憂う殿下・第1話

「御機嫌よう、フェリニル様」

「御機嫌よう、リリナ様」

 丁寧な挨拶と共に、フェリニルは中庭を辞する。その背後、茶の相手であった従妹であり婚約者であり王女である少女は、今頃いつもの通りに溜息を吐いている筈だ。

「面白くもなんともないわ」

 そんな言葉を呟きながら。

 フェリニル・ディル・ベシェリア。ベシェリア王家王弟の嫡子にして唯一ベシェリア王家特有の赤毛を受け継がなかった、只々平凡な男である。

 リリナ同様溜息を吐きかけたフェリニルは、しかしそれを飲み込んで白く整えられた廊下を歩いた。昔はこの廊下を歩いて祖父母に会いに行くのが楽しみだったけれど、今や己の無能さを示されているようで足が重い事この上もない。近年は屋敷の書斎に籠って書類仕事に没頭しているのが一番心安らぐという、若者に非ざる残念な有り様だった。

(これが、ラディエルだったら)

 これが後継者に相応しいと囁かれ続けた次男であったらどうしていただろう。

 いつもそんな無駄な事を考えては頭を振るのが癖だ。誰に吐露したところで迷惑にしかならない考えであるとフェリニルは己の立場を理解しているけれど、幾ら年月が経とうともこればかりはどうにもならない。

「……」

 はぁ、と。フェリニルは飲み込んだ筈の溜息を零し、見慣れた床石を見つめた。ラディエルが隣国の祖父母の元へ向かって六年が経つ。時折届く手紙以外に弟の日々を知る術はないけれど、一体どうして過ごしているのだろう。

 ……などと考えた所為だろうか。その日の夕餉の席で父ダニグルがとんでもない事を言い出したのである。

「今日ラディエルから手紙が届いてな! 今度婚約者を連れて遊びに来るそうだ!」

 ワッハッハッと大柄な身体を揺らして笑うダニグルの他、誰一人として動きもせず、カトラリーを握り締めたまま呆然としている。最初に口を開いたのは母だった。

「殿下、その……婚約者、とは……?」

 初耳ですが? と言わんばかりの言葉に子供達は耳を疑う。「そうだったか?」と悪びれもせず返すダニグルは本気で悪気がない。常にそういう父であると理解しているので、子供達は一拍遅れて額を押さえた。

「いやはやラディエルがなあ! 身分違いの恋に落ちたと相談なんぞしてくるので、思わず手助けしてしまった!」

「身分違い?」

「爵位をお持ちではない御家の方ですの?」

 三男のトリフェルと末っ子長女のファイラーナが口々と問うのに、ダニグルは否定しない。

「ヨーレティエルナ王に一筆献上しただけだが上手く行ったようでな! 顔を見せるよう言い渡したら婚前旅行代わりにするらしい! 半月後だ!」

「半月後!?」

 余りに急な展開だ。準備をするにも不安が残る程のそれにフェリニルは思わず声を上げたけれど、更に上を行く母の悲鳴にも似た声が家族の耳目を奪った。

「なんて事を!」

「フェティニレラ?」

「なんて事を!」

「母上?」

 フェティニレラは同じ言葉を繰り返し、バタバタと音を立てて部屋を出ていく。淑女にあるまじき振る舞いであったけれど誰もが本当に何が起こったのかわからず、ダニグルも大慌てでその後ろ姿を追って去っていった。

「……と、とりあえず母上の事は父上にお任せするとして……迎え入れる準備を大急ぎで進めなければいけないね……」

 確かめるように告げたフェリニルに、家令は静かに頷く。これが怒濤の日々の始まりだったと、後にフェリニルは思い返す事になる。




 ラディエルとその婚約者を迎え入れる手筈は大急ぎで進められた。ラディエルは継承権を放棄しているとはいえ、前国王の孫に変わりはない。故に非公式な形にはなったが、王室一族での面会の準備も同様に進んでいる。そもそも王位継承後然して時経たずしてのこれなので、フェリニルとしてみれば針の筵の気持ちであった。何故もう少し時節を選んでもらえなかったのだろう……と考えたところで全てはダニグルの所為であるからしてどうしようもない。

「婚約者の方はどのような御趣味の方なのかしら。お部屋はこれで大丈夫かしらね……」

 翌日からフェリニルと共に準備を進めているフェティニレラは、前日の動揺を欠片も感じさせずに堂々としたものだった。というか訊いてくれるなというような空気だけはひしひしと感じる。雛鳥宜しく追い縋る夫や弟妹を尻目に、空気を読む事にだけは長けたフェリニルと共に過ごす事を好んでいるのもその為であろう。

 フェリニルとて気にはなるが、余計な事に首を突っ込んでは要らぬ評価を耳にし続けた身であるが為に口を開くという愚行を侵さぬだけの話だ。母の事であるから、必要であれば話してくれるだろうとは考えている。

「お相手の事は何も訊いておられぬのですか?」

「そういえばお名前も伺っていなかったわ。家名のない方でしょうから、判断基準にはならないでしょうけれど」

「……せめて到着される前には伺っておいてください」

「ええ」

 結局、部屋は無難な色調でまとめた。如何にも金のかかったような部屋では気後れするかもしれないと、穏やかな物で揃えたのだ。見た目が派手でない分金はかかっている訳だが其処までわかるものでもなかろう。第一家格というものがある。

 何もわからぬ婚約者の為に全てを無難に誂えるフェリニルとフェティニレラを尻目に、ダニグルはいつも通りであるし、トリフェルとファイラーナは平民相手なら特段する事もなしと支度のしの字もない。そのくせ口喧しいのだからフェリニルの頭痛は治まらぬままだ。

「すまない、休む前にぬるま湯と痛み止めを」

「畏まりました」

 侍女が部屋を出ていくのに合わせ、フェリニルは溜息を吐く。予定ではそろそろ先触れが届いてもいい筈だ。

(早く終わってほしい)

 忙しくしている分には己にかかる陰口を気にせずに済む。けれど実際にラディエルと会って、彼が益々輝いていたら……自分はどんな顔をすればいいのだろう。

(僕はなんてひどい兄だろうか)

 フェリニルは目を瞑る。傾いた拍子に細く柔らかい頭髪が肩でさらりと鳴った。

「……」

 せめてラディエルの前でくらい、しゃんとしていなければ。

 ──などと殊勝な事を思ったのは昨夜であった筈だ。

「……」

 フェリニルは思わず額を押さえ、目頭を押さえ、頭を振ってから前を見た。

「只今! 戻りました!」

 息を切らせて叫ぶのは正真正銘、当家次男坊のラディエルである。先触れを出しておいて本人は後日隣国から馬車を走らせ優雅に来るものと思っていたというのに、先触れ代わりに本人が早馬で駆けてくるとは何事だろうか。しかも見た事がない程の慌てようで、髪も振り乱したままだ。

「おおラディエル! 息災か!」

 ダニグルは快活に笑って息子を迎え入れる。が、ラディエルはといえば「御機嫌よう父上! 過日におきましては御助力有難うございました!」と流れるように叫ぶだけで一顧だにしない。父と子の数年振りの再会であるのだから紳士らしい礼の一つ、もしくは家族らしくハグの一つや二つしてもよさそうなものなのに、ラディエルは家令の元へ一目散に近付くなり「部屋の準備は!」と宣った。

「部屋の準備は私と母上でしておいたよラディエル」

「兄上と母上がですか! それなら安心ですが確認させてください!」

「う、うん……?」

 勢いに押され、家族の語らいも余所にフェリニルはラディエルを客間に案内する。というか、寧ろ殆ど競歩のラディエルにフェリニルが追い縋る形だが。

「この色調なら問題ないでしょう! 有難うございます兄さん!」

 昔のように笑顔で言われ、肩で息をしていたフェリニルも思わず笑顔を返した。が、そんな穏やかさも一瞬、ラディエルはパンパンと柏手を打つ。

「ただ空気が乾いていますね。直ちに換気をし、後に部屋の暖めを! 閣下は刺激の少ない穏やかなハーブの香りが好きでいらっしゃる、香り袋と鉢もあれば尚よい! それから──」

 てきぱきとした指示に侍女達が慌てて動き出す。それを見つつ、フェリニルは先の言葉を反芻した。

(かっか……閣下?)

 閣下とは誰の事だ。もしや婚約者以外にヨーレティエルナの将軍でも同行してくるのだろうか? そんな事は訊いていないぞとフェリニルが顔を上げた瞬間、窓の外から馬車の音と馬蹄の音が響く。途端、乱れ髪を撫で付けていたラディエルがくるりとその身を翻した。

「もういらっしゃられた!」

「えっもう!?」

 最早、準備先触れ云々の話どころではない。脱兎の如く駆け出したラディエルをやっとこ追いかけるフェリニルであったが、そもそも武人でもないのだから全力の現役の後ろなど追い縋る事も敵わなかった。

 よろよろとなんとか玄関先に出たフェリニルの周り、誰も彼もが「え、今来たのもう来たの?」という顔をしているけれど、ラディエル曰くそうらしいからそうと頷く事しか出来ない。そうこうする内、三台の馬車が横付けされ、その一台にラディエルが駆け寄り、そして──。

「えっ」

 フェリニルが思わず疑問を投げかけてしまったのも無理はないだろう。扉を開けて恭しく手を差し出したラディエルは、中から飛び出てきた片足によって容易く倒されたのである。武人としてしっかとした技能を持っていた筈のラディエルが簡単に地に伏すだなんて、相手は余程の猛者か気を許した者かの二つに一つだ。と、一瞬で其処まで考えたところでフェリニル達は一斉に背を正す事になった。

 中から姿を表した人物の容貌は、それはそれは恐ろしいものであった。先程ラディエル自ら迎えたのだから婚約者の乗った馬車でよい筈だ。だがどう見繕っても囚人を護送して来た、の間違いではないのかという程の凶相である。それにドレスでもなく、女性らしい小物の一つも身に付けていない。まるで官吏が如く堅苦しい格好で凶相の女性など、フェリニルの常識には存在しないのだが。

 びくつき力を込めた面々に、件の人物は思わぬ程美しく礼を取った。

「初めて御目にかかります、御家ラディエル様と婚姻の約定を交わしましたリシルファーノにございます。この度は突然の訪問を御許しくださり、誠有難く」

「……い、いえ、こちらこそ……お越しくださり……有難うございます……。兄のフェリニルと申します……」

 まさかの婚約者本人であった。びくびくと、ようやく声を発したのはフェリニルだけで、他は硬直したまま微動だにしない。その横、転がっていたラディエルだけがにこにこと笑いながら立ち上がった。

「いらっしゃいませ!」

「……馬車から馬を切り離して単騎行くなど、全くどのような考えであるのか」

「おや、馬車内からは視界に入らぬ角度だったと思いましたが誤算でした。御心配をおかけし、申し訳ございません」

「己が立場をよくよく考えるがよかろう。馬車の程度の割に三頭引きで用意しているから何事かと思っていれば……最初から一頭そのつもりで用意していたな」

「ははは」

 笑み崩れるラディエルとは真逆に、リシルファーノなる人物は押し殺したような低い声を出している。ぴりぴりと肌を刺すように感じるこの怒りがラディエルにはわからないのだろうか?

「此処では難でしょう、……どうぞ、中へ」

 招き入れた屋敷の中でも使用人達が固まっているのが見えたがフェリニルにはそれを注意させるだけの余裕もなかった。自分で手一杯である。そうして恐る恐る招き入れた先、応接間で待ち兼ねていた両親と弟妹は立ち上がって諸手を上げ、そして固まった。自明の理であろう。

「……父上、母上、ラディエルが婚約者殿をお連れしました」

 フェリニルは努めて穏やかに口を開いたが、ダニグルは元より空気を読まぬ男である。「何処に婚約者がいるというのだ?」と大声で問いかけてくるものだから、フェリニルは思わず遠くを見た。

「父上……」

 溜息を吐くように口を開いた、途端である。

「失礼致します」

 フェリニルを押しのけ、リシルファーノが一歩進み出たのだ。失礼な物言いをする未来の父に、この御仁は何をしようというのだろう。思わず不穏な事を思いフェリニルが口を開くより早く、リシルファーノは玄関前でのやり取りと同様、美しく完璧な礼を取った。

「初めて御目にかかります、閣下。御次男ラディエル様と婚姻の約定を交わしましたリシルファーノにございます。この度は突然の訪問を御許しくださり、誠有難く思います」

 格好はドレスではないし台詞も八割方同文ではあるが、変わらず礼儀正しい。気圧されたようにダニグルが「お、おお」と口を開くのに、彼女(彼女でいいのか、今もフェリニルは自問している)は立て板に水を流すが如くつらつらと言い連ねた。

「さて、こうして婚約のお許しを戴きましたという事は、閣下は私の父も同然という事であります。御家族につきましてもまた同様に。という訳で、長旅で私も疲労困憊でございますし、肩肘張らず砕けさせて戴いても宜しいでしょうか?」

 有無を言わせぬ迫力に、ダニグルは再度「おお」と言葉少なに零すばかりだ。だがそれを了承と取ったらしいリシルファーノは呆然とする皆をさておき、目前のソファに勢い腰を下ろすなり懐から煙管を取り出した。

「失礼、気分転換をさせて戴く」

 慣れた手付きで草を詰める其処、慣れたようにラディエルが傍らに膝を突き、火を付ける。漂い出した煙草……ではなく香草の香りにも気を取られず、全員唖然と一部始終を眺めた。

「ラディエル」

「はっ」

「お前に頼みがある」

「なんなりと!」

「私の荷物を客室に運び、その全てを整理してほしい」

「えっ! 私で宜しいのですか?」

「構わないからそう言っている。お前だけが全てを精査し、整理し、私の過ごしやすいよう整えてくれるな?」

「も、勿論お安い御用ではございますが……その、下着もございましょうし……」

 ラディエルは真っ赤な顔をして小声で言うが、部屋が静けさに包まれているが為に全ては筒抜けである。

「未来の夫であるお前が荷物の全てを見てよいから言っているのだ」

「すぐに着手致します!」

「終わるまで戻るなよ」

 ふぅっと煙を吐きかけられたラディエルは餌を与えられた犬のように喜び勇んで、リシルファーノの手の甲に口付けを送るなり走って部屋から飛び出していった。残されたのは沈黙に包まれる家族ばかりである。

「……」

「……」

 なんだ、今の一部始終は。

 沈黙が地獄の底、死霊から漂う怨嗟にも似ていると思うのはフェリニルの思い過ごしであろうか。思い過ごしであると力説したいが、何せ目前のリシルファーノが口付けを受けた片手を振りつつ、まるで蛇のようにダニグルに睨みを利かせている。

「王弟閣下、貴公の御人柄は聞き及んでいる。豪放磊落、人好きのする気質、誠上に立つに秀でた御方であろう。だがな」

 携帯灰皿に、煙管が高らかに打ち鳴らされる。それが始まりの合図であったのか、リシルファーノは舌鋒鋭くダニグルを責め始めたのだ。

「息子に強請られたからと合意も得ぬで王に直接書状を送るとは何事であるのか。相手の女人がその権力に有無も言わさず結婚成らざるを得ぬ事を如何に考えているのか。誓った相手がいようとも王命であれば尚否やも唱えられぬと知った上での強行であったのか。そうした一つ一つの重なりがもしや我が国において一つの事件となったやも知れぬ事、如何様に考えておられるか御聞かせ願いたいが先ずはそうだな、謝罪を」

「は?」

「このヨーレティエルナ国宰相を勤めるリシルファーノを、無理矢理ロワライナ伯爵家嫡子に嫁がせる強行に対し、誠実な謝罪をと願うが如何か」

 一言一句はきはきと告げるリシルファーノにダニグルが目を見開き、フェリニル達は硬直して動けなくなった。

 ヨーレティエルナ国宰相とリシルファーノは言った。隣国宰相その人はこのベシェリアに顔を見せた事はないものの、噂だけは確かに国を越えて耳に届いている。国内最年少で宰相位に就いた人物で、家名を売り払っている為に平民である事も尚その噂に拍車をかけていると言えるだろう。

「さ、宰相閣下でいらっしゃられましたか」

 成る程、先程ラディエルが「閣下」と発していた筈だ。思わず腰を落として一礼を取ったフェリニルに、リシルファーノは「構わない」と端的に発する。

「書状には私の名しかなかった。ラディエルは私の肩書きを告げてはおらなかったのであろう。主犯はあれだ。だが、それに拍車をかけたのは間違いようもなく貴公である」

 まるで裁判にも等しい言いようである。兄王、或いは引退した両親以外でこのような口を利く者をダニグルは知らないだろう。思わず顔を真っ赤に染めたダニグルを押さえかけたフェリニルは、しかしその刹那に聞こえた台詞に持ち上げた腕を収める事になった。

「あれは私がこの話を断る術がないのをいい事に、日々業務の合間に私の休憩を邪魔し、行きと帰りの短い時間さえ束縛し、休日は伯爵邸へ招喚し、婚姻前の清らかな関係を維持する事を是としながら虎視眈々と獣のような目で見てくる。私の部下達を無言で圧し、将軍にも牽制が止まず、私の一挙手一投足に注視しなければ気が済まぬ。服に髪に肌に口を出し、私の視線の先に口を出す。私はな、そもそも一生を独り身で過ごすつもりであった。生きるのに難さえなければそれでよいと、終わりを見据えて修道院に寄進も怠らず、静かに生を全うする目算を付けていたのだ。全てが泡沫に帰したがな」

「申し訳ございません!」

 フェリニルは勢い、大声で謝罪した。あまりと言えばあまりに過ぎる内容であったからだ。

 ラディエルが隣国へ向かって六年、その間の詳細をフェリニルは知らない。聞いた内容は今までの思い出とは一つも掠らないが、六年も見知らぬ土地で暮らせば某かの変化があっても仕様がなかろう。しかしあまりにも、仕様がないでは済まない程、女性に対してひどすぎる話ではないか。

「ま、待ってくれ! そんな事をラディエルが」

 動揺しつつ、それでも一つとして信用出来ぬとダニグルと弟妹とが叫びかけた其処へ、扉を破る勢いでラディエルが喚きながら戻ってきた。

「閣下! ひどいではありませんか! 荷物の中身が違います!」

「なんだ、戻るには早いぞ。片付けは済んだのか」

「済みました! 全て家令に渡してございます!」

 顔を真っ赤にしてぷりぷりと肩を怒らせるラディエルは、部屋の面子の状況もまるで気にする事なく、颯爽とリシルファーノの隣──ではなく、足下に近付くなり膝を突く。そのまま流れるように彼女の小さな手を取ると、小さく口付けを送り不平不満を口にした。

「荷物の中身は全てヨーレティエルナの特産品ではございませんか!」

「此方への土産物だ、我が国の特産品を御贈りするのは基本中の基本であろう」

「小物も着替えもなしにいらっしゃったのですか!」

「馬車番に預けてある。私はいつでも荷物が少ないからな」

 ふんっと鼻を鳴らすリシルファーノに対し、ラディエルは取った手にぐりぐりと頬を擦り付けて駄々っ子の如く延々文句を口にし続ける。あまりにも非常識な状況に、フェリニルは思わず眉間を強く押した。

 なんだ、この状況は。さっきも同じ疑問を浮かべた気がするがなんだこれは。

 目の前の事が信じられないが、悲しいかな現実であるしラディエルも本人でしかない。ちらりと横目で窺えば、ダニグルもすっかり閉口して顔色を失っている。

 ラディエルは正に王家の見本であり、貴公子の模範とも言える男であった。悪い噂の一つもなく文武両道に優れ、いつでも社交界の華であった。それが──、

「閣下は全くひどい御方でいらっしゃる。私をこんなに翻弄なさるなんて」

 ぐずぐずと洟を鳴らしながら女性の手に縋って駄々を捏ねる男に、何をどうして成り下がるというのだろう。縋られているリシルファーノの顔はと言えば恐ろしい程の渋面で、言葉にするのも憚られる有り様だ。

(……)

 家族は誰も動かない。となればこそ、フェリニルは口を開かねばならない。すっと足を踏み出した其処、言葉を発したのは今までなんの反応も見せていなかったフェティニレラであった。

「ラディエル」

「はい、なんでしょうか母上」

 ラディエルは素直に反応したが、思えば父親どころか母親にすら帰郷の挨拶をしていなかった筈である。しかしフェティニレラはそうした非礼を責めるでもなく実に穏やかに続けた。

「晩餐には未だ時間もあります。殿下と王城に向かって陛下に御挨拶をしていらっしゃい。リシルファーノ様は宜しければ私のお茶に付き合って戴けますでしょうか?」

「否やはございません、是非御招きに与りたく。ラディエル、後日私も御挨拶に御伺いしたく思う。可能か尋ねておいてくれるか」

 頷いたリシルファーノはその拍子に極自然に己の手を取り返している。ラディエルは物寂しそうな顔をしながらも美しく一礼を取り、気の抜けたようなダニグルを引き連れて屋敷を後にして行ったのであった。

 さて。

「フェリニル、トリフェル、ファイラーナ。貴方達もお茶に致しましょう」

「……はい、母上」

 ──フェリニルの解放は、未だ先であるらしい。




「改めて、当家によくぞいらっしゃられました。私はダニグル殿下の妻、フェティニレラでございます。どうぞお楽になさって」

「御丁寧に有難うございます」

 庭師が誂えた美しい中庭で、緊張感に包まれながらのお茶会が始まった。フェリニルは背を正した力を抜く事が出来ないでいるし、フェティニレラに引き連れられた弟妹もぎくしゃくとした態度を崩せずにいる。だが、当のフェティニレラとリシルファーノはといえばすっかりと和やかだ。

「リシルファーノ様、ラディエルとはどのように関わられたのでしょうか? 私は武官として職を奉じていると聞き及んでいたのですが」

「ラディエルは我が国の武官であります。新兵としていびられていた最中に出会いまして、どうやらその際に見初められたようで」

 顰めっ面甚だしくリシルファーノは紅茶を含む。フェティニレラ手ずからの紅茶は逸品である筈なのに、今日この時ばかりはフェリニルの舌に全く響かないから困ったものだった。

「……リシルファーノ様。私の過去はある程度、御存知のものと思いますが如何でしょうか」

「はい。先達てロワライナ伯爵家に関しては調べさせて戴きましたし、伯爵御夫婦にも実際にお伺いしております」

「でしたらおわかりでしょう。ラディエルはダニグル殿下の血を、誠誰よりも濃く受け継ぎました」

「母上?」

 常日頃ダニグルに似ていると言われるのは三男のトリフェルである。だのに、差し置かれて兄の名が出、トリフェルは困惑したように母に問いかけた。

「よい機会です。全てを貴方達にも話しましょう。私も腹を決めました」

「なんですかその不穏な物言いは……」

「フェリニル。私はその昔、ダニグル殿下に言い寄られ、修道院に逃げ込もうとして結果、拐かされたも同然なのです」

 途端、トリフェルとファイラーナは咽せ込んで茶器を割った。

「……」

 メイド達が右に左に動く其処でフェリニルは言葉もなく、半眼で只管二人の背を摩る。頭も痛いし胃も痛い。だが、この場から逃げる術がなかった。

「当時ベシェリアから遊学にいらしていた殿下に社交界で見初められた私は、あまりの大事に恐れを抱きました。隣国の王子に見初められて有頂天になる程、私は闊達な娘ではございませんでしたから……逆に待ち受けるであろう数多の仕打ちに恐れ、殿下の申し出をお断りしたのです。けれど殿下は頑でした。強固な様に両親もすっかり怯え、私は意を決して修道院を目指したのです。私なぞに王家の妃など勤まらぬと信じ切っておりましたから。しかし……」

 ──修道院への道すがら、待ち構えていたのは殿下でした。

 淡々としたフェティニレラの話し方が逆に恐ろしい。フェリニルは青い顔を隠せず、弟妹の背を摩る手も止まってしまう。

「私はベシェリアに攫われ、離宮にほぼ軟禁を余儀なくされ……表立って二国間の問題となる前に正式にお申し出を受け、殿下の妃となりました。両親と、そうして殿下の御両親とも懇々と話したものです。こうなってしまった以上、せめて子供はこのように育てまいと。それだけはと話し合い、私は今の今まで子供達を育てて参りました。だというのに……」

 フェティニレラはひどく疲れたように息を吐いた。リシルファーノはその先を急かさない。見るに、彼女はフェティニレラにとって優秀な聞き手であるようだ。

「まさか、ラディエルがこうなってしまうだなんて」

「人間とは不測の事態の積み重ねであるのでしょう」

 フェティニレラの言葉尻を掬い、リシルファーノが静かに言の葉を発した。凶相に似合わず穏やかなそれに、涙目でフェティニレラが顔を上げる。

「ロワライナ伯爵夫妻からも同じように謝罪を受けました。まさかラディエルが、と。いつかの日、娘を国に捧げざるを得なかった夫妻が、今度は反対の側に回るのです。その衝撃たるや如何ばかりのものか、心中察するにあまりありました」

「リシルファーノ様……」

「しかし私とて国の駒の一つ。根なし草でなし、腹を決めるしかございません。全く以て不服以外の何物でもございませんが、此度のお話承諾させて戴きました。安心をとは申せませんが、どうか私にお任せくださり、お母上につきましては御心を平らかに此方で過ごされますよう」

「リシルファーノ様……!」

「愛も恋もございませんが、まぁ躾けてみましょう」

 大仰に溜息を吐き、リシルファーノは茶のお代わりを求める。その横、フェリニル達はまるで燃え尽きたように存在するばかりであった。

(父上……覚えていろよ)

 此処に来て初めて三人の心が一つになった事、フェリニルは将来思い返す。

「夢も希望も粉砕されましたね、木っ端微塵というものですね」

 兄弟仲がよくなったのは幸いでしたけれど、もうちょっと夢は見たかった等とね。

 フェリニルが〈憂う殿下〉として密やかに人気を得たのはちょうどこの頃からと言うから、人生とは皮肉なものである。

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