ホットケーキ(4)
「ありがとうございます。実は……」
アーサーと共にホットケーキを食べてお腹が落ち着くと、今朝からの出来事を少しは冷静に考えられるようになった。
アーサーの言葉に甘え、今朝の課長との出来事と、課長から尊敬する上司に私の真実ではない不都合な出来事を報告されて誤解されているかもしれないといった内容の話をする。
ハチミツが溶けたホットミルクを飲みながら話をしていると、朝に感じていた焦燥感や不安感が和らいでいく。
「簡単なことだ。直接そのサカキなにがしに確かめるといい」
「でも、今は課も違いますし、槙田課長が報告してしまってる以上、私が違うことを言うと部長を困らせると思うんです。結局は私が体調不良で休んでしまったことが仕事を辞めさせられる原因でしたし、自分の都合で辞めることになるのは悔しいですが仕方のないことなのかなって」
アーサーの世界とこちらの世界では労働の常識は異なっている。
なので、できるだけ分かりやすいようにかみ砕いて説明しているのだが、アーサーの世界にもその世界なりの労働法のようなものがあり齟齬はあるが話は通じていた。
「何も言わずに黙っていると、相手の思うつぼになりやしないか? 己の権利は己の手で掴み取らねば、私の世界では簡単に踏みにじられ奴隷に堕とされてしまうぞ」
ゆとり世代で、流されて生きてきた私にとって、権利を主張するなんて目立つこと、考えたこともなかった。
「ナナセ殿はいい人と言われてこなかったか?」
突然いい人だなんて言い出したアーサーに少し面食らった。
アーサーのように豪放落雷な人物から口にされるいい子という言葉が不釣り合いに感じたからだ。
「ええ、言われてきました。両親からも、先生からも」
「いい人というのは、どうにも受け身になりがちなのだ。その場の空気を読むのがうまく、状況を悟るのもうまい。だから、自分の意思をおさえ、場に合わせてしまう」
「いいことじゃないですか。私の世界では空気を読むことが大切だという空気がありますからね」
私の反応に、アーサーは苦笑いする。
「空気を読んだうえで、空気を破ることも必要だということだよ。空気を作っているものの空気を読み続けて、何もできずに虐げられているのではなく。空気を作っている者がいることを理解したうえで、己の主張も織り交ぜていくのだ。いい人と呼ばれる者の大半は、己の主張をせず空気を作っている者に流されてしまう。だから、いい人と呼ばれてしまうのだ」
何も反論できなかった。
甘んじてパワハラを受け続けてきたのも、空気を作っている者の空気を読み続けてきた結果だったからだ。
「ナナセ殿、己の主張をして、いい人から一皮むけよ」
アーサーの言葉に、すぐに返事はできなかった。
お腹の中にたまったホットケーキは、熱に変わり、私の体中を温めてくれている。
すっかりぬるくなったホットミルクの残りを飲み干す。
「やってみます……」
キッチンで倒れた時に感じた寒さはなくなっていた。
ことりとマグカップをキッチンに置いたら、洗濯終了の音がする。
「あの音はなんだ? ナナセ殿」
「洗濯が終わったみたいですね。待っててくださいね、今着替えを持ってきますから」
ピンとしていた空気が緩み、洗濯機の元に小走りに駆けていく。
鉛のように重かった体も心も、今は大分軽くなっていた。
洗濯機から取り出した服は、汚れは落ちたが、ところどころ穴が開いていた。つくろいたかったが、裁縫セットは散らかった部屋のどこにあるのか分からない。
「一応、洗濯できたんですけど」
おずおず服を差し出すと、青い瞳が大きく見開かれた。
「かように短い時間で洗濯に乾燥まで! いただいたパンはこの世のものとは思えぬほど美味であったし、ナナセ殿は本当にすごいな」
たいしたことをしていないのに、常に驚き感動し褒めてくれるアーサーに、失われていた自尊心が癒されていく。
「服からかぐわしい香りがするぞ。ナナセ殿の世界では香水をつけずとも、服を香らせられるのだな」
「そういう柔軟剤をつかっているんですよ」
「ジュウナンザイ?」
「布を柔らかくする洗剤です」
アーサーは口の中で柔軟剤という言葉を幾度か転がしながら、何か考えるそぶりをしていた。この世界のものが珍しいのだろう。
「そうそう、この泡立ちのよい洗髪剤と液体石鹸も返さねば」
バスタオルと共に、名残惜し気に渡されたトラベルキットを、そっとアーサーに押し返す。
「よかったら、これからもこれ、使ってください」
「おお、なにからなにまでありがたい。湯が使える機会が訪ればいいのだが」
嬉しそうに、それから少し名残惜し気な顔をしたアーサーを見て、このままこの窓が繋がったままでいてくれたらいいのに。と願わずにはいられなかった。
異世界の不思議な道具があるからだとは分かっているが、なんでもないことで手放しに喜び、感謝を惜しみなくあたえてくれるアーサーの人となりに触れていると、なんだか楽な気持ちになれて食事が喉を通るのだ。
「また、会えるといいですね」
太陽が次第に山際に消えていく。それと同時に魔法陣の光が薄くなっていく。
「きっとまた会えるとも。ユーダリルの神に再会を願おう」
ニカッと笑うアーサーに、焼いておいたホットケーキの残りを押し付ける。
「よいのか」
「ご飯が食べられないのは、辛いから」
ホットケーキを受け取ったアーサーは、子どものような顔で笑った。
「そなたもな。私がいなくても、飯を食うのだぞ」
返事を返そうとしたときには、窓の外にアーサーはいなかった。
あるのは暗くなった景色と、朝いつも詣でている小さな神社の姿。
昨日と今日はいろいろありすぎて朝に詣でることができなかったな、と窓越しに手を合わすと、コンと鳴き声が聞こえた気がした。
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