怒れる下女・第5話
邸に戻ったエーリアを待っていたのは、其処にいる全員の困惑である。
「シェダ様! 旦那様とリシルファーノ様はお戻りではございませんか!」
大きな声で問うとシェダは常の冷静さを何処へやら、「帰宅早々寝室に入られて……」と動揺を隠さない。
止める声も聞かず主寝室に向かえば鍵がかかって開かないときた。エーリアは怒りの形相でシェダからエプロンを取り返し、「リシルファーノ様からの御命令です! 旦那様も了承済みです多分!」と叫んで厨房に籠もった。
「……」
リシルファーノから手渡された冊子には重湯からミルク粥から、とにかくおおよその状態に添うのであろう柔らかな食事が連ねられている。
つまり、これくらいに柔らかい物しか食べられないような事態に陥るのだ。リシルファーノが。
エーリアは怒りのまま火を起こし、鍋を力いっぱい台に叩きつけ、吼えた。
「男なんてクソばっかだわ!」
そのあまりの怒りに料理長は勿論の事、様子を見にやってきたシェダもが震え上がったのは知る由もない。
それからエーリアは欠かさず毎食柔らかな食事を用意し、主寝室まで運び続けた。調理まで命じられた訳ではないが、エーリアとて家事をさせられてきた女なのでそれなりには出来るし、献立はどれも簡単な物だったので問題はない。寧ろいらいらしながら鍋の前で時間を過ごすエーリアを料理人達が刺激せぬようにと遠巻きにしている程だった。掃除に関してはシェダがどうにかしたようで誰一人として呼びには来ない。
食事を用意して配膳台を寝室の扉の前に置くまでが一連の仕事で、置いた直後に去るように命令される為様子を窺う事も出来ないのが最も苦痛であったと言える。しかし期間は厳命されているのでエーリアはその日を指折り、ひたすらに待った。そう、待つ事、三日。
「お願い致します!」
四日目の朝、エーリアはリシルファーノの言い付け通り兵営から自薦二十人ばかり連れて寝室を襲った。主人に対して行う事ではないが、その主人にこそ厳命された事なので胸を張って堂々と襲った。
「あ、くそ、こら! シーファを見るんじゃない!」
「見てません見てません閣下は欠片も見てません大丈夫です」
「ならん! まだ行かん! 私はまだシーファのお世話をする‼︎」
「大将は通常業務です、連休終了です。お世話係は交代です」
「交代せん! 今日はまだ食事も風呂も!」
「はいは〜い、お仕事溜まってますよ〜」
「シーファー‼︎」
むくつけき男共の汚い声を尻目に主寝室の奥の奥、飛び込んだエーリアが見たのは怒りを露わに寝台で上体を起こすリシルファーノだ。
「よくやったエーリア」
「リシルファーノ様! 御無事で‼︎」
半泣きで近寄るとリシルファーノは風呂を希望し、次いで「なんでもいい、食事だ」と力強く告げる。やたらやる気に満ちているが、元気であるならそれに越した事はない。エーリアは急いで厨房に朝食を頼み、風呂の用意に勤しんだ。
「あれはな、日がな一日私の世話をするのが好きなのだ」
「……お世話、ですか……?」
もりもりと朝食を咀嚼しながらリシルファーノは言った。行儀は悪いとわかっているが、内々の事と構わぬつもりであるらしい。現にリシルファーノは足を組み、実に野性味溢れる状態でいらっしゃる。此処は半ば戦場だったので間違いはない。
「まぁ夫婦なのでやる事はやるがな。それ以上に、私に匙の一つも持たせたくないらしい」
「ええ……?」
「歩く事も出来ぬ」
「えええ……?」
「言い方は気持ちが悪いが、大の男の人形遊びだ」
思わぬ事を暴露されエーリアは死んだ目をした。
(お人形遊び……)
世の中には想像以上の変態がいるものだ。もっとこう、そういうのを望んでいる人間の下に行ってほしい。どう考えてもリシルファーノはそれを望まない筆頭であろうし、完璧に押し込めるのではあろうが羞恥は人一倍以上にありそうだ。
「申し訳ございません……、私、こう、もっと爛れた日々を想像していて……」
自らの耳年増振りを白状するエーリアに、リシルファーノは首を横に振る事で答えた。
「ある意味爛れておる。着替えは勿論、何をするも入れるも出すもあれが管理する。暴力で返しても響かぬ上に喜ばれるのだぞ」
「んぐ……ッ」
思わず腿の肉を抓り上げ、内頬の肉を噛む事で堪えたエーリアは賞賛にも値すると思う。そうでもなければ焼けた鍋を振り翳し兵営を襲撃出来る程の衝撃が身の内に生まれていたからだ。
何を以てラディエルをよき主人と讃えていたのだろう。節穴も節穴、ラディエルはよき人間でなど決してない。ラディエルは己の大切なリシルファーノ以外どうでもいいからいい顔が出来るのだ。
ラディエルこそ他人に興味がない人間だ。反してリシルファーノは他人に興味があるから他人の事を考えて物事を成せる。天と地程の違いを持つ人間が──何をどうして出会う羽目になるのか。
「孤軍奮闘の褒美にと三日試算したが、余分であったな」
「我が身を犠牲になさらないでください! あと、一日でも十分甘いかと思います!」
しっかり自己犠牲の意識があるリシルファーノにエーリアはますます泣いた。本当に何がどうして、この素晴らしい女性があんなクソの嫁になり剰え好き勝手にされねばならないのだろう。やっぱり結婚はクソ!
「馬で轢きたい……」
「よいぞ」
胸の内に収めたつもりが馬鹿正直に零してしまった。勢い口を覆うエーリアに、しかしリシルファーノはあっけらかんと許可を出す。
「どうせ暴れ馬で轢いても死なぬ男だ。やるつもりなら大陸一の化け物のような馬を探してこい」
「では、そんな馬を走らせられるよう腕を磨きます!」
「よいよい、前向きで結構。まずはその為に己を磨かねばな」
エーリア、お前は掃除婦から異動だ。私に付いて家政婦を目指せ。お前は馬鹿ではないようだから、学べばその分形になるだろう。
瞠目するエーリアにリシルファーノは笑みを以て返す。やはり、何をどうしても悪役のような笑顔を浮かべる女性だった。
「私はな、ずっと王の下で国を差配してきた。国が美しくあるよう、土地と人と物事とを整えてきた。だが、一つ難があってな。国の中枢で、その国の真実は見えぬのよ」
どれだけ何が美しくと整ったか、それを偽りなく見定めるにはこの土地くらいがちょうどよい。それに此処はまだまだ未発展でなおよい。一からの始まりだ。
「全てが私の手の内で整えられていく。見ものだぞエーリア。これだから政は愉快で止められぬ」
お前も私の楽しみの一つだとはっきり断言し、リシルファーノは綺麗に朝食の皿を干した。
その瞬間の高揚をどう表現したものか。この日から数十年経とうともエーリアには終ぞわからなかった。一つだけわかっていたのは、これから行われる全ての変化をこの類を見ない程素晴らしい女性の下で見つめられるという確定的な未来であって、事実そうなった。
エーリアには今まで何もなかった。ただのその他大勢で、或いは名前もなかった。だが。
「エーリア。我々はな、日々を生きていくしかないのだ。ならば少しでも愉快に生きようではないか。私はいつかの日、ただ静かに過ごして消えるのであろう己を試算していた。だが人生は儘ならぬ。時の砂が戻らぬのなら、使えるものを使い倒し、いつかの己の為に生きるのだ」
リシルファーノがエーリアを見出してくれた。この幸運の紐を掴めた事がエーリアの人生で特筆すべき事項である。
***
「改めて自己紹介としよう。私こそがロワライナ領々主、女辺境伯リシルファーノ・ロワライナである。私は宰相を勤めていてな、すぐすぐ王宮を離れる訳にもいかず夫であるこれに元将軍たる力量を以て荒地を平定せよと申し渡した。これでも予定より早く塵の始末が済んだようなので職を辞し、こちらに下った次第である。これから領内の大幅な改革を行う。驚く事も慄く事もあろう、理解出来ぬ事も不安もあろう。だが、全てはいつかお前達領民の為になると約束しよう。私は私の為にこの地を平らかにする。その結果、お前達の生活が改善されていくだけだ。今は信じずともよいし気にせずともよい。私は勝手にそれらを行使する。お前達が領民として正しく在れば、私はお前達の生活を保証する。お前達は生活が豊かになる事で私の言葉が真実である事を知り、私という領主を確立することになるだろう。それが新たなロワライナ領の始まりである」
後日、王宮一軍の駿馬によって家族全員が到着するのを待って行った、リシルファーノの着任挨拶である。誰も彼もが思ってもみない事に目を白黒させたが、エーリアはその言葉を疑いはしない。彼女の言う全ては何より領民という形で目前に示される事になるからだ。
エーリアは新たに据えられた女主人に付き従って日々を必死に過ごした。リシルファーノは他人がしている事にいちいち口を挟む人間ではない。他人が己の責任の範囲で力量に応じた事をしているのならば基本的に放置する人間だ。だが、他人が誠実に望めば懐に入れ、知る限りの知識を伝授してくれる人間だった。だからエーリアには覚える事が山程あり、しかしどれもこれもが愉快で嫌な思いの一つもしない。
成る程、当初共にやってきた査察官達が帰還を渋る筈である。きっと彼らはリシルファーノの薫陶を受けて今までを過ごしてきたのだろう。そして今、エーリア達が次々と同じように育てられているのだ。
暫くの後、リシルファーノは突如として一組の母子を邸に呼び寄せた。驚く事に生き別れたエーリアの三番目の姉と、その息子であった。
「旦那様が亡くなってから、先妻の子に追い出されてね」
行き場もなく、帰るつもりは毛頭なく、母子揃って教会の世話になっていたのだという。頭がよいから使用人と街の子供達の読み書きの教師をさせるとリシルファーノはなんでもないように言った。息子は歳の頃も近いので子息の供にしてもよいとまで付け足す。破格の待遇にエーリアは心から頭を垂れたものだ。
「御主人様、本当に有難うございます!」
「なぁに、先行投資よ」
からからと笑うリシルファーノはこの時点で領内の一部を保養地に変え、目算以上の税収を叩き出していた。例の〈腐れ穴〉から真実湯水が湧き出て、一大観光地へと変遷を遂げていた為だ。突如ヨーレティエルナ国内屈指の金満となり、国内中の人々は勿論、王家からの使者も絶えない。
「流石は鬼の宰相、ただでは転ばんな」
そう笑っていたのはいつぞや家族を連れてきてくれた王宮一軍の将でラディエルの元の上司であるという。
「旦那様は王都に連れていってくださって結構ですよ」
「此処はクソアマの影響が強すぎる」
デレクというその将軍はエーリアの言に顔を引き攣らせていた。それ以上余計な事を言ったら邸から叩き出すぞと暗に脅したら素直に黙ったので見過ごしたが、エーリア一人だからよかっただけで他の人間がいたら即座に叩き出されていただろう。何せ邸は既にリシルファーノ派の専有となっている。デレクは最後まで気付かなかったが、彼は単に運がよかったのだ。
運といえば、結局エーリアはラディエルをどうこうする事は出来ずに終わった。人生の内数度事故に見せかけて馬で撥ねたものだが、敵もさる者素直にやられてはくれない。無駄に運のよい男というのも考えものである。
「エーリア、君には私が主人であるという自覚がないらしい」
「私の主人はリシルファーノ様でございまして、旦那様ではございません」
ラディエルとの口撃の応酬は周囲には見慣れた光景になったが、エーリアが窘められるような事は終ぞなかった。リシルファーノに余計な事を仕出かしては思いっきり仕置きをされて喜ぶアレな姿が領内のあちこちで散見されたので、すっかり領民の彼を見る目が変わっていたのがその理由だ。
お陰で当初とは全く違う理由で邸内での雇用を望む人間が増えていた。ラディエルがアレなので間違ってもお手付きになる心配が全くないという安全性と、高度の使用人教育を受けられるという利点がそれだ。今や貴族の保養地としても名高いロワライナ故に、きちんとした教育を受けた人材は職に困る事はない。
リシルファーノはこれを逆手に取り、通常の学舎とは別に使用人教育に特化した学舎も作った。他の土地に移ってもロワライナで教育を受けていたという履歴は明確に物を言った。
また、観光地で人流が多いという事はつまり、その分危険も増す為警備の目も必要になるという事である。元々辺境地で隣国との三角地という立地上兵力は高くあるべきだったが、今やそれ以上の武力が必要とされた。貴族の保養地としての側面をそのまま売りにするのであれば、安全は信用と等しい。
金と生活を保証されるのならば、猛者が次々とロワライナ領翼下に収まるのも道理であろう。ラディエルを頂点とした辺境伯軍は年々その兵力を増し、遂には国内一の軍備を誇っていく事になる。
「どうせならその内の誰かが旦那様をさくっとやってくれないかしら」
「叔母さん……それは流石に無理だと思う……」
エーリアの呟きに小さく返したのは甥のエーゼスだ。エーリアは己の甥を子息付きとして相応しくする為、姉の了承を得て一から教育を施していた。それを見てどう思ったやらシェダも同じく教育してくれるようになっていた為、エーゼスは今や侍従候補どころか次期執事候補の筆頭である。
「せめて坊っちゃまはああならないように育てないといけないわ。エーゼス、あんたも努々気を付けてちょうだいね」
エーゼスはこの注意を常々笑ってやり過ごしていた。
「何を注意するっていうんだよ、坊っちゃまはあんなに品行方正なのに」
──どっこい、変態の血は侮れぬ。後年、坊っちゃまことロシュルベルドは一人の修道女を教会から召し上げて軟禁する暴挙に出た。王宮で文官として大成していた彼のその事実が判明したのは、当の修道女が一人リシルファーノを頼ってロワライナ領まで逃げ出してきた為だ。
「だから! 坊っちゃまから目を離すなと! 言ったでしょう‼︎ というか何をどうしたら女一人でえっちらおっちら辺境まで逃げてくる事になるの‼︎」
「痛! 私にも仕事があって常に旦那様と一緒にいる訳ではイッターッ‼︎ 痛い叔母さん! 俺だってまさか一人で行っちゃうと思わなかったんだよ‼︎ 送る準備をしてたらもういなかったんだよ‼︎ あの娘無駄に行動力がある‼︎」
更にはこの後、孫娘すら変態に攫われるとは思いも寄らない。エーリアは年老いても使用人達に言い聞かせ続けた。
「変態は我々の予想を遥かに越える。しかして必ずや御主人様をお守りするのよ」
馬の扱いに長け、馬を殺してもいないのにそのあまりの鞭捌きに〈馬殺しのエーリア〉と噂されたエーリアは生涯独身を貫き、最後まで己の主人と共に在った。
「あの駄犬から連絡はあったか」
「賊は捕らえたそうです。そのまま引き返してくると早馬がありました為、戻りは今日中かと」
「帰ってこんでも構わんというに」
「ええ、全くでございます」
鬼と囁かれるロワライナ女辺境伯リシルファーノの斜め後ろ、静かに控えるエーリアの姿を見ない者はいなかったという。
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