ホットケーキ(3)
窓の外側からは、衣擦れの音が聞こえたかと思うとすぐにシャンプーの良い香りがしはじめ、アーサーの鼻歌が聞こえてきた。
「お湯の代わりはいくらでもありますからね。足りなかったら言ってください」
「頼む」
窓の隙間から差し出されたバケツを受け取り、幾度かバスルームと往復する。
頭や体を洗っているような音が止んだので、隙間からバスタオルを差し入れた。
ありがたい、という声とともに、バスタオルは窓の外側に引っ込んだ。
ザバッと床に水を流すような音が聞こえ、窓が開いた。
「ありがとう、ナナセ殿。おかげでさっぱりした」
肩まであった髪を切り髭をそったアーサーの顔に驚く。想像していたよりも整った顔立ちをしていたからだ。
年のころは二十代だろうか。細面の顔立ちに、金の睫毛に囲まれた青い瞳、通った鼻筋に形のいい顎。髭に隠れていた唇は凛々しく引き結ばれている。
「どうしたのだ?」
黙ったままの私に、アーサーが不思議そうに首をかしげる。
「いえ、なんでもないです!」
年齢イコール彼氏いない歴の喪女には、刺激が強いイケメンだった。
「そうか。タオルは洗って返す……にも、こちらには水が無かったのだったな。すまない」
肩にタオルをかけて頭をガシガシ拭いている姿もかっこよすぎて直視できない。
「いえ、代わりの服もあればよかったんですが、そこまで気が回らず。ごめんなさい」
体は綺麗になっているが、汚れた服を着たままであることに気が付き、自分の至らなさにしゅんとする。一回りは体格の違うので、私の服はどう見ても合わない。
「ご飯を作っている間に、服も洗いましょうか?」
「そこまで手を煩わせるわけにはいかぬ」
「いえ、昨日お礼にってこの指輪もいただいてますし。ドラム式洗濯機で洗って乾燥させればすぐですから」
ドラムシキセンタクキと不思議そうに言うアーサーに、服を放り込めばあとは洗濯も乾燥も勝手にやってくれる機械だと説明すると、異世界の技術かといたく感動していた。
遠慮していたが、異世界の技術を試すことへの好奇心のほうが勝ち、アーサーの服は私の部屋のドラム式洗濯機の中で回っている。
体にバスタオルを巻きつけ、物珍しそうにゴミだらけの私の部屋の中を眺めるアーサーに、部屋ぐらい掃除しておけばよかったと後悔しつつ、冷蔵庫の中から昼に買ってきたものを取り出した。
牛乳と卵をボウルに入れてかき混ぜる。次に、定番のホットケーキミックスの袋を開け、ボウルに加えてさっくり混ぜた。
その間に買ってきたフライパンをコンロで温めてから、濡れ布巾の上で少し冷ます。
そして、弱火にしたフライパンの上に高い位置から生地を一気に流した。
「それは、パンか?」
「こちらの世界ではホットケーキと呼ばれているものです。簡単に作れて甘くて美味しいんですよ」
甘いのか、と不思議そうに呟いたアーサーから目を離し、フライパンの上に目線を戻す。聞いたところ、アーサーの世界のパンは小麦粉を解いて焼いたパンケーキのようなものと、バゲットのようなものがあるそうだ。
普段アーサーの牢に差し入れられる食事のパンはバゲット型で、古くてカチカチで歯が欠けそうになると言って笑っていた。
「ほっ」
表面にぷつぷつが出てきたので、フライ返しでひっくり返す。この瞬間が一番失敗しやすくて緊張するのだ。
「おお、綺麗な焼き色だ」
久々に焼いたホットケーキは、ムラなく均一に焼けていた。
もう片面も焼き、皿に取り出し次を焼く。
無心で焼いていたら、皿の上にはホットケーキの小山ができていた。
「甘い良い香りがするな」
心なしかうれしそうなアーサーの様子に、こちらまでわくわくしてきた。
ナイフとフォークを取り出し、ホットケーキを三枚重ねた皿をアーサーに渡す。
「バターとハチミツ、好きにかけてくださいね」
「ハチミツがあるのか⁉ なんと、贅沢な。ナナセ殿は貴族なのか?」
「いえ、一般庶民ですが」
「なんと。そちらの世界では庶民でもハチミツが気軽に食べられるのか。ユーダリルでは相応の資金か身分のある者しか食せない甘味。懐かしいな……牢に入る前は、好んで食べていた……」
五百円ほどのハチミツを、これほどありがたがられてなんだか面映ゆい。
牢に入ってからはご無沙汰だったであろう味を、たっぷり味わってほしくて、アーサーの分のホットミルクにハチミツを沢山いれた。
キッチン台の上で私たちは向き合ってホットケーキに対峙する。
「これは、パンとよく似ているが、パンよりも口当たりがいいな。ほんのりとした甘味も気に入った。このハチミツも不純物がなく黄金色をしていて美しい」
「よかったです」
アーサーの食べる勢いに押されるように、私もホットケーキにバターをたっぷり塗り込みハチミツをとろりとかけて口に入れた。
ほんのりとした甘味の後に、バターの芳醇な味わいとハチミツの甘さが追ってくる。昔食べた懐かしの味だ。
「ん、おいしい……」
今朝からの憂鬱な気分が、ホットケーキのふんわりした美味しさの中に溶けて消えていく。
「昨日の粥もうまかったが、今日のもうまい! ナナセ殿の世界にはなんと不思議でうまいものがあることか」
自分の分のホットケーキを食べ終え、ホットミルクをぐいっと飲み干したアーサーの口回りには白髭がついていて、思わずくすりと笑ってしまった。
笑った私に不思議そうに首をかしげていたアーサーに、手鏡をすすめると、自分の顔回りの愉快な汚れに気が付き笑いながら口元を拭いていた。
「この鏡、本当に素晴らしい出来だ。国宝級ではないか。ナナセ殿は、本当に一般人なのか?」
「ええ、一般人ですよ。その鏡は、こちらの世界ではかなりお安く手に入りますし、ありふれたものです。よかったら、差し上げます。髭をそるのに必要でしょう。安全カミソリも使ってください」
「よいのか⁉ けれど……私には対価がもうないぞ」
「対価は、昨日いただいた指輪で十分です」
指輪のことを口にすると、何か言いたげに口ごもっていたアーサーだが、結局何も言わないことを決めたようで、感謝する。と手鏡を受け取り喜んでいた。
こちらからするとたいしたことのないことでも、アーサーのように心から喜んでもらえると、なんだかこちらまで嬉しくなってしまう。
ほころぶ口元に、残っているホットケーキを口に入れていると、真剣な顔をしたアーサーが問いかけてきた。
「それで、今日も何かあったのか?」
「え……」
「小窓が繋がった折に倒れていたことが気になってな」
気を使って、私の調子が戻るまで聞かずにいてくれたのだろう。その気遣いがありがたい。
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