怒れる下女・第2話


 

 

 城下街シティリヒトは邸から跳ね橋を渡ればすぐだ。徒歩でなんの問題もない距離であるが前領主一家は絶対に足を使う事なんてしなかったし、そもそも商人は呼びつけるものなので街を見て回るなんて事もなかったように思う。

 晴天の最中、エーリアはいつもの慣れた道を知らぬ女性と歩いていた。跳ね橋に駐在している門番は見慣れない人間に従っているエーリアを二度見したが、邸の方は騒がしいし強引に入っていった馬車は戻らない。つまり前を行く人間はそういう事だとエーリアはつんと顎を上げる。

 そうして跳ね橋を渡る頃、女性は「エーリアといったな」と口を開いた。

「え、はい!」

 どうして、という顔をしていたのだろう。女性はエーリアに「執事が名を呼んでいただろう」と言う。そういえばそうだ、名指しでご指名いただいたのだった。

「はい、エーリアと、申します……」

 エーリアは使用人としては下層の掃除婦で、通常は表に出るべき立場ではない。今でこそラディエルがよくしてくれるので当然のような顔をしているが、前領主の頃は口を開くなど了承以外許されず、そもそも目に付くところに堂々といていい存在ではなかった。だから、こうした場面でどう立ち振る舞うべきであるのかを一つも知らない。

 従僕でなくて本当によかったのかとびくびくと応えたエーリアに構わぬ顔をし、女性は「今日は頼んだぞ」とはっきり告げた。

「……えっ」

「どうした」

「いえ、あ、えと! あの! お偉そうな方にそんな事を言われたの!」

 旦那様以外、初めてで……。

 あまりに乱雑な口の利き方だという自覚もあり、尻すぼみになると女性は眉を顰めた。曰く、「人として当然だろう」。その当然を、エーリアは今まで知る事はなかったのだが。

「第一私は此処を知らない。まぁ連れはなくてもよかったが、見知らぬ土地であるしあの執事の顔を立ててやったまでよ。あまり気負うな」

 飄々と言うそれは、しかしエーリアには頷けない言葉だ。

「き、気負います……! 私、あの、掃除婦なので、言葉遣いがなっていないと思います、すみません……!」

「王宮の侍女に案内をさせている訳ではないのだ、気にせん。それと、私の名は〈お偉そうな方〉ではない。リシルファーノという」

 エーリアは今度こそ明らかに妙な顔をしてしまった。それを見、女性──リシルファーノはその厳しい目を少しばかり細める。

「珍しいな。学があるのか」

「あの、お邸で、ボロボロになっていた本を読んで……。物置で打ち捨てられてました! 盗ってません!」

 ぶんぶん手を振るもリシルファーノは「そんな事は聞いていない」とにべもない。

「私の両親が男児を望んでいたという話ではない。名付けが面倒だっただけだ。でなければ当時流行っていた俗な小説の、しかも顔だけはよい間男の名を付けぬだろう」

 そう、リシルファーノという名は男名だ。そしてエーリアが読んだ本に出ていた登場人物の一人、正に間男の名なのである。風が吹けば倒れそうな嫋やかな、けれどずる賢い間男。まさかその名を実際に、こんな風に聞き知る機会があろうとは人生わからぬものだ。

「この顔でこの名だ。お陰で年嵩の人間には一発で覚えられたものよ。まぁそれに比べればエーリア、お前の名は可愛らしくてよい名だと思うがな」

 歩きながら言うリシルファーノは心なしか気安く思える。エーリアはなんだか肩の力が抜けてきた己を自覚した。

 邸からすぐ、〈街〉というか〈町〉というような其処は以前と比べたら格段に賑やかだ。ラディエルが山賊や破落戸の類を一掃してくれたので、治安が段違いによくなったお陰である。前領主が嘆いていた通りに確かに貧しいのではあろうが、それでも田舎から出てきたエーリアには十分都会だったし、何より明るくなったのは嬉しい事だ。

 エーリアはそうつらつら説明しながら街を歩いていた。ちょっと気が抜けたら生来の快活な様が前面に出て、口が滑らかで仕方がない。自分でもどうかと思って少し口を噤むと、視界の端に見慣れた顔が映り込んだ。

「ジアードさん、こんにちは」

 ジアードは邸と契約している卸業者で、この街の商会長である。エーリアはよく使い走りもさせられていたので彼の店に行く事もよくあり、同情されて顔が知られていた。商売人として素直な彼は「お前は表向きじゃねえか」と言っては邸を辞めたらいいと勧めてくれていたものだが、邸を辞して眼前で働き始めたりしたら嫌がらせに遭いそうでもあったのでエーリアはその話を有難く思いつつ辞退していた。

 領主邸の仕事は最低であったけれどこの辺りでは一番名が知れていたので、邸を辞めるのならば別の土地に移動するくらいの規模でなければ行動に移せなかったのだ。そしてエーリアにはそれだけの蓄えも伝手もなかった。

「お、おう……エーリア、お連れの方はお客さんかな?」

 恐る恐る言うジアードの態度も納得である。先程から街の人間があちこちからエーリア達を見ていた。つまるところ、リシルファーノを。

「はい、王都からのお客様でいらっしゃって。シェダ様のお言い付けでお供しているところです。リシルファーノ様、こちら、商会長のジアードさんです」

「リシルファーノだ」

 リシルファーノは背も低いし顔も怖いし、それでいて身形が一番綺麗で、この場では明らかに異分子だ。けれど誰よりも堂々としていて、そして何より事実偉い。ジアードは田舎町のそれとはいえ商会長だ、即座にそれを察して機敏に挨拶した。

「ダガル・ジアードと申します。失礼ながら王都から官吏服でという事は王宮からの監査で?」

「うむ。ラディエル・ロワライナが着任して三年になる。一度確認をするが筋であろう」

 後ろ手を組んで言うリシルファーノのそれにジアードは反応する。……エーリアが思った通りに。

「辺境伯様は立派な御方です。我々平民にもよくしてくださる……。監査が筋だというのなら、前の領主の時にしていただきたかった!」

 わかるわ〜とエーリアは心底思う。前領主の時にしていただきたかった。クソな様を明らかにしていただきたかった。周りも同じ事を考えていたのだろう、口々にジアードへの賛同が上がる。

 さて、これをどうするのか……。エーリアが窺い見るも、リシルファーノはその厳しい顔を一つも歪める事はなかった。しかし。

「辺境伯?」

 リシルファーノはどうしてか言葉尻を上げた。意味がわからず誰もが瞠目する。

「は?」

「……いや、よい。まず、一点。平民によくする事がそのまま立派な人物の証明にはならない。上に立つ人間は己の為にわざと下の人間を持ち上げる場合がある。恩を感じた相手がのちのち、自ら己の盾になってくれるからだ」

「御領主様は!」

「次に一点。前領主への監査は決定していた。遅くなった事は詫びよう、しかし国は広い。全ての領地に対し、一気に監査をかけるだけの人員は割けない。監査は突如行うから監査としての威力がある故に、近しい地域を連続で監査対象にする事は出来ない。ようやく此方への監査が内定した直前に領地替えの打診があり、監査は流れた。何故かわかるか」

「い、いえ……」

「ララビエンザ一族が能なしである事はとうに知れていた。ならばあまりにも馬鹿な訴えだが飲んでしまった方が国に利があると考えたからだ。そうとなれば新たな辺境伯の選定が必要になる。現在の全てを投げ出して辺境に身を投じてくれる貴族──、そう簡単に見つかるものではない」

 辺りは静まった。当然といえば当然の返答だったからだ。年数をかけて選定してくれたお陰で今ラディエルが此処にいる。逆を言えば、適当な選定でもっとひどい貴族が着任していた可能性だってあった。……堪えただけの結果があるだけまともだろう。

 肩を下げたジアードをどう見たか、リシルファーノは「いい事を教えてやろう」と人差し指を上げた。

「ララビエンザ辺境伯、後、ララビエンザ子爵。今は平民に落ちぶれて離散している」

「えっ⁉︎」

 エーリアが目を真ん丸くしてリシルファーノを見ると、彼女はうんと一つ頷く。

「武勇もなければ商才もない。内々の予想通り三年待たずに資産を食い潰し、平民落ちして王都から行方知れずだ。少しは溜飲が下がったか」

「……はいっ!」

 思わず周囲からは喝采が上がった。根性が悪くて申し訳ないが今日一番の本当に嬉しい知らせに、エーリアは笑顔でリシルファーノに礼を述べたのであった。




 そんな訳で、街中は突如祝いの席に姿を変えた。誰も彼もが前領主には煮え湯を飲まされてきたから、リシルファーノの知らせは何よりの吉報である。現領主への監査がどうのという重要な一点をすっかり押しやって、酒を出せ商会長の奢りだと沸きに沸いている始末だ。

 この吉報を伝えてくれたリシルファーノも勿論ジアードに宴の席へと招かれたが、彼女はこの後も予定がある故と思わぬ程丁寧に辞していた。その代わりにか、半ば強引に渡された蒸したパンを手に離れる背を追い、エーリアも喧騒を離れた。

「あの、有難うございます! 本当に嬉しい知らせです! 邸の皆も絶対に喜びます!」

「あの程度で喜ばれては困る。お前達はもっともっとよい暮らしをするべきなのだ」

 辺境だからと野を這うような暮らしをする必要はない。田舎だからと諦める事もな。私達のように上に立つ者が、率先してそうすべきなのだ。お前達はしなくてもいい苦労をさせられてきた。その分、これからいい暮らしをさせてやる。

 言い方は優しくもなんともないが、内容はとてつもなく優しい。ついでにパンも半分に分けてくれた。エーリアはすっかりリシルファーノへの胸の突っかかりが解けたのを感じていたが、断じて餌に釣られたとかいうアレではない。

 ラディエルだけではない、偉い人の中にはこうした人間もいるのだ!

 パンを食べつつにこにこと追従するエーリアに、リシルファーノはゆったりと辺りを見つつ口を開く。

「エーリア、お前は字が読めるな。シティリヒトは教育が盛んだと聞いた覚えはないが、何処でどう学んだ」

「っん、む、はい! 私は、その……学校は行ってませんし、そもそもありませんでした。住んでいた村には神父様が教会で教えてくれる教室があって、でも私は通っていません」

 パンの具を飲み込み胸を叩いて、エーリアは捨てた故郷の事を思い浮かべた。

 エーリアの故郷は現ロワライナ領の西の外れ、ど田舎の丘陵地帯である。そんな田舎の馬飼の四女として生まれたエーリアは、その瞬間から愛されるべき子供ではなくただの働き手で、いつか適当に外に出される予定の女だった。物心ついた時には親と兄にこき使われ、弟妹を世話して生きていた。次女までは歳が離れていたので、とっくのとうに嫁に出されていて仔細を知らない。

「リシルファーノ様はいい名前だと仰ってくださいましたが、エーリアっていうこの名前、多分適当に付けたんですよ。思い入れもないんだと思います」

 当然のように搾取されて生きていたエーリアの人生を当然と思わないように広げてくれたのは三女だった。三女は一家の中でずば抜けて頭がよく、読み書きも出来た。あんまり出来がよかったから神父様が直々に声をかけてくれて、だから教会に通う事が出来ていた。田舎の人間は人目を気にするから、神父様のお声がかりと言えば拒否しづらいのだ。

「姉とは一番歳が近かったので、仲がよかったと思います。手隙に読み書きを私に教えてくれて、弟達は馬鹿だったので駄目でしたが……だから此処に来て、放っておかれていた荷物の中から本も見つけて読む事が出来るくらいにはなれました」

 とはいえ、田舎である。三女は突然、馬の買い付けに来た男の後妻に貰われてしまった。所詮馬飼の娘とばかり、馬と同じように連れられていってその後を知らない。

「あの日、馬車に無理矢理乗せられた姉を見て、あ、私もああなるんだなって」

 見せつけられた現実がエーリアにはこびりついて離れなくなった。ひたすら家の手伝いをして子供の世話をして、擦り切れて毎日を過ごしていつか見ず知らずの男に牛馬のように引き取られ、そして延々繰り返す。悪夢だ。

 エーリアは馬鹿だったので、結婚したくないと一度正直に言って母親に死ぬ程打たれた事がある。身体中のあちこちが痛くてどうしようもなくて、それでも誰も心配なんてしてくれなかったし、なんならご近所でも馬鹿呼ばわりされて笑われた。

 エーリアは子供なんかじゃなかった。三女は愛してくれたが、親に愛される子供なんてものは知らない。エーリアはただの、無給の労働者だったのである。

 ある日の夜、両親が自分の嫁入り先の話をしているのを知って、エーリアはそのまま実家を出奔した。荷物なんて物は元からない。着の身着のまま、田舎の丘陵地帯を駆け抜けた。がむしゃらに走って胸は痛かったがスッとした。馬鹿を見ろ! そう夜空に叫んでやりたいくらいだった。

 そうこうして運よく街道に出たエーリアは早々荷馬車に行き合い、荷下ろしを手伝う条件でシティリヒトまで来る事が出来た。幸運に幸運が重なった結果だが、此処から先はそうはいかない。そもそもが辺境ともなれば女の足ではなかなか他の土地にも移動が困難で、まずは生活拠点をシティリヒトに定めて暮らす道を選ばざるを得なかった。其処で出てくるのが領主邸なのである。

「前の領主の時は人使いが荒かったし、評判がめちゃくちゃ悪かったんです。だから人がなかなか居着かなかったらしくて、いつでも求人が出てて。求人出してる割に薄給なんですけど。でも、そんなだから着た切り雀で身元もわからないような私でも雇ってもらえました。やっぱりめちゃくちゃ文句言われましたけど。それからずっと掃除婦として勤めています」

 時間も金もかかるから、家族はエーリアを探して連れ戻すなんて事は欠片も考えないだろう。けれど、泣いて戻る可能性は頭にあると思う。そんな事になったら元の木阿弥だから、何がなんでも領主邸を辞める訳にはいかなかった。エーリアは齧り付くようにして今の今まで日々を過ごしてきたのである。

「何処の女も苦労が絶えん」

 言い捨てながらリシルファーノはもりもりと豪快にパンを咀嚼した。全くその通りです、とエーリアは素直に頷く。

「エーリア、私は独り身だ」

 そうでしょうね、とエーリアはリシルファーノを見た。と。

「嘘だ」

 なんだと。思わず団栗のように目をまん丸にして見返すとリシルファーノは笑った。正に悪役と言うに相応しい低い笑いである。

「普通はそうなる、気にするな。私とて結婚するつもりはなかったが政略結婚でな。そうでもなければ日々真っ当に働いて、老いてからは修道院に入る心算であった」

「修道院って物語の中だけじゃなくて本当にあるんですね……!」

「此方にはないのか?」

「私は見た事ないです。神父様と一緒にいる修道女なら見てましたけど……女の人だけなんですよね?」

「そうだ。悪事を働いて入れられる女も勿論いるが、世間から離れる為にわざと入る女もいれば匿われるように入る女もいる。私は老後を過ごす為に見繕った修道院に寄付を続けていて、諸手を挙げて招かれる予定だった」

「勿体ない……!」

「全くだ」

 大きな溜息が二つ、晴天に消えた。寄付した金は戻らない。

「まぁ、夫はともかく義理の両親は得難い方々だ。私は肉親には恵まれなくてな、ほれ、間男の名を付けるくらいには子供に興味がなかった」

 それに引き換え義理の両親は優しい。遠くに嫁した娘の代わりもあるのだろうが、義理の母はまるで子供を相手にするように毎日丁寧に髪を結ってくれる。娘の小さい頃に、満足にしてやれなかったからと。

 リシルファーノの髪は成る程美しかった。毎日綺麗に梳かれている事がわかる程黒光りしていて、きっと義母の手慰みの為にも伸ばしているのだろう。

 エーリアは思わずにっこりと笑み崩れた。リシルファーノが思う以上に優しい女性である事が証明されたも同然だったからだ。

「実のところ、夫は義理の両親の実の孫でな。娘の子を養子に迎えて家を継がせたのよ。そうして私と結婚する事にもなった訳だが」

 あの両親を思えば離婚する訳にもいかぬ。義理の両親が守ってきた家を放置する訳にもいかぬ。

 リシルファーノはそう言ってパン屑の付いた両手を叩いた。高い音がまたしても晴天に消えていく。

「貴族の方も面倒なんですねえ。平民も同じですけど」

「何処も変わらぬよ。女は面倒だ」

 リシルファーノの言に、エーリアは真摯に頷いたのだった。

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