第4話


 見てしまったか、それがなんとも言いがたい感情の波を引き起こし、河崎は自らを嗤う。日向を案ずる気持ちはないわけではなかったが、慶太の親類だからといった方が正しいだろう。その上でなお己に他人へのなんらかの思いがある、それを嘲笑わずにはいられなかった。

「あの妙なやつら……変な像……。河崎さん、ご存知でしたか」

 問われて河崎は答えない。それが明確な返答になり得たのだと気づくも遅い。他者との関係を断ってしまった弊害だと顔を顰めた。

「慶太が信じた人と見込んでお願いがあります」

 そして、青い顔をしながらも日向は真っ直ぐと目を上げた。河崎を見通すような眼差しに彼は視線を外さない。その目で告げたつもりだった、いますぐ帰れ、と。これ以上はかかわるな、と。理解したはずの日向は唇を引き結び、言葉を続けた。

「河崎さんにとって、相楽さんはどんな人でしたか」

 だが彼が口にしたのは意外なこと。意表をつかれて河崎は眉を顰め、テーブルに置いたままだったライターをもてあそぶ。こつん、と角に当てた音がした。

「有能な、部下。だったな」

「そう……ですか」

 考え込むような日向に河崎の眉根が寄せられていた。何か不審でもあったのか。そこまで考えて、日向の表情がそれと語っていると河崎は見て取る。

「何があった」

 短い問いに覚悟を決めたのだろう日向、取材でのことだと断って続けた。

「同時多発事件のことです。ぱっと見、薬物濫用者が起こした事件、ですよね?」

「そうとしか見えん、な」

「取材したのは、学生です。つまり、犯人の知人たちです。彼らは言ってたんですよ、薬物を使ってたみたいだって」

「待て」

 どういうことだ、と河崎は訝しい。日向の言葉の意味がうまく取れないのは、どこかで理解が飛んだせいか。迷ったけれど日向もまた妙な顔をしていた。

「相楽さんは、でも。薬物反応はなかった、と」

「……なに?」

「取材の結果と、食い違うんです。そこが、どうしても」

「反応は、あったはずだ。いや、報告を受けたから間違いない」

「え……」

「薬物自体も入手している。……相楽」

 この日向という記者を信用せず、そこを漏らさなかったか。一瞬は河崎もそう考えた。が、違和感がある。そもそもあの事件は薬物濫用者が起こしたもの、とした方が通りがよい。実際に何があったかを知るのは自分だけだと河崎は内心にうなずく。

 ――薬物なのは、間違いない。だが、真実は断じて明らかにできない。

 あのような輩が存在し、その薬物があるなど。一般市民に知れたら前代未聞のパニックが起きかねない。辞めた身ではあったけれど公安の性か、国家に危難を呼び起こすことなどしたくはない。

「学生も、薬物と……いや、そうだ」

 思い出したよう日向がバッグに手を入れる。荷物をすべて取り出す勢いに河崎が驚くのも気にせず、更に底板まで外した日向だ。

「用心深いな」

「捕まりたくないので」

 にかりと笑って、だが直後に険しい顔へと戻った彼が差し出したものに河崎は口許を引き締めていた。見覚えのあるものが目の前に。

「学生がサプリ、と呼んでいたものです」

 そこには、小さなビニール袋に入った黒い錠剤が。いやというほど見覚えがある。忘れ得ないそれが、いままた河崎の眼前にあった。

「安くてちょっといい気分になる、と言って売ってたらしいです。でも学生、少なくともこれを俺に渡してくれた学生は、幻覚がひどくて怖くなった、と」

「そう、か」

「ただのサプリではない、と思います」

 だから厳重に管理してきた。万が一、警察に知れたら間違いなく自分は逮捕される、これが違法薬物ならば。日向は学生がいうサプリとの言葉を信じたことはない。いまでも。河崎の表情に正しいのだと知る。

「河崎さん、見たことありますね?」

 無言で席を立つ河崎を日向は目で追った。部屋から出て行ってしまった彼だけれど、必ず戻ると疑いもしなかった。案の定、河崎はほどなく戻る。その手にどこかで見たようなビニール袋を持って。

「同じ、だ……」

 河崎が差し出したものに日向は唖然としていた。これは、どういうことだと。相楽が完全に否定した薬物の疑いとは、いったい。

「当時は、未知の薬物だった」

 いまでもそうかはわからない、言いつつ河崎は内心では違うことを考えていた。いまでも、未知に違いないと。

 ――この世ならざる何かから精製された薬物が解析できるわけがない。

 昔と今と。河崎が知る知識が違った。書庫の書物を紐解くうち、信じがたい薬物の存在をも彼は知った。黒い錠剤が、その中のどれかまでは特定できていない。だが、人間世界にあるべきものではない、それだけは知っている。

「相楽さんが俺に隠し事するのは、いいんです。俺は所詮はただの協力者、情報提供者でしかない」

「相楽は――」

「そうなんですよね。相楽さん、協力者にそういう扱い、しない人でしょう?」

 なのに情報に齟齬がある。相楽が告げた言葉を公安のそれだから、と信じきることがいまの日向には難しい。

「公安なら絶対だって、思ってたんですけどね。怖いから」

「……慶太と」

「はい?」

「慶太と、同じことを言う」

 引き攣るよう動いた河崎の頬、笑ったのかもしれないと日向は思った。慶太が暴力団の構成員だったと河崎は言う。ならばやはり公安は怖かったことだろうと日向は小さく微笑んでいた。

 ――けーちゃん、それを河崎さんに言えるくらい、甘えてたんだ。河崎さんは、けーちゃんが信じた人なんだ。

「どうした?」

「いえ、なんでもないです」

 訝しげというよりは不快に寄った河崎の表情に日向は改めて微笑む。取材時に効果的な顔だが、河崎には通じるかどうか。意図したものとは違う通じ方をした様子。

 ――けーちゃんの顔に見えたのかな、さっき。それで河崎さん。

 嫌な思いだとか、衝撃だとか。そんな言葉で表せるようなものではないのだと日向は思う。慶太の死を知った自分ですらそうだ。ならばその場で彼の死を看取った河崎は。まして彼は自分が殺したと断言してもいる。

 ――想像なんかしたらだめだ。それは、失礼だ。

 安易にわかると言うな、理解できると言うな。先輩記者に言われたことが身に染みた。わかるわけはない。わかってはならないのだと。ゆっくりと首を振り、日向は本題へ。

「相楽さん、おかしいんです。何か、あるんです、たぶん」

「それが、どうした。慶太の件と――」

「俺は繋がってると思います」

 言葉を奪うよう重ねた日向に河崎は動かない。正しかった、日向は。河崎だけが知る話。けれどこうして日向の話を聞くと相楽に対して疑念が浮かばないでもない。

「河崎さんも、そう思ってるんですよね」

 にやりと笑った日向は自らの口許を指で示す。ちょん、と触れただけのそれが示唆したのは河崎の硬直か。思わず河崎は笑っていた。

「教えてください、河崎さん」

「どう考えてるんだ。どう繋がってると?」

「証拠はありません、記者の勘です。――俺は、ブラックロータスの連中が逃げる、そのための時間稼ぎに使ったのが同時多発事件だった、と考えてます」

 長い溜息。河崎のそれに日向は正解と知る。安堵より喜びより、浮かんだのは忿怒かもしれない。自分の感情を持てあます日向に再度河崎は溜息をついた。

「そこまで察してるなら、仕方ないな」

「あってる、んですね?」

「あぁ」

「それを公安は」

「知ってるのは、俺だけだ」

 なぜ、と日向は問わなかった。河崎も相楽になんらかの疑念を抱いていたのかと思うだけ。勘違いではあったが、河崎もまた口を閉ざす。

「けーちゃん、カフェの連中に殺されたんですね……」

「何度でも言う、慶太を」

「殺したのは、やつらでしょう。河崎さんはけーちゃんを楽にしてあげたんだ。主犯は、やつらだ。俺を襲ったやつ、エスニック料理店のチャイチャイって店の従業員だったんですけど、河崎さんは知ってますよね、ブラックロータスと繋がってるって。だったら、同罪だ。やつらが、慶太を」

 きつく握られた拳を河崎は見ていた。震える拳に目を据えていた。日向が感じているだろう怒りが我が物のよう、理解できる。

「他人がなに言おうが、俺には優しかったんですよ、けーちゃん」

 やくざものだろうが、日向にとっては穏やかな男だった。血縁に飢えていて、なのに与えられなくて。日向だけが頼りと微笑む淡い顔。照れた眼差しをいまも鮮明に思い描ける。

「いつか、大人になって、頼り甲斐があるようになって、けーちゃん助けるんだって、思ってたんですよ俺」

 なのに、知らないうちに知らない場所で無残に殺された慶太。最期を信頼する河崎が看取ってくれたことだけが救い。否、足らなかった。日向の拳がひくりと痙攣する。

「……潰す」

 低く短い言葉。けれど、河崎には何より明らかな。近づきたくなどなかった、近寄らせてはならないはずだった。しかし、同類が、ここに。慶太の死に惑乱しやつらの殲滅を望むものが、ここに。

「こっちは記者です。情報は任せてください」

「……おい」

「手伝わせないなんて言うなら、勝手に噛みます。とても邪魔だと思います」

「脅迫の仕方は慶太に似てないな」

「けーちゃんはそんなことしませんから。俺には」

「その慶太が、巻き込むことを望まない」

 河崎にしては真摯に告げたつもり。それなのに日向は鼻で笑う。

「心にもないことを言わないでください」

 冷笑というには温度がある。が、やはり慶太に似ていると河崎は思う。「仕事」をするときの彼に。見られていたとは慶太は知らなかっただろうけれど。それ以上に河崎は愕然としていた。

 ――何に気づいた。

 己が人間であることを捨て、この世ならざるものを手にしていく、それを見て取られているような気がしてならない。それほど日向の目は鋭かった。

「河崎さん、あんたの目は濁ってる」

 ぐい、と身を乗り出してきた日向に河崎は言葉もない。その通りだと思えばこそ。日向はひとつうなずき河崎の残った片目を覗き込む。

「やつらを皆殺しにしてやるって顔してる。同じです。俺と同じです。法律? 知ったことか!」

 相楽が何かを隠している。公安が検挙しない案件がある程度、日向も知らないではない。一般市民の安寧のためには仕方ないのだろうと思っていた。だが、いまは。

「公安が、警察が、動かないなら勝手にしますよ。俺の大事なはとこが殺されたんだ。なんにもしてくれない警察より、俺は。だから河崎さん。俺を利用してください、俺もあなたを利用する」

 歪んだ目だった。河崎は鏡を見ているようだと思う。二重の意味で。慶太と同じ顔であり、己と同じ狂った目だと。




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