茶粥(4)
「ああ、腹がくちくなってきた。かように温かなものを食べたのは久方ぶりだ」
「私もです……」
二人でいっぱいになったお腹を抱え、顔を見合わせふふっと笑う。
「ああ、魔法陣の光が薄くなってきた。この窓がそなたの室と繋がっているのも時間の問題やもしれぬな」
名残惜しそうな声に窓を見ると、男の言った通り、光っていた魔法陣が薄くなっている。
西日に照らされていた部屋も、すっかり薄暗くなっている。
「そちらに食料はないんですよね。お水は渡したものを飲んでください。それからこれ、少ないですけど」
男と私の食べっぷりに、足りなくなると思ってもう一度作った茶粥を鍋ごと渡す。
「食事の足しにしてください」
「なんと……どう礼をしたらいいものか」
「お礼なんて、いいですよ。困っている人がいたら助けるのは当たり前のことです。それに、私の愚痴も聞いてもらったし」
ふふっと笑うと、男もニッと笑った。
「なれば、この指輪をそなたに」
にゅっと伸びてきた手にあったものを、思わず両手で受け取る。
手の中には、男の首にあった鎖を通された金の指輪。
「これは?」
「牢に入るさい、これだけは盗られるのを免れたものだ。売ればいくばくかの金になるだろう」
「それって、大切なものじゃないんですか? だめですよ。受け取れません」
「いいや、受け取ってくれ。信じていたものに裏切られ、食事もろくに与えられず、絶望した彼方で出会い、命を救ってくれたそなたはまごうことなき私の聖女であった。私からの感謝の証だ」
重すぎる。水とお粥のお礼にしては、この指輪に込められた思いが重い。
「いや……本当に、いいですから」
どうにか指輪を返そうと、手を窓に伸ばした瞬間、私の手はいつも見ていた神社の見える景色の外側に出ていた。
外はもう陽が暮れて暗くなっている。
不思議な出来事に、ぺたんとキッチンの前に座り込み掌の中の指輪を見る。
「夢じゃ……ないよね……」
空いていたお腹はいっぱいになっていて、寒かった体は温かくなっていて、重かった心は軽くなっている。
掌の中の指輪をなくさないように首にかけ、スマホを探した。
クビになってしまったのだ。これから新しい仕事を探さないといけない。
ベッドの枕元にあったスマホを手に取ると、電池切れになっていた。充電コードにつなぎ、しばし待つ。
「うわ……」
復活したスマホを見ると、着信が三十八件。どれも課長の番号からだ。
この時間ならまだ会社に残っているだろうと検討をつけ、電話を折り返す。気が重かったが、退職の手続きの話ならば進めなければいけない。
「七瀬! 社会人なら電話にすぐに出ないか! 今日の無断欠勤はどういうことだ! お前がいなかったからお前の担当しているシステムが動かなかったんだぞ!」
内容は相変わらず理不尽で、態度は相変わらす上からだ。
いつもなら萎縮してしまう課長の怒鳴り声も、今は全く怖くなかった。温まっている掌を握り、すうっと息を吸う。
「私は今朝、病休を課長に申請しました。その際、当欠するような社員はいらないと課長にクビを切られました。ですので、私は無断欠勤はしておりませんし、今は御社の社員ではございません。システムが動かなかったのは、そのシステムを私に集中させてどれだけ言っても代わりの人員をあててくれなかった課長の問題です。私の問題ではないですね」
ここまで一息に言い切った。電話口ではたじろぐ課長の気配が伝わってくる。
「言うようになったじゃないか。上司にたてついて、どうなるか分かっているのか!」
「もう一度言いますが、私はすでにクビになっていますので、あなたの部下ではございません」
「……覚えておけよ、七瀬歩」
地を這うような課長の声が聞こえてすぐ、ぷつりと電話が切れた。
課長が私のことをクビにしたのだ。自分の言葉に責任をもってもらいたいものだ。
久しぶりにまともな食事にありついて、異世界の人との会話に癒されて、多少なりとも回復していた精神がごりごりに削られてしまった。
茶粥で体も心もぽかぽかになった今となっては、どうして必死に上司の顔色を伺っていたのかがわからない。
スマホを枕元に置き、埃っぽいベッドにダイブする。
「失業手当もらいながら、少しゆっくりするのもいいかもしれない……」
明日から私は無職だ。
そんなことを考えていると、せっかく温まっていた体がどんどん冷えていく。
「ほうじ茶、飲もうかな」
ベッドから起きだし、キッチンにむかい、ヤカンに水を入れ火にかける。
お湯が沸くまでの間、コンロの火をじっと見つめながら考えた。
私の体は、もう限界に近いくらいボロボロだ。今日、異世界の男と食事をとらなければ気が付かないくらい心も限界にきている。
ずっと頑張ってきた仕事をクビになったことは悔しいが、少し休むのもいいかもしれない。幸い、節約してきたおかげで一年間はどうにかなる程度の貯金はある。
「まずは、この痩せた体をもとに戻そう……」
湧いたお湯にほうじ茶パックを入れて蒸らしたお茶を、マグカップに入れて飲む。
口の中にほうじ茶の味と香りがぱあっと広がった。
「あったかい……」
ぽろぽろ零れてきた涙は、失業したショックのためか、仕事から解放された嬉しさからなのか、よくわからなかった。
流れてくる涙を止めることなく、自分のために淹れたお茶を飲む。
「文句、言えちゃった」
涙が止み始めた頃には、胸の中がスッとしていた。
今朝までの私なら、ひたすら謝り続けていただろう。課長は、私にとって恐怖の対象で、反論や文句の言える相手ではなかったのだ。
「アーサーさんのおかげかな」
台所の窓を開けると、月明りに灯されたいつもの風景が見えた。
夜風が頬にあたって気持ちがいい。
残っていたほうじ茶を飲み干し、マグカップをシンクに置いて、今朝は体の不調で参れなかった神社の方に向かい軽く手を合わす。
「いい出会いをありがとうございました。これからも見守ってください」
口の中で小さく呟くと、遠くからコンと鳴いた声が聞こえた気がした。
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