ドライカレー(2)

 夕食はドライカレーに決めた。


 スーパーの通り道にあるカレーチェーン店の傍を通った時に香った香りが、私の胃をつかんで離さなかったからだ。


 米を食べる習慣があまりないアーサーのために、パンでも美味しく食べられるドライカレーを作ることに決め、買い物を済ませてきた。


 野菜は、送られてきたものを使うので、牛ひき肉とカレー粉とウスターソースを購入した。


 パンはスーパーの中に併設されているベーカリーのバゲットを買う。余裕ができたら、自分でも焼いてみるのもいいいかもしれない。


 買い出しが終わったころには、もう太陽が傾いていた。もうすぐ夕方だ。


 今日はゆっくり話をしたい。早めに夕食を作ろうと、台所に置いておいた人参と玉ねぎとニンニクをみじん切りにしていく。


 綺麗になったキッチンでの料理は気持ちがいい。

 温めたフライパンに油を回し入れ、牛ひき肉を炒める。


以前までなら、肉の匂いを嗅いだだけで胃もたれしていたが、肉の香ばしい匂いが食欲をそそる。


 こんがりするまで炒めたら、みじん切りにした野菜を加え、しんなりするまで火を通す。そして、カレー粉を加えるためにカレー粉の缶を開けた。


 ふわっと香るスパイシーな香りに口内に唾が湧く。カレーなんて何年ぶりだろう。


 カレー粉をフライパンの中に入れ、炒め合わせ、湯を注ぎ、トマトケチャップにウスターソース、塩、コショウを入れて煮たたせる。


 弱火にして、汁気がなくなれば完成だ。


「おいしそう」


 ドライカレーが出来上がるのと同じころ、掃除中に発掘した炊飯器にセットしたご飯が炊けた。


 ご飯の炊ける匂いと、カレーの香りに刺激され、お腹がグゥと鳴る。


「あとは、アーサーさんを待つだけだな」


 スマホの時計に目をやると、午後五時はもう数分後だった。


 自分の分の皿にご飯とカレーを盛り付け、アーサーの分の更には切ったバゲットとカレーを盛り付けてチャイムがなるのを待つ。


 午後五時のチャイムがなるのと同時に、ベランダからがたがたと大きな音がする。


 振り返ると、そこに槙田課長が立っていた。


「え……? 課長……?」


「七瀬歩、あれだけかわいがってやったのに、よくも俺のことを人事に訴えたな」


 一瞬、ストレスからくる幻覚かと思ったが、槙田課長は網戸を破り、土足のままずかずかと部屋に入り込んでくる。右手には、むき身のナイフが鈍く光っていた。


 とっさに部屋の外に出ようと玄関に走り出したが、ドアの前で、震える手が言うことを聞かず、チェーンが開かない。


 手こずっている間に、槙田課長に思い切り頬をぶたれ倒れたところに重く生暖かい体が乗ってきた。


「お前のせいで、上の方々からお叱りをうけたんだよ。妻にも子どもにも逃げられて、俺には仕事しかなかったっていうのに」


 一言一言に怒気をにじませながら、私の頬を叩く。


 誰かに助けを求めようにも、恐怖で声が出ない。体は震え、腕で顔をガードすることしかっできなかった。


「減給に戒告処分だ? これまで何の落ち度もなく、お前みたいなダメ社員を導いて会社に貢献してきた俺に下す処分じゃないよなぁ。なあ、七瀬歩!」


 怒鳴り声と同時に、ナイフが振り上げられたのが見えた。


 殺される。


「ナナセ殿、目を閉じよ! サンダーボルト!」


 課長の体に小さな雷が落ちたのと、声に従い目を閉じたのは同時だった。


 どうっという音と共に、体の上にあった重みがなくなる。


「大丈夫か⁉」


 キッチンの方向を見ると、上半身を小窓から出したアーサーが険しい表情でこちらを睨んでいた。


「大丈夫……です……」


 ふらつく頭をおさえ、上半身を起こしその場にへたり込む。


「アーサーさん、何をしたんですか?」


「魔法を使った」


「魔法……。そっか、異世界ですもんね」


「とっさに使ったが、そちらの世界でも使えてよかったぞ」


 上半身を小窓からのぞかせ、私と話しているアーサーは、昨日と異なり髪は整えられ、衣服は見るからに豪奢な真っ赤なマントに、宝石のついた衣装に変わっている。頭には、金で出来た葉の冠がついていた。


「アーサーさん……その恰好は?」


「それより、その男をどうにかせねば危ないぞ」


 一連の出来事があまりに現実味がなく、呆然としていたがアーサーの言葉でハッとする。


 慌てて、課長が握っていたナイフを取り上げ、部屋の中に置いていたガムテープで手足をぐるぐるまきにした。


 雷撃に打たれて気絶している課長の手足は、ぐんにゃりしていたが温かく、生きていたことに内心安堵した。


 自身の安全を確保した後、警察に電話をした。


「アーサーさん、ありがとうございました……。十分ほどしたら警察……というか、衛兵がくるそうです」


「それならよかった。変な男がそなたに襲い掛かっているのを見た時は、肝が冷えたぞ」


「変な男……というか、上司なんですよね……」


 乾いた笑いを浮かべる私を、アーサーはぎょっとしたような顔で見た。


「刃物を構えていたが、そなた、上役から処刑されるようなことをしたのか?」


「昨日話したこと以外はしていません。ただ……恨みは買っていたのかもしれませんね」


 必要なことをやり終えると、緊張がとけたのかアーサーの小窓があるシンク下にへたりこんでしまった。


 槙田課長の処分は、パワハラの処分としては妥当なものだったろう。私のようにクビを宣告されて、食を失うようなものではなかったはずだ。


 なのに、なぜ、私を襲いにきたのだろう。会社を早退してきてまで。


「頬を叩かれたか……。少し触れるぞ。ヒール」


 じくじく痛む頬にアーサーの手が触れ、呪文を唱えると、ぱぁっと温かな光が湧きあがり、頬の痛みがなくなった。


「これも、魔法ですか?」


「簡単な傷しか治せぬ回復魔法だが、役に立ってよかった」


 固い掌が、私の頬から離れていった。


「ありがとうございます……」


 しばらくの間、私たちは黙っていた。


 いつ課長が起きてくるかも分からず、震えている私をなだめるようにアーサーが肩に手を置いてくれていた。


 沈黙が流れる中、玄関のチャイムが鳴った。ドアスコープから覗くと、警察官が二人立っている。


 アーサーがいる小窓を少しだけ閉じ、中へ招き入れる。


 課長が焼け焦げ気絶しているのは、近くにあった古い電子レンジのコードを握り感電したということにしておいた。


 警察は、課長の両腕に手錠をはめ、救急車を呼ぶ。


 救急車が来るまでの間に一人から事情聴取をうけ、もう一人は部屋の中とベランダを調べていた。


 課長は、ベランダ側にある窓の外の竪樋を伝って、私の部屋に侵入してきたようだ。


 部屋の戸締りをきちんとしていなかったことに軽い注意を受け、課長との関係性を聞かれた。どうやら痴情のもつれと思われたようだった。冗談じゃない。


 救急隊員が課長を運んで行ってから、詳しい事情聴取をしたいからと警察署に誘われた。


 パトカーに乗るよう言われたが、後で警察署に向かうことを条件に少しの間猶予をもらう。小窓の外では、アーサーが私を心配して待ってくれているのだ。

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