憂う殿下・第6話
斯くして貴賓席のみ波乱に富んだ武闘会は閉幕した。優勝者の試合を誰も見ていないという有り様だったが仕様もないしわかるものでもなかろう。フェリニルとて毎年見ていないが特段問題はない。王がどうのというよりその下、各将が在野にある有能な人物に声をかける程度の事だ。
その後王宮では園庭を一般開放して祝いの宴が設けられていたが、フェリニル達一家は早々に辞して屋敷へと戻った。客人を迎えている立場であるし、何よりラディエルが我先に帰ろうとし続けた為である。
「では! 汗を流して参ります!」
言わずともよい事をわざわざ叫んでラディエルは玄関先から消えた。残された家族には沈黙が重い。
「……」
「フェリニル殿、書斎をお借り出来るか」
「は、はい! ……書斎ですか?」
「ダニグル殿の体格に見合う椅子があろう。私は其処で今晩寝ずに過ごす」
「……」
どうやらリシルファーノはラディエルの希望を叶える腹積もりであるらしい。なんと寛大な心持ちであろうか!
「客間にあれを招き入れて寝たら終わる。明日帰れもせぬ」
寛大だが現実をよく見ていた。リシルファーノは如何なる時も冷静だ。そういう点も素晴らしく思うが、これ以上考えたらラディエルがまた余計な喧嘩を売ってきかねないのでフェリニルは静かに相槌を打つに終始する。
「……部屋の前に兵卒を付けましょう」
「頼む。侍女はよい、哀れだ」
立ち会う侍女が哀れまれるような目に遭う覚悟の末、フェリニルの差配した侍女に連れられてリシルファーノもまた姿を消した。その背を見届けたのち──、
「フェリニル!」
「兄上!」
「誰か! お医者様を!」
フェリニルはとうとう胃痛で倒れた。気持ちが軽くなるのと現実で胃が痛むのとはまるきり別問題なのである。
そうこうした怒涛の翌朝は憎らしい程清々しい晴天で、ラディエル達が去るにはある意味絶好の行楽日和となった。
「……」
「……」
──きちんと睡眠さえ取っていれば、の話である。
「だ、大丈夫ですか……」
「あれとは別の馬車で寝る故問題ない。……それよりフェリニル殿、顔色が悪いぞ」
「お気遣い痛み入ります。私も問題ございませんので」
リシルファーノが地獄を見ていたであろう同じ時刻同じ屋根の下、フェリニルは頓服を含んで一晩唸っていた。このような状態を初めて見せた為、面倒を看てくれていたファイラーナにはひどく心配され申し訳なく思う。「胃痛持ちだなどと初めて聞きましたよ。どうして母に何も言わないのです」と朝からフェティニレラに詰られたのもまた不思議な感覚で、しみじみと家族というものを実感した一夜となった。つまりリシルファーノに申し訳ない程穏やかな時間を過ごしていたと言っていい。彼女に労られるなど逆に申し訳なさが溢れるばかりだ。
そんなリシルファーノは真逆にもきらきらと輝く笑顔を見せるラディエルの横、右手をひらひらと空に彷徨わせていた。如何にも堆肥の中に突っ込みましたと言わんばかりの顔であるが、先程ラディエルの昨夜の始末を確認せざるを得なかったフェリニルからすれば当然の反応としか思えない。
「一晩中ずっと婚約者殿のお手を苛まれておいででした……」
宵番として置いた兵卒が青い顔をして言う事は揃いも揃って同様であったので間違いはなかろう。ラディエルは一晩中リシルファーノの傍に侍り、与えられた手に口付け舐めしゃぶり、そうして延々過ごしていたらしい。
フェリニルの弟はいつの間にか完全に犬になっていた。大分性質の悪い忠犬だ。リシルファーノには平身低頭で謝罪するより他ないし、何がしかがあれば賠償金を支払うべきであるし亡命の手助けとてするべきだ。殆ど国家間被害者に相違ないのだから其処の融通は王家にも一枚噛んでいただく。とにかく、以後は家の資金を一部貯蓄に回そうと心に決めた朝となった。勿論リシルファーノへの賠償金というお題目である。誰にも文句は言わせない。
未来に思いを馳せていると横からフェティニレラがリシルファーノに向かって籠を指し示して見せていた。朝早くに出る事を考慮し軽食を用意したのだ。それとは別に、掌程の入れ物も手渡している。
「これは私の気に入りの御粉でして、擦り付けると汚れがぽろぽろと落ちますのよ。薬草が入っておりまして清める効果も高い物です。気に入りましたら市販ですので探してみてくださいましね」
「有難く」
言うやリシルファーノは蓋を開け、粉を念入りに右手に擦り込んでいた。すぐ横に手水を抱えた侍女も歩み出るのだから母もよき理解者だ。……まぁ先達でもあるし、当然だが。
「リシルファーノ様、いつでも兄が面倒を起こしましたら頼ってくださいましね。私達は味方ですわ」
「そうですよ、いつでも匿いますからね。なんなら何処ぞかの国までお送り致しますゆえ」
「こらこら何を言うんだ」
弟妹の言葉をラディエルは明るく笑いながら切って捨てリシルファーノの肩を抱いたが、彼女は即座その足を踏む。だが考えるまでもなく、この弟に対してならば褒美にしかならないのだろう……あっやっぱり嬉しそう……。
うんざりとした顔をするフェリニルの後ろ、ダニグルは気落ちしたように沈黙を守っていた。今回の件で散々な目に遭ったのであろうし、結果としてフェティニレラの言動が強くなるのならば子供としてそれに越した事はないので放置する。フェリニル達にとっては母が元気であるのが一番なのだから。
「皆様もお元気で、何かございましたらヨーレティエルナ王宮かお爺様方に連絡を。いつでもお力になりましょう」
手を拭き清め、リシルファーノは堅苦しくも晴れやかにこう言った。個人宛では潰されるやもしれぬと存外に込め公的に寄越せと言う腹はいつなりとも強く、その颯爽とした様にフェリニルは思わず頭を垂れる。正に人を使うに相応しい方だと重ねて思うばかりだ。フェリニルがこうなるには長い年月をかけた努力が必要であろう。
「閣下もどうか御健勝で……!」
いつの間にか〈閣下〉呼びになっている事にフェリニルは気付かない。しかしリシルファーノもまた指摘をするでもなくにやりと笑い、馬車へと誘うラディエルを張り飛ばして乗り込んでしまう。
その小さな後ろ姿を感慨深く眺めていると、俄に近付いてきたラディエルがフェリニルの目前に立った。
「兄上、暫しのお別れです」
「うん、無理はしないでいい。まぁ、母上には手紙くらいお寄越し」
「はい。兄上もどうか家族を宜しくお願い致します」
「言われずとも。この家がある限りは出来る事をするよ」
苦笑するフェリニルにラディエルはにこやかに笑む。
「問題ございません。この家は改めて存続致します」
「……どういう事だ?」
眉間に皺を寄せるフェリニルはダニグルというベシェリア王家・王弟の嫡子である。ダニグルは王弟であるし、他国に婿入りをした訳ではないからその籍を王家に置いていられる形だ。しかし子供達はそうではない。いつか他家へ散り、この家は消滅するのが常であった。そうでもしなければ王族を祖とした家柄で城下は立ちどころに埋め尽くされてしまう。それがわかっているから、王族とはいえフェリニル達は貴族達に軽んじられている部分があるのだ。
現状、フェリニルはリリナとの婚約がある為その地位を保っていると言っていい。けれどそれは殆ど形ばかり、全てはリリナ次第である。リリナはどうにも夢見がちなところがあって、その枷として付けられたような約束であるからだった。全ての目処が付けば婚約は消滅し、フェリニルはそれなりの貴族の元へ婿に出され、将来的になくなるのがこの王弟ダニグルの家である。それが、存続する、とは?
「昨日の私は兄上のお役に立ちましたでしょう?」
ピンと閃くものがあった。目を丸くするフェリニルにラディエルは益々笑みを深める。
「お前、私の声だけにわざと反応を……?」
「兄上の土台を盤石なものとするには宜しいかと」
──フェリニル殿、これで貴方の土台は固められた──
密やかに告げられた言葉が脳裏に蘇る。なんという二人であろうか。言わずして二人、同じ結果に向かって事を進めている。
「兄さん、どうか幾久しく」
大腕を振ってラディエルはもう一台の馬車に乗り込んだ。次にその姿を見るのは、二人の結婚式であろう。
──閣下、貴女にはやはり我が弟くらいしか添う者はいないのではないでしょうか。
そんな事を思いつつ、しかしフェリニル達はそっと思うのだ。婚姻を結んだ当日にラディエルが賊にやられ、リシルファーノが白い結婚のまま遺産を賠償代わりに継いではくれないかと。実の家族が思うにしては非道ながらも淡すぎる期待でもあった。
*
勿論そんな風に人生上手くいく事もなく、リシルファーノはラディエルの妻となり日々を過ごす事となる。その隣国にて、フェリニルはリリナ王女の降嫁に伴って正式な家名を賜り当主となった。過日のラディエルの読み通りと言うべきか、後日リリナが強襲し、結果的にフェリニルの地位を確固たるものとしたのだ。
「フェリニル様は我の強い女がお好みなのでしょう? でしたらリシルファーノ様は、その、無理ですけれど、わたくしでも十分だと思いますわ」
我の強い女がよいなどとは一言も言っていないし気の強い女云々もラディエルが勝手に言い出した事だ。しかしリリナはそのように捉えたらしい。
「わたくし、恋の一つであんな風になるのはごめんです! あんな風にされるのも嫌! わたくしがわたくしのままでも宜しいという貴方がよいの!」
「然様で……」
フェリニルに特段の否やもなく、その後もリリナがそれでよいと王に言い募る為、佳き日を得て二人は結婚した。以後、フェリニルはラガンタニア公爵と称する。王の義理の息子となり継承権五指内の人物として政治の中枢へ食い込む事になったフェリニルは最早侮られる事もない。気忙しい事もあるが、リリナの取りなしもあってそれなりに平穏な日々が過ごせていると言ってよいだろう。
尚、ラディエルのあの始末はリリナ以外の者にも多くの影響を与えた。ファイラーナも様々な縁談を選り好みしていた口であったが、唐突に「王家の為の婚姻で宜しいです。私にも私のやり様がございますものね」と思い切り、辺境伯の元に嫁いでしまったのだ。今代の辺境伯は低身長の薄毛という事で……なかなか嫁の来手がなく難儀していたのだが、最終的に王族からの降嫁となった為一番いい形に収まったと言える。恋愛をどうこう言うより目に見える形で国と夫に関わる方が楽しいと見え、円満に暮らしているようだった。
トリフェルもまた、ある日唐突に出奔したきり帰っては来ない。そんな弟を叱り付けて帰宅させる気にならないのは「夢も希望も大分失せたので自分なりの暮らし方を考えたいと思う」と伝えてきたからだった。手紙はちょくちょく来るので心配せずに済むのが幸いと言えようが、最近はファイラーナの降嫁先とは真逆の方向の辺境の砦に身を寄せ其処の将軍によくされているらしい。「その将軍、男色家だった気がする……」とフェリニルは思い出したが、言わぬが花という事もあろう。第一人生探しをしているのはトリフェル自身なのだからトリフェルがどうにかすべき件である。
各々が己の人生を定め、進む事数年。フェリニルは己の手の内にある二通の手紙を眺め、嘆息した。
「……リリナはいただろうか」
「サンルームでお茶をなされているかと」
即座トリフェルはサンルームへと足を運ぶ。此処最近王の反応がおかしかった理由がようやくわかった、王はこの事を知りながらずっと黙っていたのに違いないのだ!
今日日晴天で、サンルームに近付けば近付く程姦しい女性達の声が囀るように響いていた。声音から察するに虫の居所が悪いという状態ではないと思う。
「ほほほ、あの女狐の顔、何度思い出しても愉快だこと! わたくしの旦那様に秋波を寄せるから悪いのよ!」
「奥様が一番お美しくていらっしゃいますわ」
「勿論よ! 旦那様を内から外から支えるのはわたくしが一番! 美しくて何より強いわたくしこそが相応しいのよ!」
「……」
フェリニルは家令の顔を見つめた。いつも通りの凪いだ顔だ。
「……リリナは今、機嫌がよいのかな?」
「宜しいかと思います」
うん、と一つ頷きフェリニルはサンルームへと足を踏み入れる。途端奥の椅子に腰を下ろしていたリリナが立ち上がった。
「あらあら旦那様! 顔色がお悪いわよ!」
胃の方かしらと言いながらリリナはフェリニルをソファへと誘い背を摩ってくれた。いつかと変わらぬ、小さくて優しい手付きである。
「リリナ、今日は少し話を聞いてほしくてね。私一人で抱えるにはつらい事だ」
「勿論ですわ!」
力強く笑うリリナが頼もしく、フェリニルは笑いながら口を開いた。
「ラディエル達が辺境伯を戴いたようだよ」
「ヒッ」
すっかりラディエルが鬼門となったらしいリリナは名を聞いただけでこの反応である。虫か何かを払うかのような仕草を見せる彼女に苦笑し、フェリニルは続ける。
「南の三角地帯があるだろう? あの三国が重なる部分。彼処の辺境伯に新しく着任したそうだ」
「南の……という事は、ファイラーナ様がいらっしゃるわね!」
「ああ。ファイラーナからも手紙が来たよ」
内容はといえば「リシルファーノが来るのはよいがラディエルは要らない」という一点を延々訴えるもので、正直フェリニルにはなんとも出来ない。しかも件のリシルファーノも暫くは宰相として王都での生活を続けるらしく、ラディエルは単身辺境領へと向かう羽目になったのだという。ラディエルからの手紙はリシルファーノと離れる事のつらさがびっしりと書き連ねられ、読むのに辟易する始末であった。
とはいえ、フェリニルは何も出来ない。全てはきっと、昔のあの武闘会での戦い振りで定められた事なのだろう。リシルファーノが采配し、数年をかけて二国間で調整して成した事に違いないのだ。となれば兄として出来る事は只一つ、愚痴を受け止めてやる事ばかりである。
「遠いところにいらっしゃるのならば構いませんわ」
「けれど愚痴はどうしたって生まれるものだ。私に出来る事は聞いてやる事くらいだから」
「もう! 貴方は優しすぎるわ!」
温い白湯を用意させ、リリナはひたすらフェリニルの背を摩ってくれる。その優しささえあれば何事も流せるだけの強さを持てる気がしてくるのだから十分だろう。
「有難う、リリナ」
「どういたしまして!」
にっこりと笑うリリナにフェリニルは笑った。きっと全てがそれなりに、自分達夫婦のように落ち着くべくところへ落ち着いてくれるのだろうと。
──更に数十年の年月を経、己の孫が隣国からとてつもなく馴染みのある顔立ちの少女を攫ってきてしまう事、その後方を馴染みのありすぎる老女が怒髪天を衝き追ってくる事をフェリニルは知る由もない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます