憂う殿下・第2話
*
さて、王城から戻ったラディエルはといえば、変わらずリシルファーノの傍らに侍って離れる事がなかった。
「おやつは如何ですか? 当家の料理人はデザートの腕も逸品ですよ。閣下に食べやすいよう、一口大で提供させ」
「要らぬ」
「左様ですか! では庭の散策など如何でしょう、母の誂えた庭でして」
「先程見せて戴いた」
「母とですか? 余人がおりましたか!? 私の帰りをお待ち戴けましたら舐めるように御説明差し上げましたのに!」
「喧しい!」
パコーンと高らかに音がするのはリシルファーノが手にした煙管でラディエルの頭部を殴り付けたからだ。灰が飛び、煙管はすっかり曲がってしまったけれど、ラディエルはといえば何処吹く風。構われた事が嬉しかったのだろう、にこにこと笑み崩れて益々リシルファーノに寄っている。
「……」
フェリニルはこの一連の流れをずっと対面で見ている。婚約者とはいえ未婚の男女を一室に押し込めておく訳にはいかないので、立ち会いとしてだ。正直なところ「何故自分が」と思わなくもないが、今回の件に関して父は役に立たず、となれば長子として動かざるを得ない。全く損に過ぎる役回りで頭が痛いし、室内に控えている侍女達の哀れみも物凄く感じている。とてもつらい。
晩餐の席においてもラディエルの様子は微塵も変わりなく、家族はまるで通夜の席の如く沈黙に包まれながら食事を進めていた。いや、フェティニレラだけが何やら堂々としているようであったが、この席の空気が変わる程の事はない。やはりつらい。
ゆっくり皺を深めていく眉間をどうにかこうにか装っていると、その眼前、リシルファーノが小さく息を吐いた。
リシルファーノは小さい。本人にも服装にも威圧感があるから一見してそうとは思われないが、ともすれば妹のファイラーナよりも身体が小さいかもしれない。食に対して固執するようにも思われないし、晩餐の量が多かったかと思い至るには充分過ぎた。
「リ」
シルファーノ様、と続けようとした言葉はしかし声にならずに消えた。彼女の隣に陣取ったラディエルが口を開いたからだ。
「閣下、今夜なのですが、お部屋に失礼しても宜しいでしょうか?」
「宜しい訳があるか」
(全くだ)
フェリニルは青い顔をしてカトラリーを握り締めた。家族の揃った席で何を言い出すのだ、この弟は。
「夜半の慰みにお話させて戴きたいだけでございます」
「夜半に立会人を設ける事こそ失礼と思え」
「用意せねばよいではないですか。私達は将来を約した仲なのですから」
「……」
リシルファーノが汚物を見る目をしている。
「……」
フェリニルもまた、否定の仕様がない。
「閣下、どうか私めを」
「黙らぬか、食事の席だ」
「そうは言われましても、私の食事は終わってしまいましたし。……閣下」
「……なんだ」
「宜しければその皿の品を私の口にあーんと」
「ナイフで刺すぞ」
「閣下に刺されるのでしたら本望です。男振りも益々上がりましょう」
なんという弟だ。フェリニルの頭痛は治まる気配がない。ダニグルは言葉もなく顔を右往左往させているし、トリフェルとファイラーナはといえば青い顔を隠す事なく黙ってカトラリーを置いている。
「閣下のその小さな御手で私の口と腹とを慰めてくださいましたら、夜半には室内にお邪魔をせずにおりましょう」
「言い方が気持ち悪い!」
思う事は全てリシルファーノが口にしてくれる。フェリニルは半眼のまま、ラディエルの口に彼女の手ずからパンが詰め込まれるのを無言で眺めた。
武官として新兵から鍛えられたラディエルとしてみれば殊更、無駄を厭うであろうリシルファーノを慮った上での態度であるのかもしれない。だが全体的に大失敗であるし、それを教えてやれる程今のフェリニルは彼に優しく出来ない。
此処は口を出す場ではないとフェリニルは判断した。少なくとも必要のある言葉はリシルファーノが口にするのだから、フェリニルが出る幕ではないのだ。フェリニルが出来る事と言えばただ一つ。
「客人に小さめのデザートと多めの茶を。明日以降は半人前の量で準備するように料理長に伝えてくれ。それと、今夜の客間の警護に兵卒を用意するように」
そうこっそりと伝えるばかりなのである。
──とはいえ言葉以外は出さざるを得ず、夜半に一悶着あった事だけは付け加えておこう。
「ラディエル! お前はそんなところで何をしているんだ!」
「兄上! なんですこんなところで!」
「お前が客室の前で騒いでいるというからだろう!」
「こちらにおわすのは私の婚約者ですよ!」
「晩餐の時に客間に行かぬと言っていたではないか!」
「室内にお邪魔しないと申し上げたのです!」
「それを屁理屈と言うのだ! 皆、これを捕らえて部屋に閉じ込めておくれ!」
「あっこら何をする兄さん御止めください兄さーん! 閣下ー!」
まさかこの歳で弟を部屋に閉じ込める羽目になるとは誰が思おうか。兵士に拘束されて連れていかれるラディエルを疲労感たっぷりで見送る後ろ、扉の向こうから「フェリニル殿、感謝する」と告げられた声音に、フェリニルは「お構いなく……我が弟の、不始末でございます……」と力なく答えるより他なかったのだった。
急な事ではあったが、翌日には謁見が予定されていた。スムーズで素晴らしい限りだが、どうにもこうにも昨日の今日である。
「兄上、その、大丈夫ですか……」
「大丈夫だよ……」
真っ青な顔をしたフェリニルに、思わずといった態でトリフェルが問う。今までの何処か物寂しい兄弟関係からするに素晴らしい優しさだったが、それに喜びを覚える余裕がフェリニルにはなかった。早朝から部屋を抜け出して客室へ向かっていたラディエルを押さえる為に、またしても一悶着重ねていたのである。もしやと早起きしておいて正解だったが、正直当たってほしくはなかった。
いつもの通り飲み慣れた痛み止めを含んでの登城であるが、今回の原因はラディエルだ。件の弟はといえばリシルファーノの腕を取り、べらべらと楽しげに王城の説明をしている。両親は既に登城を済ませており、フェリニルに率いられた弟妹が全く哀れであった。先に行かせてやる事の出来なかった兄を恨まないでほしいものである。
さて、リシルファーノは昨日に比べたら固さこそ変わらないが、幾分か女性らしい服装に見えた。城外ではラディエルに見向きもしなかったが、城内に在っては彼の腕を取ったまま口を開かず静かに連れ立っている。緊張などする人物には思われない。きっとその場に応じた対応が出来る女性なのだろう。フェリニルはその順応性にただただ感服するばかりだ。
其処へ如何なる運命の采配であったのか、通りかかった者が在った。
「ラディエル……? ラディエルか!」
声をかけてきたのは伯爵家のヤナシュである。彼は一武官として城に勤めていた筈だ。フェリニルとの縁はなかったが、ラディエルとは親しく剣を交えていたのかもしれない。
「ああ、ヤナシュか。久し振りだ、息災だったか?」
「勿論だが、どうした? 里帰りか? 伯爵家を継ぎに行った筈だったが、今更……ああすまない! 伯爵家程度では貴殿の身に添わなかったか!」
前言撤回、どうやら弟は敵対視されていたようだ。早く謁見の間に赴きたいのにこの有り様、フェリニルはそっと額を押さえた。
「ははは、そうでもない。ヨーレティエルナはよい国だよ。私のような若輩者でも分け隔てなく、大佐の末席に置いてくださる」
「た、大佐?」
「今度少将に昇進が決まってね。経験こそ未熟だが、益々彼の国に尽くすよ」
「……」
相手の旗色が一気に悪くなった。きっと貶めるつもりで、逆にプライドが貶められたも同然なのだろう。フェリニルは脳裏で将官を端から端まで思い起こしてみたけれど、ヤナシュの名を見た事はない。記憶違いでなければ少佐ではなかっただろうか。とはいえ、ベシェリアでは貴族には先ず佐官の肩書きが与えられるから、つまりヤナシュは一度も昇進していない事になる。
そんな分析をフェリニルがしているとも知らず、ヤナシュはうろうろと視線を彷徨わせ──、リシルファーノを見た。
「ラディエル。隣の……どなたかな」
(男か女かすら迷ったな)
フェリニルが窺う其処、ラディエルは穏やかな笑みを浮かべて身を寄せる。
「私の婚約者だよ。リシルファーノ様と仰る。今日は婚約の知らせも兼ねていてね」
この弟は全く外面が宜しい。寧ろ完璧に作られている。昨日一日でそれをとくと知ったフェリニルは、却って迫り来る恐ろしさにトリフェルの手を取った。その上を更にファイラーナが押さえてくれる。出来た弟妹で兄は嬉しい。
「婚約者……? ──ラディエル、貴殿はどうやら彼の国で目か頭でも悪くしたらしい。可哀相に、選り取りみどりだった貴殿がどうしてそんな年増を娶ろうというのだ。早く医者にかかるとよかろうよ!」
声高らかにヤナシュは去っていく。その背をラディエルは、
(追わない、な)
リシルファーノも一言も発しない。彼女は己が出る場をきちんと把握する事が出来る。今はその時ではないのだろう。
(では、捨て置くべきと判断したか)
じっと見つめると、ヤナシュを静かに見送っていたラディエルが振り向いた。
「お待たせ致しました。参りましょう、兄上」
「……そうだね」
その顔は輝かしいばかりに美しい笑みで覆われ──、横でリシルファーノが小さく口をへの字に曲げたのに、フェリニルは事が悪い方向へと転がった事を察した。
何はともあれ謁見である。ようやくベシェリア国王一家に挨拶を済ませる事が出来たフェリニルは、誘われた茶の席で半ば死んだようにカップを握り締めた。左右を弟妹に付き添われる様は見慣れぬものであっただろう。周りも物珍しげな視線を向けているのがわかるが今は取り繕う事も出来ず、フェリニルは静かに茶を含む事しか出来ない。
謁見の席でも茶の席でも、リシルファーノの態度は見事の一言に尽きた。彼女は確かに女性としては並々ならぬ凶相であるし、これから婚姻を結ぶ相手としては歳もいっている。けれど其処を突く暇を与えぬ程彼女の態度は完璧であった。更にはヨーレティエルナの宰相であるという肩書きが物を言った。土産の品に特産品を持ち込む卒のなさ、打てば響く確かな頭脳、どれもこれもが武で名高いベシェリアには足らないものだ。現王以下各人には流石に戸惑いがあったものの、前国王、つまり祖父に覚えよく、結果すっかり見込まれて問題はなくなってしまった。
「昔から歯に衣着せぬところがございます。それ故かは知りませぬが逆に愉快であると、我が国のお歴々には可愛がって戴いておりまする」
リシルファーノと会話を楽しむ祖父母の横、ラディエルは先刻とは打って変わって笑顔の一つもない。リシルファーノの手を取ったまま、むつむつと床を睨んでいるばかりだ。
「ラディエル」
そんな彼に声をかけたのはリシルファーノその人である。
「腹を立てる事があるか。私が見目も悪く、年増であるのは今に始まった事ではあるまい。寧ろその通りでしかない。お前が怒る義理が何処にあるのだ」
「全て、全てです。閣下、私は貴女の有り様を全て愛して止みません。貴女の一つ一つ、欠片であっても捨て置けぬもの。それをあれは非礼にも踏み躙りました」
殺してやりたい。
静かに言い添えられた言葉はあまりにも重かった。通り過ぎて端から端まで届いている。王室一家どころか召使い達の顔色が一斉に変わったのがわかったが、フェリニルは対面に座っていたリリナの顔色が悪くなった事に一番同情した。社交界の華であったラディエルに秋波を寄せていたのはリリナも同じであった筈だ。その華がこの有り様なのだから、夢も儚く消えたに違いない。
「物騒な事を言うのではない」
リシルファーノがそう窘めるのに、しかし口を挟んできたのは祖母だった。
「そうねえ、ならねえ、ラディエル、貴方武闘会に出てはどう? 二人して貴賓席に招こうと思ってね、今日お呼びしたのよ。ちょうどよかったではないの」
うふふ、と笑む祖母はいつでも変わりなく花のようだ。けれど、過日のフェティニレラ婚姻にかかる一件を知れば、そうほわほわとしただけの女性でないと判断出来る。祖母は思うよりずっと、周囲を見ている筈だ。
「ヤナシュは例年の通り武闘会に出ますよ。あれは出来の悪い男ですが腕だけは確かですからね。ラディエル、貴方は継承権を放棄しているのだから大会への出場資格があるわよ」
ベシェリアは前述の通り武を誇示する国であるので毎年武闘会が開かれている。しかしそれに王位継承権を持つ者は参加する事が出来ない決まりだ。継承権を持つ者、つまりそれに足るだけの武力を有しているという前提である為に、それ以外の者しか出場を許されない。
「戦でもなし、殺すのは出来ないわよ。でも、衆目の中で自尊心を折る事は構わないわ」
やはり祖母は徒者でなかった。フェリニルは只管カップを覗き込む。口を出す事はしない。そんな面倒に巻き込まれて堪るものか。
「ベシェリア武闘会は噂に聞いておりました。実際目に出来ますとは勉強にもなりましょう。お手配有難く」
「いいのよいいのよ、楽しければそれが一番よ、ねえ貴方」
ハッハッハと快活に笑う祖父に否やはないらしい。
「……閣下。暫く私がお傍を離れる事、お許し戴けますでしょうか?」
ラディエルはいつの間にやらリシルファーノの傍らに跪き、その小さな手を取って許しを乞うていた。彼女はそんな姿を無関心そうに眺め、口を開く。
「やるのならば最善を尽くせ。私は中途半端をよしとしない。わかるな?」
「勿論でございます! 閣下へのこの溢れんばかりの愛に賭けまして!」
途端騒ぎ出したラディエルの誓いは要らぬ事この上なかったが、何も今更であろう。攫われていた手を奪い返して振り払うリシルファーノを余所に、ラディエルは「では早速準備に取りかかりたく!」と言うなり何処かへ走り去ってしまった。
フェリニルはぼうっと弟の背中を眺めてから、ゆっくりとリシルファーノを見る。涼しげな彼女の顔は平素と変わりない。
「……宜しかったので?」
「ああいう外面のよい輩は中にものを溜め込み過ぎるものだ。折を見て発散させてやらねば自ずと弾ける」
全く、と息を吐くリシルファーノはこの場の誰よりもラディエルという男を操る術を知っていた。
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