ホットケーキ(1)
キッチンの小窓が異世界に繋がった次の日、かけっぱなしにしていたスマホのアラームで目を覚ました。うるさいアラームを切ってすぐに二度寝する。
今日から失業者だ。
やらなければならないことは沢山あるが、今はただ眠い。
体は昨日のように重くなっていて、ベッドに沈み込んで動かない。疲労が溜まっているのだろう。
今日はこのまま寝てしまおう。無職の特権だ。などと考えていると、電話が鳴った。
「もしもし……」
「七瀬歩! 仕事を辞めるという話は俺が人事につけてやったから、引継ぎに来い! 引継ぎも無く仕事を辞めるなんて非常識なこと、まさかするわけがないよな。引継ぎ期間中、給料がでると思うなよ! お前の自己都合での退職だからな!」
電話はやはり課長からで、胃からこみあげてくるものを我慢しながら応対する。
「私は解雇されましたので、引継ぎ業務を行う義務はございません。解雇理由証明書は後日受け取りにいきますのでご用意ください。解雇予告手当も請求させていただきます」
昨夜、ネットで調べたところ、労働基準法二十条一項に解雇予告のルールが定められていた。
それによると、解雇は、解雇日の三十日以上前に予告するか、不足する日数分の給料を払わないといけない。
私の場合は、即日解雇にあたるので、三十日分の賃金を解雇予告手当として受け取ることができるのだ。
課長は、何かを考えるようにしばらく沈黙していた。
「七瀬、考え直せ。これまで尽くしてきた会社に対して、辞めるときに後足で砂をかけるような真似をするのか? だれがお前をここまで育ててきた? 我が社だろう。俺だけじゃなく、お前に目をかけていた人事の坂木部長のことも困らせるのか? 突然退社すると言っていたお前のことにもあきれていたが、自己都合ではなく解雇されたと言い張って更に困らせるのか?」
「……っ」
会社への恩を言い出され、言葉がつまってしまった。
常識知らずだった新人時代の私を、前の課の上司であり、今は人事部の部長である坂木部長が気長に育ててくれてきた。学校を卒業してから、社会に慣れるまでの間、坂木部長には本当にお世話になってきたのだ。
「解雇予告手当なんて、請求しないよな?」
課長のねっとりとした追及に、答えられなくなってしまった。
自分の権利と会社への恩を天秤にかけて、心が揺れる。
電話の先で課長がにやにやしている姿が目に浮かぶ。坂木部長の名前を出したら、私が強く出られないことをわかって言っているのだ。
「引継ぎも、来るよな?」
ねっとりした課長の声に、はいと返事を返しそうになった時、ガシャンとキッチンの方向から大きな音がした。
びっくりして振り向くと、白く長い尻尾のようなものが消える姿が見えて、うずたかく積み上げていたゴミが崩れていた。
「すみません。用がありますので、この話は一旦保留にしてください。失礼します」
大きな音に我に返った私は、電話口で制止する課長をふりきり電話を切った。
何か生き物が入り込んだかもしれないと重い、部屋中を捜索したが、何も見つからなかった。
倒れてしまったゴミを横にどけ、天井を仰いで大きく息をつく。
ゴミと埃だらけの部屋の中で、私は自分の体をゆっくりとベッドへ倒す。
今止まってしまえば、もう二度と立ち上がれなくなるかもしれないと思いながら毎日をやり過ごしてきたが、もう疲れてしまった。
課長と争わず、このまま自己都合での退社にしてしまってもいいかもしれない。
槙田課長からの電話で、私の精神は更に削られた。
お腹がぐぅと鳴って空腹を訴える。
「何か食べなきゃ……」
もそりと起き上がり、昨日のように茶粥を作ろうとしたが、課長の働かざる者くうべからずという怒声がフラッシュバックして、涙が出てきてその場にうずくまる。
体は食べ物を欲しているが、頭が食べることを拒否している。
食べなければ、昨日のように体が冷えて動かなくなってしまうのに、食べてしまえば槙田課長に怒鳴られるのではないかと頭と心が恐怖を訴えてくる。ここに槙田課長はいないというのに……。
自分のために食事をするという行為が、今の私にとってハードルが高い。
普段なら、すぐに泣くことをやめようとしただろう。けれど、昨日、アーサーに言われたように感情が出てくるままにまかせてそのまま涙を流し続けた。
パワハラを受け始めてから、負けるものかと決して流してこなかった涙は、流れるにつれて凝り固まっていた私の怒りや恐怖や悲しみを洗い流してくれた。
どれくらい時間がたっただろう。涙が止まったころには、すっかり日が高くなっていた。
泣きはらした目とこすりつづけた鼻がひりひりする。
洗面所に向かい、タオルを冷やして目に当てた。ひんやりしていて気持ちがいい。
はぁと一息ついたとき、部屋のインターフォンが鳴った。
もしかして、課長が家まで押しかけてきたのだろうか。ありえない妄想が不安になって押し寄せる。
「はい……」
「白猫宅急便です。お荷物お持ちしました」
「あ……ありがとうございます。今出ます」
不安に押しつぶされそうになって出たインターフォンからは、元気のいい配達員の声。
ほっとしながら、ドアを開けようとして気が付いた。
今、パジャマ姿で泣きはらした顔をしている。こんなみっともない姿で出られない。
「す……すみません。今、ちょっと立て込んでて」
「あ、いいですよ。サインだけいただけたらお荷物ここに置いておきますので」
薄く開けたドアから声をかけると、心得たといわんばかりに伝票とペンを渡された。
急いでサインして、伝票を渡すと、配達員は荷物を置いて帰っていった。
しばらくドアの前にたって、配達員が帰ることを確認してから素早く箱を部屋の中に入れる。
箱の送り先は、母からだ。中身はきっと食料だろう。
無言で箱を開けると、野菜とホットケーキミックスが数袋と缶詰が入っていた。
同封されている手紙には、家で野菜が採れました。ホットケーキミックスが安売りしていたので一緒に送ります。と書いてあった。
荷物のお礼をしようかと思ったが、失職したことが気まずくて電話は控える。
「料理なんて、しないって言ってるのにな……」
口の中でぶつぶつ言いながら、冷蔵庫を開ける。
ケチャップしか入っていなかった冷蔵庫は、野菜でいっぱいになった。
ホットケーキミックスを戸棚にしまおうとすると、以前送ってくれていた賞味期限切れの缶詰がドサッと落ちてきたので、分別してゴミ袋に入れ、新しいものを詰めていく。
「ホットケーキか……」
子どもの頃、こぐまがホットケーキを作って食べる絵本がお気に入りで、よく母に作ってとせがんでいた。
その時の記憶が母にあるのだろう。大人になった今でも、母は私の好物がホットケーキだと思っている。
本当は、毎日のようにホットケーキ好きでしょうと作られる味にあきあきしていたというのに。
進学と同時に家を離れてからは、その反動なのかホットケーキは食べていなかった。
母から送られてくるホットケーキミックスは、食べることなく友人や同僚に分けたり、戸棚で賞味期限を迎えていた。
離れていた味なのに、今は、なぜかあの時母が作ってくれたホットケーキの味を思い出すと、口の中にじわりと唾が湧いてくる。
ホットケーキなら食べられるかもしれない……。
体に巣くう倦怠感に負けそうになり、あきらめてそのまま寝ていようかと思ったが、今の自分を放置してしまえば、再び何も食べられなくなってしまいそうだ。
このままではいけないと自分を奮い立たせ、腫れてしまった顔を隠すために帽子を目深にかぶり、服を着替え、徒歩十分の所にある大型スーパーに向かう。
昨日からお風呂に入っていなかったため、できるだけ人と距離を取りながら、卵と牛乳、ハチミツとバターに十五センチのフライパンを購入してそそくさと立ち去ろうとした時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます