……好きにしろ」
「遠慮なく」
にっと笑った表情の作り方は慶太に似ていなかった。それに河崎は息をつく。同じ顔を見ているのが、これほど癇に障るとは。本当は、わかっている。懐かしいからこその、痛み。
――そんな上等なものを感じる心なんてもんはとっくになくしたはずなのにな。
魔術という異形の技を手に入れて、刻一刻と人間を辞めていく、河崎はそれを体感している。慶太のことだけが消えず薄れず。不思議でもあり、納得してもいた。
「俺は元々、同時多発的に起きた通り魔事件の追跡取材に来たんです。五年も前ですけどね」
事件後、一月と経たず報道が消えた。それが不可解で取材をしようと決めたのだと日向は言う。河崎は黙って肩をすくめていた。事件の裏にはやつらがいる。日向は地下室の事実を聞いても、それが人外の異形だとは思いもしないだろう。河崎もそのように話した。まして彫像のことなど一言も告げていない。慶太は妙なやつらに狂わされた、とだけ。
――それでいいだろう、慶太?
答えはない。自分が殺した慶太の返答など期待していない。たとえ日向が慶太の望みであったと言ったとしても、己でそれと納得していたとしても。
――殺したのは、俺だ。
黙念とした河崎に日向は突き進む。ここから逃れるためには、決着をつけるしか。その焦燥感。自分を取り巻くものを振り払うため、慶太のため、日向には河崎が必要だった。
「取材中、学生にも大勢会ってるんですよ」
「そうだろうな」
「俺の動きが筒抜けだった可能性は否定しません。相楽さんからは香港マフィアだから気をつけろと言われてましたし」
「襲われたとか、聞いたな」
ふと河崎が目をあげて日向を見た。淡々と取材の話をする彼が、やつらに襲撃されたのかと。河崎も慶太と共に森林公園の帰り道に襲われている。素人ではない動きをした覚えに眉を顰めた。
「よく無事だった……なんか武道の心得があるとか言ってたか」
「相楽さん、そんなことまで言ったんですか?」
「ただの雑談だ」
「学生時代にボクシングやってただけです。いい線までいったんですが、角膜に傷つけちゃいまして」
それで辞めた。日向は小さく笑う。なんの表情だろうと内心に首をかしげた河崎は遅れて気づく、照れたのだと。おそらく日向は自分で口にしたより強い、それを感じた。
「そのときのこと、聞いてもらいます」
「勝手にしてくれ」
「なんか、小柄な男だって話は聞いてました。本当にちょっと驚くほど小柄っていうか、違和感のある小柄さっていうか。神経に障りますね、あれは」
なんの知識もない日向ですら、感じ取るか、河崎は口許で笑っていた。かつての自分もそうだったと思えばこそ。やつらは無知な人間にでも違和感を覚えさせる、それほど異質。
「……ただの遭遇だったのかな、とも思うんです。行き合っちゃって、ついでにやっとくか、みたいな」
「相手は一人か」
「はい。向こうも負ける気はなかったんじゃないかな。そんな感じでしたから。俺もこんななりですし、腕に覚えがあるようには見えない」
それが強みにもなる、と日向は不敵に笑う。侮られれば勝ちは近づく、と。同感だ、小さく笑ってから己で気づいて河崎は再度笑った。
「遭遇だったと思う根拠は、そいつが持ってたもの、です」
「……なに?」
「彫像、ですかね。小さな……ブラックロータスの店内に飾ってあった――」
「象の頭をした彫像か」
「はい」
身を乗り出さんばかりの河崎に日向は面食らう。あの像がどんな意味を持つのか、今更ながらの疑念。河崎も同様だった。日向は人間で、面倒で、相楽が寄越した煩わしい相手との意識が消えていく。これは、切っ掛けだ。やつらに至る切っ掛けだと。
「その像は」
「俺も動揺してて、行方はわかりません。相楽さんは知らないと。――問題は、他にもあって。俺、負傷してるんですよ、そのとき」
鳩尾に決めた一撃。相手は悶絶し、普通ならば昏倒する。だが小柄な男は崩れ落ちる間際にナイフを投げたと日向は言う。それが偶然、手を掠ったと。
「偶然だと思ってました。破れかぶれの抵抗かな、と。でも」
そっと彼は我が身を抱いた。思い出すだけで寒気が止まらない、そんな仕種に河崎は瞑目する。何かを彼は見てしまったのだと。知らずに済めばよかったのに。
「ちょこっとだけ血が滴って、落ちる、はずです。でも……落ちなかった。流れた血が、彫像に。風なんて吹いてない。重力無視して吸い込まれて行くなんて、あり得ない……」
口にするだけでおかしくなりそうだった。あれを目の当たりにしたあと、手の傷より深く残ったのは精神に負った恐慌。しばらくは悪夢を見続けたと語る日向に河崎は長く深い息を吐く。
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