憂う殿下・第3話




 ラディエルは宣言通りに準備に取りかかったまま、朝と晩の僅かしか屋敷に戻らなかった。武闘会までは日もない。いきなりの参加となった訳であるし、準備も慌ただしいものであろう。

 そんな訳で、朝晩の喧しさは仕様もなしとはいえ、リシルファーノの負担は大幅に減ったように見受けられる。そんな彼女はといえば、屋敷から出る事もなく実にのんびりと過ごしていた。

「ファイラーナ嬢、糸を強く引き過ぎている。通すくらいの強さで構わない」

「はい」

 付かず離れずの微妙な関係を築くかと思われた家族であったが、接してみればリシルファーノという御仁はよき聞き手でありよき話し手で、また手厳しくも素晴らしい師であった。女主人のフェティニレラを立て、己の義兄弟となる者達を若輩と下げる事もない。能力の足りなさを冷静に指摘し、それでいてその背中を押してくれるのがリシルファーノであった。

「リシルファーノ様は刺繍もお出来になるのね」

「女一人手で生きていこうと常より考えておりましたので、糧になるものは大概身に付けております。学も手先も、あればあるだけ我が身を助くものにございますから」

「大変勉強になります」

「ファイラーナ、貴女は未だ若い。今から学んでも十分に足る」

「はい!」

 我儘なファイラーナが素直に従うのだから大したものだ。トリフェルも将来に向けての相談を、父であるダニグルではなくリシルファーノに行っている。あのラディエルの傾倒振りに心配になりつつ、窺うように近付いてみれば確かに頼るに値する人物であったのだから、当然といえば当然の結果だ。

 と、そんな観察を行うフェリニル自身もなんとなくその場に腰を落ち着けているのだから、気が付けば父を除いた家族が共に過ごしている事もしばしばだった。

 ダニグルはといえば城内で缶詰になっている。ラディエルの婚約問題にかかる書状の件もあって厳重注意を受けた上、代償として祖父母や兄王にやいのやいのと突つかれて大会準備に追われているのだ。

「──リシルファーノ様は正しく宰相となるに相応しい方なのですね」

 零すように呟く言葉を、けれどリシルファーノは取り落とす事がない。じっと見つめてくる瞳は心の奥まで透かすように真っすぐで、フェリニルは己の矮小さが恥ずかしくそっと視線を逸らした。

 嵐のような日々は勿論ではあるけれど、穏やかな日々もまた過ぎるのが早い。三日の後、予定通りの武闘会当日。まるで待ってましたと言わんばかりの快晴の空の下、フェリニルは毎度の通り案内役としてリシルファーノを引き連れ、会場となる闘技場へ向かっている。

「ほう、話に聞いた通り擂り鉢状の舞台なのだな」

「ええ。形としては古いものです。けれどこれなら全方向から声も通りますし、観覧が容易ですからね」

 先日の城内とは打って変わり、フェリニルが説明を行いながら石畳を行く。古くから続く王家主体の祭典は同時に国の一番の祭りでもある。普段は観光地でもある闘技場は今日日、既に歓声で湧いていた。その中、貴賓席は観覧席真正面、中央口に設けられている。つまりその周囲は言わずとも貴族が集まる席であるが故、フェリニルの『出来る限り誰とも鉢合わせずに辿り着く』という希望は叶う事がない。

「殿下、御機嫌麗しゅう」

 早速声がかけられるのに、フェリニルは笑みを貼り付けて振り向いた。

「申し訳ない、客人のお相手の最中だ。御遠慮願えないだろうか」

「そう言わず。その客人が例の、ラディエル殿の」

「まぁまぁ、なんてお可哀想な事かしら。隣国に行ったばかりに斯様な婚姻を結ぶ事になるだなんて」

 初っ端から愚か者であった。ぎゅうっと音を立てて軋む胃を奮い立たせるフェリニルは、しかしその客人故に身を引く事は出来ない。

「私は客人であると言ったが聞こえなかっただろうか。こちらのお方はいつかの未来の家族ではなく、今は未だ王家の客人の身の上だ。王家の、陛下の客人であらせられる。これ以上言わせるのならば衛兵を呼ぶが宜しいか」

 す、と片手を挙げると貴賓席に侍る近衛兵が動き出す。これにはちょっかいをかけてきた愚か者も泡を食って足を引いた。いつもならば静かに無礼を受けるだけのフェリニルが打つように歯向かってきたのだ、予想だにしない事態であろう。だが、そもそもフェリニルは王家の人間である。たかが貴族如きに侮られる理由などある筈もないと、弟妹のようにしっかと顔を上げていればよいのだ。

「いやいや、誰もそのような事は」

「ええ、ええ、御前失礼致しますわ」

 過去の家庭教師が顔を逸らしてしまうような下品な音を立て、無作法な者達は去っていく。その後ろ姿が完璧に消えるまで待ち、フェリニルはようやっと細く息を吐いた。

「お耳障りにて失礼致しました」

「いや何、何処の国でも馬鹿者は絶えず派生するものよ。我が国とて少しばかり頭の働く者はあろうが、故にこそない頭でどうにでもなると高を括り、ラディエルに無体を働く馬鹿者が出た」

 リシルファーノはスッと眉尻で指を振る。フェリニルの脳裏に浮かんだのはラディエルの眉尻にくっきりと刻まれた傷跡だ。

「此方は武で名高いが、やはり故にこそどうにでもなると笠に着る者もあろう。人間とはそういうものだ。何処の土地であっても変わらず、な」

 当然のように言うリシルファーノは元々貴族であったという。隣国にまで伝わるその来歴を思えば、リシルファーノとて如何に物を言われ過ごしてきた事か──、フェリニルが今更口にするまでもないだろう。

「しかし所詮人間のする事だ。如何に耐えるか、或いは如何に対処すべきか。その判断は自ずと身に付くもの」

「身に付きましょうか」

「身に付くとも」

 フェリニル殿、貴公は戦の経験が少なくいらっしゃる。武による戦は避けるべきものであるが、常の戦は数をこなさねば身には付かぬ。

 口の端を歪めるリシルファーノにフェリニルは思わず視線を下げた。己が全てから逃げている自覚は、大いにある。

「自覚して尚動かぬは只の痴れ者、動くのならばそこそこの棒切れ、走り出すは年構わずして全てが若き駿馬よ」

 リシルファーノは貴賓席へと二歩三歩と進み、一拍。振り向きざま、未だ突っ立ったままのフェリニルに言葉を投げかけた。

「いつかの夜半の礼だ、義兄となる貴方の一助をして差し上げよう」

 言葉は苛烈にして笑みは誠不吉極まりない。けれどフェリニルはこの義理の妹になる才女の歪んだ笑みを、どうにもこうにも信用してみたくなったのだった。

 さて、貴賓席には既に皆が揃い、フェリニルらの到着を待っていた。

「遅いではないか!」

「申し訳ございません」

 吼えるのは祖父であったが、その声音に特段の怒りはない。寧ろ面白がっている節がある。

「リシルファーノ殿、見よ」

 祖父に示され、リシルファーノは観客席から突き出すように存在する貴賓席の端からそっとアリーナを見る。するとその砂地の上、じっと微動だにせず貴賓席を見るラディエルの姿があった。

「……」

 互いに目が合った瞬間、ラディエルはまるで此の世の春であるかのような顔をするし、一方リシルファーノは眉間に皺を寄せて喉をぐぅっと鳴らす。これに呵々大笑するのは祖父母ばかり、他は青い顔を隠さない。

「閣下!」

 大腕を振って叫ぶラディエルにリシルファーノが首を捻ると、甥の言葉を足してやったのが王であった。

「貴女の縁が欲しいのであろう。戦士は己の連れの持ち物を得て戦へと赴くものだからな」

「成る程、確かに周りもそうしておりますね」

 其処彼処で戦士らと誰ぞの小物の渡し合いが繰り広げられている。大凡がハンカチーフのような薄物と判断したリシルファーノは、ポケットから華やかさの欠片もないそれを取り出すとフェリニルに渡してきた。

「えっ?」

「私が投擲しても届かぬのでな。投げてもらいたい」

「え、は、はあ」

 おずおずと頷いたはよいが、確かに貴賓席からアリーナまではそこそこの距離がある。果たしてフェリニルの一投でも届くであろうか。ううん、と距離を測るとその後ろ、リシルファーノが控える侍女達へ声をかけた。

「誰ぞ、石はないか。大きくても構わぬ」

「菓子! 重めの菓子などありませぬか!」

 堂々と石を強請るリシルファーノはフェリニルに弟を潰させる気であろうか。思わず焦った声を出すフェリニルに、リリナや弟妹達があわあわと菓子を握らせてくれる。そうして投げたハンカチーフはなんとかアリーナまで届き、ラディエルは難なく掴んで更なる笑顔を見せた。

「必ずや勝利を!」

 高く吼えるラディエルに周囲は黄色い声を上げるが、一つとてその耳に入ってはいまい。うんざりとした顔をしてしまうフェリニルにリシルファーノは更に言葉をかけた。

「フェリニル殿、ラディエルを呼んでくれるか」

「はい。ラディエル!」

 裏に戻りかけていたラディエルは即座に足を止める。そうして仰ぎ見てくる彼の視線を受けつつ、フェリニルはリシルファーノの言葉をそっくり繰り返した。

「徹底的にやり通せとのお言葉だ!」

「御意!」

 美しく頭を垂れるラディエルは社交界の華であった昔のまま、寧ろ男振りを増して羨ましい限りだ。──内情がああでさえなければ。

「直接のお声がけでなくて宜しかったので?」

「私は胸が弱くて声量がない。叫ぶとすぐに喉をやってしまう故、大概人に任せていてな」

 いつの間にか椅子に腰を下ろしていたリシルファーノは優雅に茶を含んでいる。

「皆様、この催しは通常何日間程かかるので?」

「いや、然程の事ありません。本戦は本日限り、既に予選で篩にかけられております」

「書物で見るのと聞くのとでは違うものですな。数日は祭りの期間と記憶しておりました」

「祭り自体は確かに開かれておる。その中、武闘会は一日だけだ」

 成る程、と頷くリシルファーノの横、腰を下ろしたフェリニルはそっとラディエルを思った。この武闘会で実力を図られているのは誰でもない、ラディエルなのだろう。

 試合は実にさくさくと進んだ。一回戦の第四戦目、とうとう姿を見せたラディエルに相対するは件のヤナシュである。

(なんと運のない……)

 そう思うはフェリニルだけではなかろう。ラディエルは何よりヤナシュを潰す為に参加したのであるからして、その鬱憤を大いに晴らすに相違ない。さてどうなるものか。皆が興味津々に見る其処、試合は始まった。

 先手は意外にもヤナシュだ。祖母が言っていた通り腕に覚えはあると見るが、それでも毎回入賞には至っていない筈である。フェリニルは毎回試合をまともに見てもいないのだけれど、その後何があるかわからない為、結果だけは毎回きちんと確認するようにしていた。その記憶の中にヤナシュの名は存在しない。

(そもそも品位の足りる男であればとうに出世して、よく見る顔になっていただろうに)

 しかしそうした部分への配慮がないからこその現状だ。

 他方、ラディエルは六年を他国で過ごした。フェリニル達にはそれ以前の規範を守る、まるでお手本のような姿しか記憶にない。剣の腕は悪くなく確かに実力はあったのだが、ラディエルはいつも手習い通りのまま騎士道と称するに相応しい完璧な所作の剣しか扱っていなかった筈だ。

(リシルファーノ様はラディエルの腕をどれだけ御存知であろうか)

 ふと尋ねようとしながらフェリニルが首を傾けようとした、刹那。振り被られたヤナシュの剣を足で払ったラディエルは、その顔を剣の平たい面で叩いたのである。

「叩いた!?」

 普通、剣を持てば切るものと思う。大会で使われる剣は殺人の可能性を下げる為全て刃が潰されてはいるものの、現状ままに切られればヤナシュは殆ど即死だ。しかしラディエルは敢えて切らず、打った。それが計算づくであるとわかるのは、そのまま流れるように二打三打と殴打が続いた所為である。ヤナシュは最初こそ呻いていたが、その内に全く動かなくなった。彼の剣は足で払われた際に折れてしまっているし、今や完全に反抗の意思すら見えない。殆ど最初の段階で頭が眩んだであろう事は想像に難くなかった。

「誰ぞあるか!」

 王子が焦ったように声を張り上げ、ラディエルを止めるべく図る。しかしラディエルの殴打が早く隙を掴めない上、誰の声もまるで耳に入れない。ヤナシュの血飛沫が辺りの砂を黒く染めるのと同じくして周囲の混乱は渦を巻くように高まっていた。

「リシルファーノ様! ラディエルを、あれをお止めください!」

「止まるかは知らぬが、私は声を張り上げる事相ならぬと先程告げた筈だ」

 そういえばそうであった。フェリニルが声もなく顎を引くと、リシルファーノは膝上で両手を組み、静かにフェリニルを見る。

「フェリニル殿、貴方が呼ばわれるが宜しい」

「わ、私では」

「貴方はあれの兄だ。不都合があるか?」

 不都合だらけだ、とフェリニルは思う。自分は生まれが早いばかりの全く不出来な兄であるし、弟に何一つとて敵うものではなかろう。けれどリシルファーノは頑として揺らがない。その眼下、ヤナシュの血は流れるばかりである。

「〜〜ッ!」

 ええいままよ! フェリニルは手摺りから上体を傾ぎ、ラディエルに向かって吼えた。

「ラディエル! 止めよ!」

 瞬時、宙に振り被られていた剣が静止した。血で染まったそれがゆっくりと引き下げられ、返り血を浴びたラディエルがじっとフェリニルを見る。そして。

 すっと一礼し、ラディエルはそのまま退場した。優雅に歩くその横を控えていた医療班が走り抜ける。全ては全観客の目の前で行われ、一方その様に脱力したフェリニルは椅子に座るというよりへたり込むように足を折った。

「不都合はなかった、そうであろうフェリニル殿」

「そ、そうでは……ありましたが……、リシルファーノ様がお止めくだされれば……」

「私はこの国の人間ではない。口も手も出すのは容易いが、その後の一切に責任を持つ事は出来ぬ」

 今は動くべき時ではないとこちらに振ってきたのか? フェリニルにはリシルファーノの思考を読む事など到底出来ず、静かに溜息を吐くしかない。

「それにしても、あれは……」

「……そうさな、ある種、狂戦士の類であろうか」

 知っていたのか、と顔を上げたフェリニルはすぐ様その考えを一蹴する事になる。リシルファーノは面倒そうな顔をしてアリーナに厳しい視線を向けていたからだ。

「私は城内の官吏を全て記憶はしているつもりだが、かといって武官にまで目を配る暇などない。況してや彼方には将軍達もおる故、わざわざ彼らの仕事振りに口を出す事もないのだ」

「それは、確かに」

「とはいえ、このような話があればどう隠し立てたとて耳に入る。私はこれでも一国の宰相なのでな。しかし一度たりとて聞いた事がない。わかるか? 一度たりとて聞いた事はないのだ」

「……それでは」

「此度、あれの初めての大盤振る舞いとでも言おうか」

 貴賓席は静まり返り、観客席のざわめきとリシルファーノの言葉だけが天幕に木霊する。──初めての、暴走の階だというのか。

「全く……、あれは私に面倒事ばかりを押し付ける男だ……」

 胸の奥底から呟かれたそれに、誰より先にフェリニルは頭を垂れた。

「……万事、申し訳なく……」

「貴殿の責任ではない」

 途端視界の端でダニグルの肩が揺れたのには、一先ず誰も彼も見ない振りをしたのであった。

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