茶粥(2)
「感謝する」
鍵を開け開いた先では、伸び放題の髪にボロボロの服を着た男が正座姿で土下座していた。
やっぱりあやしい。
慌てて窓を閉じようとしたら、すぐに腕を差し出されてこじ開けられた。
長い髪と髭の間から見える青い瞳と、整った鼻筋に、美形であることが想像できた。しかし、体は汚れ痩せ細っていて、目は疲れからか落ちくぼんでいる。
「どうか、怖がらないで欲しい。あなたは我が神の召喚に唯一応えてくれた聖女なのだ」
怪しい風体の男は、聖女召喚を行ったという設定で私に話しかけている。
「召喚というなら、私の体ごとそちらに移動しなくてはいけないんじゃないですか? あと、私は聖女ではなく、七瀬歩と申します」
違う……言わないとならないのはこんな事じゃない。と内心自分で突っ込みを入れていたが、この質問は、男にヒットしたようだ。
「確かに、私が描いた魔法陣は聖女召喚のためのものだった。しかし、召喚されたのは、この不思議な物質で出来た小窓だったのだ。魔法陣を書いた床が光ったと思ったら、牢の壁にこの窓がついていて、こちら側からは開かず、開いた先にそなたがいたのだ」
一息に説明してから、咳き込みはじめた男の口からは血が吐かれた。
「大丈夫ですか⁉」
驚いて箱テッシュを差し出すと、こんな柔らかい紙は見たことがない。と感心しながら苦しそうに血をぬぐっている。
「弟に王座を奪われ、この牢に閉じ込められてから配給されるのは一日に一回、薄い肉汁に固いパン。そしてわずかばかりの水のみだ。このまま死んでしまっては、私を王にと支持してくれた者に顔向けができない……。わずかばかりの希望を胸に、王家に伝わる聖女召喚の儀式を行ったのだが、魔力が足りずにこのような結果になったようだ」
血を吐いたのは魔力不足のせいか、と独り言ちる私に、男はすがるような目を向けてくる。
「聖女よ、どうか……私に力を与えて欲しい」
「無理です」
「そんな!」
ショックを受けられても、私にはそんな力はない。小窓を通ってあちらの世界へ行こうにも、人が通れるほどの幅はない。
だから、泥棒かもしれない相手がいたのに小窓を開けたわけなのだが。開いてみたら、本当に異世界につながっていたとは驚きだ。
若干興奮している私は、目の前で倒れそうにしている痩せ細った男のために今の自分にできることを探した。
「ええと……そんなに打ちひしがれないでください。せめて、生き延びられるように物資の提供はしますから」
わかりやすく衝撃をうけている男の腹からは、さっきからグルグルと音が聞こえている。腕も足も骨が見えるほどやせ細っていて空腹であることが一目瞭然だった。
何もできはしないが、これも何かの縁だ。飢え死に寸前に見える人を放っておくのも寝覚めが悪い。せめて食事だけでも提供したい。
小窓から離れ、食料を探すが、あいにくいつも食べていたゼリー飲料は切れていた。
見つかったのは、だいぶ前に実家から送られてきたお米とほうじ茶パックと買い置きしていたミネラルウォーターだけだった。
本当は野菜も送られてきていたのだが、冷蔵庫に入れる気力もなく放置していたら腐ってしまって、無事だったものがこれだったのだ。
「そちらに、煮炊きできる設備はありますか?」
「ない」
助けを断ったためか、魔力不足で血を吐いたためか、幾分かぶっきらぼうになった男に仕方がないかとため息をつく。
「とりあえず、水の入ったペットボトルを渡しますね。重いですよ。どうぞ」
水不足は切実だろうと、ミネラルウォーターのペットボトルを箱ごと窓から渡す。
毎日飲んでいるものだし、まとめて買えばお得なので、時間があるときにスーパーで買い置きしていたのだ。
「これは……?」
「箱から出して、キャップ。というか、上にある青いものをぐるっと回してください」
私が言った通り、男がキャップを回すと中の水がパシャっと零れた。
「水だ……」
水を確認した男は、無言でペットボトルに口をつけ一気に中身を飲み干す。
一本だけでは足りなかったのか、二本目も勢いよく開き飲んでいる。
「煮炊きするものがないなら、こっちでなんとかするしかないか」
はじめは炊飯器でご飯を炊こうとしたが、キッチンはゴミの袋だらけで、どこに炊飯器があるのかわからない。
仕方がないので、シンク下にある収納スペースから、これまた長らく使っていなかった片手鍋とザルを取り出した。
この材料なら、茶粥が作れる。
男は長らくまともな食事をとっていないと言っていたので胃も弱っているだろう。弱った胃にいろいろなものを与えるのは得策じゃない。
粥ならば体にいいと思って、ザルの中に米を入れた。
入れた瞬間、課長の穀潰しという言葉がフラッシュバックして呼吸が荒れて、急に涙が出てくる。
「これほどうまい水を飲んだのは初めてだ……泣いているではないか……。いかがした? ナナセ殿」
「これは……なんでもないんです」
浅くなった息を整えながら、慌てて服の袖で涙をぬぐう。
「なんでもないわけがなかろう。青い顔をしておる。そなたも私のようにろくに飯を食っておらぬのではないか? ガリガリに痩せているではないか」
優しくかけられた声に、今まで心の中でせき止めていたものがぶわっとあふれてきた。
「泣きたいときは思い切り泣くがいい。見たところ、これまで泣くのを堪えてきたように見える。己の感情を抑えるのはよくないぞ。私も、弟に裏切られこの場所に閉じ込められたときは悔しさと怒りと情けなさで一人泣いたものだ」
自分もお腹が空いているだろうに、目の前で泣いてしまった私を優しくなだめてくれている。
見ず知らずの相手なのに、見知った仲の相手よりも優しい。
特に、パワハラを受けはじめてからは課内では腫れ物に触れるような扱いを受け、ほとんど無視されているといってもいいような扱いをされていたので、人の優しさが身に染みた。
「すみません……。泣くつもりなんて、なかったのに」
とめどなく流れてくる涙をぬぐうこともせずに、片手鍋に水とほうじ茶パックを入れてコンロの火をかける。
これは自分の食事ではない。人助けのための食事だ。だから、大丈夫。
心の中で自分に言い聞かせながら、ザルに入れた米を研ぐ。
「何があったか、話してみる気はないか?」
「話したら、ただの愚痴になっちゃいますもん。愚痴を言ったら迷惑になります」
小鍋の水が少しずつ温まってきてぷつぷつと泡を立ててきた。沸騰してきたお湯に、ほうじ茶パックを入れると、ふわりと茶色が広がった。
お茶の匂いを嗅いでいると、少しだけ心が落ち着いてきた。
「私は、こう見えて数多の戦場に出ていたが、戦場で体が硬直し使い物にならず命をとられる者がいる。どのような者か知っているか?」
「きっと弱い人がなるんでしょうね。たくさん弱音を吐いたり、愚痴を言ったりする人」
ぽつりと鍋の中に落とすように応えると、男は笑ってこう言った。
「逆だ。弱音も愚痴も吐かぬ強がる者がそうなるのだ」
「強がってなんて……」
ぱっと顔をあげ、否定しようとしてやめた。
よくよく考えたら、強がっていたのかもしれない。
幼いころから、両親に愚痴や弱音を吐かないようにと言われ育てられてきた。
理不尽なことがあっても言葉を飲み込み、冷静になるよう自分に言い聞かせるのは辛かった。
愚痴や弱音を吐いてしまうだめな子だと思われたくなかった。
愚痴も弱音も吐かないことで得られた信頼もあった。
けれど、信頼とは裏腹に誰にも不平を漏らさないことを不満に思った人の陰口の対象にもされていた。そうした出来事が積み重なり、自分の中に溜まっていく重いものを次第に持て余せなくなっていっていた。
それでも誰にも何も言わなかった。言ってしまえば、自分自身に負ける気がしたからだ。心の中で勝ちたかったのだ。我が身に降りかかる理不尽な出来事に。
黙ることで、私は強がり、自分なりに戦っていたのかもしれない。
「戦が始まる前夜に、兵士たちと酒を酌み交わす。その時に、明日の不安を口にし、弱音を吐いていたものほど次の日、勇猛果敢な戦士として潔く戦い戦果をあげていた。逆に、自分は何も怖いものはないと強がる者ほど、命のやり取りを前に足がすくみ身が縮み命をとられていった。愚痴も弱音も吐かぬというその心がけは立派だが、言える場所では弱音を吐いてもいいのだぞ。特に私は、そなたの世界とは異なる世界のものなのだしな」
ガハハと笑う男の姿に、ふっと心が軽くなる。
茶が煮出せたので、お茶パックを取り出し、洗った生米を中に入れて、蓋をして十分。この十分だけ、私は私に愚痴や弱音を吐くことを許してあげよう。
この人になら、情けない愚痴や不満も、言えるかもしれない。そう思えた。
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