餃子(1)
今朝も、朝から電話が鳴り響いている。
画面は見なくても誰からかわかる。
槙田課長だ。
「はい、七瀬です」
「七瀬歩。お前、坂木部長に何を言ったんだ! 急に面談だとか言われて呼び出されたぞ。今日の午後一時から、第二会議室でとのことだ。自分の都合で引継ぎもなく退職しようとしている相手にお優しいことだな。いいかぁ、くれぐれも余計なことは言うなよ!」
槙田課長は、相変わらず息をするように私を怒鳴りつけている。
これまでは怖くて萎縮していたが、今日はなぜか怖くなかった。食事をちゃんととっているためだろうか。
「わかりました。その時間に向かいます」
私の答えを待たずに、ふんという声と共に電話は切れた。
私に何を言われるのか分からず焦っているのかもしれない。
いや、槙田課長は、私への指導が行き過ぎているとは思っておらず、当然のものだと思っているだろうから、焦ってすらいないかもしれない。
電話を終え、ふと顔を上げると、顔色は多少はいいが、伸ばしっぱなしの髪の毛が雀の巣のようになっているガリガリの女の姿がそこにあった。
「うわっ」
思わず声を上げてしまったが、まごうことなき鏡に映った私の姿だ。
ここ二年、いつも一つに纏めてばかりだった髪は、栄養がいきわたっておらず枝毛だらけでパサパサしている。
「昨日のアーサーさん、かっこよかったよな……」
長かった髪を短く切ったアーサーは、さっぱりしていて清潔そうなイケメンに見えた。
「私も、少しあやかろう」
これから人事部の面談なのだ。いつものノリの悪いメイクとひっつめ髪で行くのは嫌だ。
坂木部長と会うのは二年ぶりだ。
以前別の課で上司と部下の関係だったころは、十人並みなりにいつもこぎれいにしていたので、今のボロボロの姿を見られたくない。
スマホを手に取り、近所の美容院の予約を入れた。
大型スーパーの外側に併設してある美容院だ。今日は平日ということもあり空いていたようで、すぐに切りにいける。
予約時間に間に合うように、慌てて顔を洗い、服を着替えてメイクした。
休日の美容院なら、もう少しわくわくするのだが、仕事のためのヘアカットは若干緊張する。
それでなくとも、美容院に行くのは二年ぶりなのだ。冴えない人間が髪を切りに来たぞと思われるんじゃないかと若干憂鬱になる。
憂鬱になりながらも訪れた美容院は、シャンプーの香りがした。
着いてすぐシャンプー台に案内され、久しぶりですね。と軽い会話をこなしながら髪を洗われる。おそれていたような視線はなく、優しい手つきで髪を洗われる。
人の手で洗われる髪は気持ちがよくて、頭の中にある悩みが全部溶けて行ってしまいそうだ。
シャンプーが終わり、ヘアカットするために椅子に座って驚いた。私の髪は、この二年で腰まで伸び切っていたのだ。
ほとんど手入れもされずに伸びっぱなしで放置されていた髪はパサパサで、伸びていく先から細くなっていて、なんだか貧相だ。
ヘアスタイルをどうするか聞かれ、痛んでいるところを切ってほしいと言ったら、ここまで切らないといけなくなりますよ。と肩口を示された。
心と体だけでなく、髪までこんなに痛んでいたのかと思うと泣けてくる。
傷んだ髪は諦め、髪は、肩口までバッサリと切ってもらった。
「すっきりしましたね」
「本当に、頭が軽くなりました」
鏡の中の私は、さっきまでのボサボサ髪の私とは違っていた。トリートメントされた髪はつやつやしていて、肩まで切った髪は整っている。
重かった髪を切ると、いつも下げていた頭が軽くなっていて、今までのような重さを感じない。
食事をとることもそうだが、身なりを整えることも自分にとって大切な時間だったのだ。
連日何をしても怒鳴られていたことで、そんなことも忘れていた。思い出させてくれたアーサーに、感謝だ。
美容師に礼を言って、美容室を出て見上げた空にはイワシ雲が広がっていた。
「髪を切る暇があるとはうらやましいな。何をしていてもブスはブスだ。陰気なお前の印象なんて変わんないぞ。お前が休んでいる間、うちの課は大変だったんだぞ。だれが尻ぬぐいしたと思ってるんだ。人騒がせなことまでしやがって。本当に、生きている価値がない人間というのは、お前のような者のことを言うんだな」
会議室の前で槙田課長とばったり合った。先に面接していたようだ。出会い頭に、私の姿を頭の先からつま先までねめつけて嫌味を言ってくる。
「お話は後日あらためて」
槙田課長の嫌味をかわし、坂木部長に伝えられていた会議室のドアをノックする。途中、槙田課長の舌打ちが聞こえたが無視だ。
「七瀬歩です」
「どうぞ、入ってください」
中には、坂木部長ともう一人社員がいた。名前は、橋田さんというそうだ。
挨拶をかわし、本題に入る。
解雇にいたった出来事を話し終え、出されたお茶を一口飲む。
「それでは、七瀬さんは、槙田課長から一方的にクビを宣言されたという見解で間違いはないですね」
「はい」
「槙田課長は、あなたが精神的な病気にかかっていて常日頃から被害妄想的になっているとおっしゃっていましたが」
橋田さんは、淡々と事前に面接した課長の話を話している。
とんだ誤解だ。
「私は精神的な病気にかかっているという事実はありませんし、実際に槙田課長に解雇を言い渡されたことは事実です。これをお聞きください」
カバンから取り出したのは、スマホに内臓されたボイスレコーダーの音声をUSBにおとしたものだ。
槙田課長の指示がいつも二転三転して変わってしまうので、メモ代わりにスマホで録音していたものだ。
電話口で指示が飛ぶこともあるので、毎回会話も録音していたのだ。
「これは……確かに解雇を言い渡していますね。それに、指導も大分行き過ぎたもののようですね」
内容を改めた坂木部長がぼそりと呟く。
「このUSBはお借りしてもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ。あの、私の解雇の件はどうなるでしょうか?」
「その件も含めて検討いたしますので、追って沙汰を待ってください」
「私はこのまま仕事に戻ったほうがいいんでしょうか」
「処分が決まるまで、自宅で待機していてください。扱いは有給にするよう槙田課長に伝えておくから。それにしても……痩せたね」
坂木部長の言葉に、無言で頭を下げる。
いたわし気な雰囲気が流れた場がいたたまれなく、足早に出た。
帰る道すがら、ため息がでた。
録音したものを使うことは最後まで迷っていた。
私は、槙田課長とは仕事を通じて分かり合えると思っていた。頑張れば認められる、とも。
どんな人とも分かり合える。努力は結ばれる。
それは、私が学生時代の積み重ねから得てきた考えだった。
けれど、社会はそうではないということを槙田課長が教えてくれた。
どれだけ努力したとしても、槙田課長のお気に入りでなければボーナスの査定は良くならない。
仕事の過多も槙田課長の匙加減一つで決まってしまう。
槙田課長に振られる仕事は、全て淡々とこなしてきた。それが私の仕事だと思っていたからだ。そして、そうすることで課長と分かり合えると期待もしていたかもしれない。
「精神的な病気で、被害妄想があるって……なによ……」
胸につっかえているのは、橋田さんから聞いた槙田課長の私への見解だ。
きっと、自分に都合が悪くなったのでありもしない嘘をその場ででっちあげたのだろう。私がクビを宣告された時の録音を提出するまでは、橋田さんは槙田課長を被害者として扱っていて私への圧が強かった。
このままでは私が全て悪いことになってしまうと察して、昨日念のために用意しておいた録音を提出するにいたったのだ。
これは、社会人としてのわたしにとって初めての挫折だった。
分かり合えない人はいる。努力はむくわれないこともある。と。
「……飲みたい」
消化不良なモヤモヤを抱えた私の胃が、お酒を求めている。
辛いことがあったときにお酒に頼っていたら、アルコール中毒になるかもしれないと付き合い以外ではお酒を遠ざけていたのだが、今日くらいは飲んでもいいだろう。
これまでアーサー以外に誰にも言わなかったことを会社に相談できたのだ。お祝いというほどでもないが、少しぐらい羽目を外してもいいじゃないか。
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