怒れる下女・第3話

 

 

 

 さて、街の端まで来てしまった。このままぐるりと一回りして邸まで帰ればよいだろうか、とエーリアが提案すべく顔を上げると、リシルファーノの背は既に山際に向かって進んでいた。

「ど、どちらに行かれるんです!」

 大慌てで叫ぶ言葉にリシルファーノはなんでもない顔をして「山だ」と返す。それはそうだろう、そちらには山しかない。

「今山狩り中です! 危ないですよ!」

「知っておる。だから行くのだ」

「なんでですか!」

 エーリアが追い縋るもリシルファーノは聞きもしない。ずんずんと足は山に分け入り下草を踏む。

「エーリア。この山には裏道があると聞いたがどちらだ」

 右か、左か。簡潔に尋ねてくるリシルファーノに、エーリアは「裏道というか、獣道ですけど! 左です!」と叫んだ。

「なんでそっちに行くんですか! そっちは〈腐れ穴〉の道ですよ!」

「その〈腐れ穴〉を見に来たのだ」

「へっ」

 リシルファーノの言う〈腐れ穴〉とはこの山の中にある大きな洞窟……といっていいのか、とにかく広い洞の事である。奥行きはあまりない。年がら年中何かが腐れたような臭いがし、なおかつ蒸して湿気ている。どう考えても普通ではなく、まるで呪いではないかと忌避されている場所だった。だから、敢えて其処に向かおうとしているリシルファーノの気持ちがエーリアにはさっぱりわからない。

「絶対いいとこじゃないですよ、たまに風で嫌な臭いが漂ってきたりするんです!」

「どういう嫌な臭いだ」

「えーとなんていうか……卵の腐ったみたいな臭いです!」

 エーリアが自信満々に「嫌でしょう!」と言うと、リシルファーノは「嫌だが報告通りだ」と返した。

「報告ですか?」

「ああ。既にこの地の調査に関してはある程度ラディエルから伝えられている。中でもこの〈腐れ穴〉は興味深い。是非見てみたいと思っていたのだ」

 どう考えてもどうかしている。だが、リシルファーノが行こうとするならエーリアには拒否権がない……もう駄目な事は伝えてこれなのだから仕方がない!

「絶対騎士とか従僕を連れてきた方がよかったと思います!」

 諦念を隠さず足を進めるエーリアは、リシルファーノが愉快げに口の端を歪めた事を勿論知る事はなかった。

「さて、改めて問うがこの〈腐れ穴〉についてはどう伝えられているのだ?」

「はあ……。なんかやたらめったら臭い洞です」

「……それだけか?」

「それだけでも遠ざけるには十分じゃないでしょうか?」

 ざくざくと下草を踏み分けながら進む事暫し、それ以外にする事もないから二人は取り留めもない会話を続けていた。リシルファーノは報告を受けていると言っていたが、街で囁かれているような小さな事まで大抵耳に入っているらしい。特段目新しい情報もないと見るや、エーリアへの質問を打ち切った。

「報告の内容から、此処の臭いの元は硫黄ではないかと踏んでいる」

「いおう」

「非常に広範囲の山脈からなる此処は、元は大きな火山であったのではないかと推測している。火を噴く山であった、という事だ」

 突如とんでもない事を言い出したリシルファーノを見るも、彼女は頑として振り向きもせずまっすぐに歩いていく。

「火山であったとすればこの山脈の大きさも納得がいく。この広大さ故に南方からの侵略は難しい。ベシェリアとの国境に関しては標高が低いが、現状友好国であるので問題はなかろう」

「い、今は大丈夫なんですか? その火を噴くっていう……」

「わからぬ」

「そんなあ!」

 非情な応えにエーリアは声を上げたが、「その為にも調査を進める予定だ」と付け足されたので黙る事にした。なんにしろ一個人に出来る事は少ないし、話もとっくに個人の範疇を超えているのだ。

「して、ヨーレティエルナでは見る事はないが、もっと北方の国ではそれなりに同様の案件があってな。今回そちらの国で発掘作業に携わった経験のある職人を呼び寄せてある故、時が来ればこの山を一部削る事になろう」

「山を削ってどうするんですか……?」

「湯水を出すのよ」

「ゆみ……お湯?」

「そうだ」

 聞けば火山なるところには地下水が温められている部分があって、地下水を掘り当てるのと同じようにお湯を掘り当てる事が出来る可能性があるらしい。卵が腐ったようなあの臭いをしてどうしてそうした事象に結び付くのかエーリアには全くわからないが、それはエーリア自身の知識の限界なのだろう。

「私もそちらの方面には明るくはない。だが、もしそれが当たるのならば、この地を観光の面でも発展させる事が出来る」

「観光地に……なりますか?」

「なるとも。一大保養地になる可能性がある」

 まぁ今はまだ可能性の一つに過ぎんがな。

 順序よく語られる可能性とやらは、それでもエーリアにはいっぱいいっぱいの情報だった。この荒んだ田舎が観光地に? どういう風になるのか想像すら出来ない。

 半ば目を回していると、鼻先に馴染んだ臭いが飛び込んでくる。エーリアは思わず鼻を摘んでリシルファーノを呼び止めた。

「リシルファーノ様! 臭いがしてきました!」

「……うむ、確かに臭いな……」

 眉を顰め、リシルファーノは取り出したハンカチーフを顔半分に巻くなどしている。エーリアも倣うように懐に突っ込んだままだった布巾を巻くと、「あまり近くに寄らない方がいいと思います」と告げた。

「濃い臭いに鼻どころか胸までやられる人もいるそうなんです」

「成る程……それはあまり近寄るべきではないな」

 悔しそうにするリシルファーノは肺が悪いという。ならばこそ安易に近寄れる場所ではない。

「一度邸に戻りませんか? 旦那様達が帰られましたら、手勢を連れての調査をお願いする事も出来るかもしれませんし」

「……そうだな」

 お前もいるしな、無理は禁物か。

 まるでエーリアがお荷物のような言い方をしてリシルファーノは足を止めた。しかし、本当にお荷物ならとうに捨て置いているだろう。そしてエーリアの言葉になど聞く耳を持たず、もっと奥まで進んでしまっている筈だ。

 つまり、引くべきところを知っているリシルファーノは少なくともエーリアが知るお貴族様の中では格段に状況判断に長けている。

「有難うございます!」

 思わず礼を述べるとリシルファーノはおかしな顔を晒した。何故感謝を受けねばならぬのか、という顔だ。けれどそうした一つ一つの優しさをエーリアはあまり受けずに来たから、彼女の動作、判断、その全てに感謝をして止まない。

 だって、リシルファーノはエーリアをきちんと見てくれている。その他大勢ではなく、一個人としてエーリアを認めた上でエーリアの言葉を受け止めてくれるのだ。それがどれだけ得難い事か!

「リシルファーノ様が大変お優しいので!」

 溌剌と言うと、リシルファーノは腕を組んだ。

「私は別に優しくともなんともない。生きる事はつらいのだと生まれてこの方身を以て知っているから、全てを前倒しにこなしているだけだ。後々、少しでも楽をする為にな。よりよい判断は遠回りに見えてその実、何より早い結果を生む。だから私は全ての手札からよりよい選択を引っ掴んでいるにすぎん」

「人間誰しもそれが出来たら苦労しないんでしょうね……」

「全くだ。だが、そうして誰も彼もがいつか穏やかに生きるべく日々を必死に過ごしている。エーリア、お前も、そして世の中の誰もが基本的にはそうであろう。死する前、その幾許かは穏やかに生きたいものだと」

 ──だが、今はまだ無理な話のようだ。

「え」

 エーリアが声を上げた刹那、リシルファーノがその腕を強く引いた。思わぬ力強さに反抗も出来ず飛び上がるように彼女の懐に抱かれると、途端背後で鈍い音がする。

「……え?」

 恐る恐る振り返る後方、木々の間。

「おう、意外に逃げるじゃねえか」

 エーリア達と同じように顔半分を覆った荒くれ者と思わしい男達が、地表に太い剣を叩き下ろしていたのだった。

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