ホットケーキ(2)
「あの、七瀬さんじゃないですか?」
「坂木部長の奥様」
誰にも会いたくないときに限って、誰かに会ってしまうものだ。
坂木部長は近所に住んでいた。同じ課の上司部下だった時はそのよしみで、課の仲間と共に自宅に招かれていたので、奥さんとも顔見知りだ。
たまたま買い物の時間帯が重なってしまったのだろう。
自分の運のなさを心の中で嘆く。
買い物に来ていたらしい奥さんの身ぎれいさに比べて、ボロボロの自分の恰好の自分が恥ずかしい。
そのうえ、今朝課長に言われた言葉が頭の中をグルグル回って離れない。
坂木部長は、私が自己都合で退職しようとしているにもかかわらず会社都合にしろとごねていると報告されているのだろう。
槙田課長のいう通り、迷惑がられ、退職することで失望されているかもしれない。
それなのに、私は問題を先送りにして自分の食欲を満たすことだけを考えて行動していた。あさましい。やはり私は、課長が言うような卑しい穀潰しなのだ……。
明るく話しかけてくれる奥様に対して、後ろめたさからおどおどとした受け答えしかできず、そそくさとその場を後にしてしまった。
部屋にたどり着き、買ってきたものを床に置くと、玄関にそのまま座り込んでしまった。
本当は、会社を辞めたいわけではない。築き上げてきた社内での人間関係や仕事に、未練がある。
クビにされたことにも、まだ納得がいっていない。
なぜ、昨日体の辛さを我慢できなかったのか。昨日と今日の電話で課長に謝り倒せば、クビは撤回されたかもしれないのに。そんな考えが頭の中でグルグル回る。
坂木部長の奥様に合ってしまったのも気まずかった。こんなことになったのも、私が食い意地を張ったせいだ。
少しだけ戻っていた食欲は、すでに失せてしまった。
くたくたになった体をどうにか動かし、買ってきたものを冷蔵庫に放り込んでその場に倒れこんだ。
「ナナセ殿……ナナセ殿……」
遠くから、昨日聞いた男の声が聞こえる。
夢だろうかと思いながら、うっすら目を開けると部屋には西日がさしていた。遠くから、午後五時チャイムの音が鳴り終わる音がする。
キッチンの小窓が開いている。そういえば、昨日鍵をかけ忘れていた。
小窓には魔法陣が浮かび上がり光っていて、長髪に長い髭の男が顔をのぞかせている。
「おお、良かった。突然窓が表れて、そこを開いたらナナセ殿が下で倒れていて驚いたぞ」
むくりと重い体を起こした私に、男が嬉しそうに話しかける。
「あの……今日も召喚とかしたんですか……?」
「いや、今回は召喚をしていないが、昨日描いた召喚陣が勝手に光り再びこの場につながったのだ」
不思議なこともあるものだ。と笑いながら応える男の顔を見ていると、なぜか気分が楽になってきてへらりと笑う。
「元気そうでなによりだ。昨日いただいた粥の小鍋も返したかったことだし、ちょうどよい」
「なんですか、それ」
冗談めかして今の状況を楽しんでいるように笑う男に、重かった気持ちがすっと晴れていく。窓越しに渡された小鍋は、綺麗に空になっていた。
「昨日と今日、ナナセ殿の粥のおかげで飢えずに済んだ。感謝する」
ニカッと笑った男の腹がグゥと鳴る。
「も……申し訳ない。粥を食べたというのに、この腹は!」
耳まで真っ赤になっている男に、ふっと笑みが零れる。
仕事仕事で、友人と疎遠になっていて、人間関係といえば職場の人間関係しかなくなっていた私にとって、職場外の、それも異世界の人との関係に肩の力が抜けて心地よい。
「あの、アーサーさん。今日も、私と一緒にご飯を食べてくれませんか?」
この男と一緒になら、昨日のようにご飯が食べられるかもしれない。
そう思った時にはすでに声をかけていた。
男は始めは驚いたように青い目を見開き、それから嬉しそうにニカッと笑う。
「ああ、ナナセ殿の飯はうまいから歓迎だ」
お世辞でも異性に作ったご飯を美味しいと言われたことなんてなかった私の頬が、少しだけ熱くなった。
なんのてらいもなく明るく褒めてくれる男の存在に、私の心が救われる。
「ナナセ殿の粥を食べてから、力が漲ってきてな、牢の中でトレーニングをするだけの余力ができたのだ。そのうえ、こたびも食事に誘っていただけるとは、なんたる僥倖」
全力で喜びを表現している男の姿に、面映ゆさを感じながらも、昨日から気になっていたが言えなかった提案をするためバスルームから洗面器を持ってきた。
「あの……よかったら、これで手を洗いませんか?」
昨日からお風呂に入る気力がなく汚いまま過ごしている私が言うのも失礼な話だが、男の髪も顔も手も体も、非常に汚れていた。
失礼かとは思ったが、食事を提供するならば衛生面にも気をつかわなくてはならない。
せめて、手を洗ってもらおうと洗面器にお湯を入れ、キッチンに備えているハンドソープを手渡した。
「これはぬるま湯か。感謝する。このボトルは泡が直接出てくるぞ! なんと面白い」
男は気を悪くした様子もなく、不思議そうにハンドソープのボトルから幾度か泡を出し、もてあそぶように手を洗う。
「かようにちょうどよき温かさの湯が簡単に手に入り、火もおこせるとは、昨日も思ったが、ナナセ殿は魔術師なのか?」
「いえ、単にお湯の出る水道の蛇口をひねっただけです。火も簡単におこせるガスコンロを使っているんですよ」
水道や蛇口、ガスコンロといった言葉になじみがないようで、幾度か口の中で転がしてから、それらの仕組みを聞いてくる。
仕組みまでは詳しく知らない私は、スマホで調べて読み上げた。
「なるほど、ナナセ殿の世界の仕組みは勉強になるな。私の世界でも取り入れたい技術であるな」
ところどころ分からない部分を聞かれたので、その都度調べて答えるのは手間だったが、読んでいる私も勉強になったのでよしとする。
「ええと、レインさん」
「アーサーでよい」
「アーサーさんの所では、簡単にお湯や火は手に入らないんですか?」
「入らぬ。常に人手がいるし、時間もかかる。なので、私のように牢に入れられていると入浴用の水すらも満足に手に入らぬのだ」
使用済みの小鍋と買ってきたフライパンをシンクで洗いながら質問すると、アーサーはじゃあじゃあ流れる水をうらやましそうに眺めながら言う。
「よかったら、もっとお湯、いります?」
「よいのか⁉」
思い切って聞いてみたが、予想外に喜ばれ私まで嬉しくなってきた。
「沢山ありますから、遠慮しないでください」
「ありがたい……。その、よければ剃刀も借りれないだろうか」
おずおず聞いてきたアーサーに、これまで身なりを整えられずに不自由していたことがうかがわれた。
「鏡もいりますね。ちょっと待っててください」
髪や髭も整えたがっているアーサーのために、掃除用に買っておいたものの使わず放置していたバケツにバスルームでお湯を溜め持っていき、ハサミと安全カミソリを渡す。
ついでにトラベル用のボディソープとシャンプー、リンスのセットと、折り畳みの鏡を手渡すと、絶句していた。
「これほど美しく映る鏡があるとは……。それに、これはどう使うのだ?」
アーサーの発言から、文明レベルは日本よりも遅れているようだと検討をつけ、安全カミソリの使い方を説明する。
ついでにボディーソープたちの説明もすると、興味深げに聞いていた。
「使ってみても、よいか?」
物珍しいものを見つけた子どものような目で問いかけてくるアーサーに、私は無言でキッチンの小窓を閉じた。全て閉じてしまったら、もう繋がらない気がしたので数センチだけは開けて。
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