最終章・リシルファーノと犬
リシルファーノ七世は美しい衣装を身に纏い、据わった目付きでこう言った。
「誰ぞあれを殺してはくれんか」
「……無理でございます……」
「……わかっておる。わかっておるがな」
言いたい事もある、許せ。
溜息一つで口を噤む彼女は本日婚姻を結ぶ新婦であり、何よりこの地を治める女王となる。本来ならば慶事であり、笑顔で迎えるべき日和なのであろう。だがリシルファーノ七世は生まれてこの方笑み崩れた事もないから土台無理な話である。
「あれが今のわたくしを見たらでろでろに褒めるのであろうな……」
「はい……」
「一欠片も嬉しくはないのだがな……」
過去の御歴々もこのような気持ちであったのだろう。
最早生贄が如き台詞に部屋にいた侍女、騎士の類は皆首を垂れた。誰もがリシルファーノ七世がこの婚姻を喜んでいない事などわかりきっているが、然りとて如何とも仕様がない。
何せ相手は〈犬〉であるからして。
このロワライナ興国はその祖をヨーレティエルナ王国辺境伯ロワライナ卿の支配にまで遡る。
初代辺境伯リシルファーノは初の王宮女性宰相から初の女性伯爵として寂れた辺境を開拓し、一代で周辺国家随一の観光地を作り上げた不世出の傑物である。
辺境という地の特性上武力も有さねばならず、彼女はその一切を辺境伯軍総大将ラディエルなる夫に一任した。彼は妻の為なら如何な難題も片手で薙ぎ、ひたすらに妻を愛した。その盲愛をして世の中の人々は〈犬〉と称する。
──此処が始まりである。
少しばかり年数を置き、リシルファーノ二世が統治する時代が来る。彼女は初代の孫娘であり、その薫陶を受けて育った正に成るべくして成った〈リシルファーノ〉であった。初代と比べて身体が頑強であったのも幸いと言えよう。彼女はその治世の間己の得物を傍に、いつでも馬で駆けて領地を走り回ったという。
その後方、必ず侍っていたのが彼女の〈犬〉である。彼は二世が幼き時分、その身を攫った誘拐犯だ。誘拐犯が何故当然の顔をして侍るかと言えば、彼が二世の縁戚で、更に二人揃って隣国王室の血縁者であったからだ。背負うものを思えば対外的にも話を大きくする訳にはいかず、せめて智力なり武力なり有してやってくれば婿にしてやろうと初代が約して後、〈犬〉は傭兵軍を従えてロワライナ領に下る。この治世では他国への傭兵の派遣が大きな収入源の一つとなった。
更に時を置いてリシルファーノ三世の時代である。彼女は唯一の嫡子であり、平穏で莫大な富を有する領地を必ずや引き継ぐ立場であった。となれば醜女と噂されてもそれなりに見合いの話は立つ。が、どの話も途中で消えた。
豈図らんや、家ごと失せるとは。
とはいえ、念入りに調べれば何処も真っ黒で否やはなく、引き入れなくて正解とくる。歳を重ね養子を思案した矢先、ひどく歳若い婿が決まった。この婿は意外な程三世を熱愛し、また領地の為に国中のありとあらゆる情報を得続けた。──死後に彼、つまり〈犬〉の調略が判明する。この年代は新興貴族が多く隆盛を極めた。多くの貴族が悪行を為し、結果〈犬〉の策に落ちて家名を失った為だ。……彼自身の実家すらも例外ではない。ヨーレティエルナという国の腐敗が始まっていた。
決定的な変化はリシルファーノ四世の御代にて起こる。彼女は十代の初め、視察の最中に旅団に襲われた。
「我が女王よ!」
そう言って泣いて縋ってくる四十路絡みの熊のような男に襲われたのだ。恐怖であったろう……。
だが、その男が王配になり、リシルファーノ四世は女王として玉座に就く事になる。ヨーレティエルナが他国に併合されたのを機に独立を勝ち取る成果を得た為だ。旅団を纏めていた男は弁も立ち、文武の才にも長けていた。女王の傍らで辣腕を揮うには打って付けの人材であったのだ。
以降、ロワライナ領はロワライナ興国と名を改める。王国でもなく興国なのは、国を治めるつもりがなかったからだ。初代から歴代〈リシルファーノ〉には国を治めるに足るやる気がない。己の目で見れず手でやれぬ事には本気を出さぬ質と見え、少しでも未開発の部分があれば其処に全力を投じた。故に興国。いつでも解体出来るのだと素気なく言い、反面常に興りたてのような、ある種の活気に満ちた国となった。
その当事者である四世は大変な歴史家であったという。政の数々は夫たる〈犬〉がやれる部分も多かったし何より第一に王位を抱くつもりがなかったので、彼女はその分歴史を紐解く事に尽力した。そして、己の血脈はどうやら並々ならぬ男達を引き寄せるようだと気が付いたのだ。
初代から数えて己を四世と銘打った彼女は歴代の初代によく似た醜女故に名付けられた〈リシルファーノ〉を王、それ以外を王補と定め、伴侶たる〈犬〉の探索を命じた。
それぞれの時代の〈犬〉は、どうやらそれぞれの〈リシルファーノ〉を補う性質を持っている。そして何より恐ろしい程の愛情を。上手く躾けられればよいが、下手を打つとリシルファーノの周囲が血の海となる事は必至であった為、王家の核として遺したのだった。
それが明確になったのは五世の御代である。五世が王として即位する直前、実兄が突如内外に「王補ならぬ王である」として即位を発表し、五世を討たんとした。その兄を、そして兄に与した人間達を諸共弑したのは一人の近衛兵である。美貌で知られたこの男は五世だけに忠信を捧げ、恭しく彼女の兄の首を献上した。
「成る程、お前がわたくしの犬か」
五世はそう言って、彼を王配とした。この献身は内外で物語としても語られるが、事実は少しばかりきな臭い。
「お前、兄を嵌めたな」
いつかの日、そう呟いた五世に〈犬〉は美しく微笑んだと密かに記録されている。
この変を機に四世の遺した書が王家に浸透し、王族は帝王学にそれを組み込んだ。
リシルファーノの〈犬〉は何処から現れるやらわからぬ。国内にいる場合もあれば遥かな遠方にいる場合もあって、けれど必ずリシルファーノの前にやってきた。時間も場所も関係ないとくれば、歩いている最中に柱の陰からいきなり現れても不思議ではない。勢い愛を爆発させる〈犬〉に法など無意味だ。
必然的に〈リシルファーノ〉の周囲は最大限に警備される事となった。殆ど犯罪者の扱いだが、実態も間違ってはいないから仕方がない。
そうこうして六世の御代、とある宴の席で〈犬〉は現れた。彼は他国の外交官の息子で、突如我が身に滾る愛のまま、まるで壊れた噴水のように六世に知り得るだけの各国の情報を零し続ける。あまりの事に慌てて連れ込まれた王宮の奥の奥、彼の実父はすっかり顔色をなくし自国で首を括る勢いであったものの、其処は六世がその国には手を付けぬ事を約束して王配に召し上げた。
六世の統治は外交手腕に長け、最終的に開戦もなく国の境界を二国分程外に拡げたが、その功績はと言えば……言うに及ばぬ。
時代は巡り、七世が生まれた。今代、すっかり行き届いていた〈リシルファーノ〉としての教育は彼女を全てから守り、後の〈犬〉からの勢いもまた収める筈のものであった。
ところが、である。
「やんやぁ」
「あらあら、ほら、お離しなさい」
「ビャーッ‼︎」
七世は幼児期より乳兄弟に気に入られていたのだという。七世の乳母になったのは母の親友で、故に己の子供と纏めての育児が許された。特別扱いは自覚していたのできちんと弁えて過ごしていたらしいが、幼児には通用しない。
「うちの子は余程姫がお気に入りなのね」
そう笑っていられたまではよかった。しかし状況はどんどん悪くなっていく。一緒にいなければ泣き喚くしくっ付いていなければ大人しくしないし、くっ付いたらくっ付いたで口付けは止まないしなんなら噛み付く。
「すまぬが一時引き離そう、〈犬〉やもしれぬ」
六世を見ていた唯一の世代だった王補の祖父母がした提案に、乳母夫婦は反抗もなくすっかり草臥れたように頷いた。最早躾でどうにかなる領域を越えていて、子供であっても手が付けられなかったからだ。初めての子でもなかった筈なのに思いもかけぬ程振り回された乳母夫婦は実際病む直前ですらあったらしい。
そうして乳兄弟は三国を間に挟んだ遠国に、齢五つにして留学を銘打って放たれた。二世の時代盛んであった傭兵の輸出入は今やその国の代名詞である。「其処で学んで力量を付ければあの子のお婿さんになれるよ」と説得したらぴたりと泣き止んでさっさと向かったと言うから驚きである。五歳児がこんな説得で泣き止むのか? と皆が別の意味で恐れたらしいのは全く妥当な見解であろう。
そんな訳で、七世は幼くして己が将来女王になるという事と、もしや乳兄弟と結婚するかもしれぬから男を作ってはならぬという事だけは明確に叩き込まれて成長した。前者は当然として、後者は乳兄弟が〈犬〉であれば離れている内に想う男を作ったらそいつの生命はない、という現実が為である。自分の一挙手一投足で誰かが無為に死ぬかもしれないと言われてまで恋愛に興じる程馬鹿ではないつもりだし、第一想う男など出来る筈もない程に夢のない女に育っていた。此処は歴代に共通する性質である。
七世が十代の半ばになる頃には、乳兄弟は殆ど〈犬〉であろうと目されていた。何せ七世への執着が激しい。三国を間に置く程遠く離したというのに、週に四通は分厚い手紙が届くのである。読んでやる七世も大分人がよかったが、読んでいるだけで大分胸焼けして恋だの愛だのは面倒だな……という感想に至るには十分だった。なお、七世の返信は半年に一度あればよい程度だし、更に付け加えれば己の実家には梨の礫らしい。最早実家という意識があるかも怪しいが国の所為でもあるので、七世はとやかく言わぬ事にしている。
王家からも内々に頼んでいた為、乳兄弟の様子は国を介しても行われていた。彼はめきめきと頭角を現し早々に学舎を出ると、実地で傭兵業に携わったそうな。ちょっとよく育ちすぎたな……と思っていた矢先、その国から早馬がやってきた。其処から更に遠国の争いを終結させたのだという。
「内戦を終結させたので多分国家名義で感謝状が来るしなんなら使者が来る」
事が大きくなってしまったのでそろそろ帰国するだろう。ついては王位継承と結婚の準備を進めると言われ、七世は至極面倒そうな顔をしてそれを了承したのだった。
「正直あいつの事は然程覚えておらぬのよな」
夜半、寝台の片隅で七世は記憶を浚ったが、五歳で離されたので「めっちゃ頬噛んでくる奴いたな」としか記憶にない。今はめちゃくちゃ手紙だけでも喧しい男としか印象にない。
本当に夫婦になれるのだろうか……まぁ歴代もそう言いながらなったんだろうな……とちょっとばかり早い感慨に浸っていたら、目の前に音もなく影が下りた。
「ただいまリアージャ! 貴女のヴィジエルドですよ!」
「誰ぞあるか! クソ犬が来おったわ‼︎」
以上がリシルファーノ七世、愛称リアージャとその〈犬〉ヴィジエルドの目出度くもない再会の夜の話である。
*
「リアージャ! 僕のリアージャ! 今日もとっても綺麗です!」
「おい誰に許可を取って入った」
「僕に!」
「ふざけるな立場を弁えろ、部屋の前にいる騎士に謝罪しろこの馬鹿者」
怒る七世もなんのその、ヴィジエルドは颯爽と部屋の中へと歩を進める。彼は留学先で傭兵業に携わり着実に力を付けていたが、その詳細はといえば隠密業であった。成る程音もなくあちこちに出現する訳だ。彼が帰国してからこっち、七世には気の休まる時間がない。
「美しいリアージャ……。こんなに綺麗な貴女が僕のものになるだなんて……」
豪奢な式典服に身を包んだ七世の足元に座り込み、恍惚をその顔に浮かべたヴィジエルドが裾に頬を寄せる。案の定でろでろに褒められて普通は悪い気はしないのだが、殊彼の言では全く嬉しくないのだから不思議なものだ。真剣にこういう事を言う人間は世界で家族とヴィジエルドくらいであろうと理解しているのだが、七世にとってそれはそれである。
「おい、裾に皺が寄るだろう」
「ごめんなさい」
「お前の服だ、立たんか」
ぽかんとしたヴィジエルドは一拍、弾けるような笑顔を浮かべて七世の傍に立った。非常に喜怒哀楽の激しい男だったが、共連れ帰った部下達からすれば天変地異も甚だしい程の違いがあるらしい。まぁ〈犬〉は〈犬〉よな、と飼い主には従順な事に否やはなかった。
「はあ……まぁ、どうにかなるであろう……」
しかし、こうも〈リシルファーノ〉に〈犬〉が付く……これはもう既に憑くという状態であるが、毎度こういう関係図になるのはどうしてなのか。歴代リシルファーノは現実主義であったのでそちらに傾倒しなかったが、此処いらで一つ呪詛の類を調べるのもよいかもしれぬ。
五世の御代の二の舞になる気はないので、七世は〈犬〉を放逐する気もない。御歴々もそうであったのだろう。〈犬〉は首輪に繋いでおかねば何をするかわからないからだ。
己と国民とを秤にかければ圧倒的に国民が重い、それが〈リシルファーノ〉だった。だから彼女達は要らぬ国を与えられてもそれを捨てる事が出来ない。人がよいのだ、と言ったのは誰だったか。其処を〈犬〉に利用されている気もするが、仕様のない事である。
七世はうんと一つ頷いて腰を上げた。時間だ。
「行くぞ」
「は〜い!」
空は快晴、リシルファーノ七世の戴冠と婚姻は実に晴れやかに賑々しく行われたと記録される事だろう。
宰相閣下の犬 安芸ひさ乃 @hisano_aki
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