憂う殿下・第4話




 結果だけ言えばヤナシュは無事に生きていた。割れた額と潰れた鼻から派手に出血して失神しただけのようで、少々覚醒するなり痛みで喚いた為眠り薬を嗅がせた、と典医より報告が成されたのが先程の事である。

「頑丈な男よな」

「しかしこうも衆目の中潰されてはねえ。あとであれの親も来るでしょうが、事の次第を知れば引き摺って領地に帰るでしょう」

 尚、顔面はともかくとして両腕の腱が綺麗に切られていたという。切り口が綺麗なので接合はしようが、もう剣は持てぬであろうとの見立てだ。あの暴行の最中にそれだけの事をしっかり成していたラディエルという男が恐ろしく、王の元には先程から各所の長が集いやいのやいのと喧しい有り様である。

「……」

 ラディエルが誠狂戦士の類であるか、誰も未だ判別が出来ない。わかる事といえば問答無用の暴力と一線をきっちり図る精神が異質であるという点だろう。

(ラディエルは、戻されるだろうか)

 異質ではあるが、完全に有用な武力に数えられる。そうなれば今度こそ不要の烙印を押されるのはフェリニルに違いない。入れ替わりに隣国に投げられる己を思うと胃が軋むが、その方が全てを投げ打った楽な暮らしが出来るのかもしれず、フェリニルは諦念にも近い思いを抱き始めていた。

 と、正面のリシルファーノがすん、と鼻息を吹く。視線を上げれば彼女は例の歪んだ笑みを小さく浮かべていた。何を笑う事があったろうかとアリーナに視線を投げればラディエルの二戦目で、対戦相手は軍属の大佐だ。

「あああっ、また!」

 相手が誰であろうとラディエルは構わず攻戦一方である。防御も何もあったものではないが、そもそも反撃の機会さえ与えなければいいだけの事で、つまり攻撃の手があまりにも俊敏だった。しかも潰された刃では剣撃が適わぬと知っているからか殴る蹴る投げるの殆ど格闘戦だ。確かに戦い方に規定はないが、予想外にも程があろう。

「ラディエルラディエール!」

 ヤナシュと違い、立派に仕事の出来る武官を潰されては一大事と貴賓席は更に荒れた。近衛兵がアリーナに急ぎ派遣される横、王や王子が幾ら大声を張り上げても梨の礫、結果としてやはりというやフェリニルが止めた形である。

「……」

 疲れ切った顔をしてフェリニルは腰を折っている。最早普通に試合見物をする気力などないし、誰もそれに文句を言わない。乱れた髪が束になって落ちてくるのを見るともなしに見るその上、リシルファーノの小さな声がそっと耳に入った。

「フェリニル殿、これで貴方の土台は固められた」

(?)

 土台、とは? 顔を上げてリシルファーノを見るも、彼女は茶器を傾けて茶を含んでいるばかりだ。あまりに小さな声であったし、フェリニルの耳にようやく入る程度だったろう。尋ねようと口を開いた瞬間、被せるかのようにリシルファーノは朗々とした声を上げた。

「陛下、お許し願えるのでしたらラディエルを引き上げたく思いますが如何でしょうか」

「うむ……そうさな」

「今ならば未だ問題なく棄権させて引き上げる事が可能です。これ以上進めば観客の手前、最後まで相手を潰させる羽目になります」

「……許可しよう」

「感謝致します。トリフェル殿、行ってくださるか」

 依頼され、トリフェルは頷くと同時に一も二もなく立ち上がる。その若い横顔に「きちんと顔を清めてから上がるように伝えてくれ」と言い差し、リシルファーノはにやりと笑んだ。

(……)

 この歪んだ笑みにすっかり慣れてしまった自分に、フェリニルは唐突に気付いた。初見こそ驚いたものだけれど、人間それ以上の驚きに遭うとそれどころではなくなるものなのだろう。人間とは一定ではなく常に変化があるものなのだとまざまざ思い知った。

(それに、六年だ……)

 ラディエルは六年を他国で過ごした。血を分けた己の祖父母がいるとはいえ、馴染みのない隣国で一人、朝も夕も全てを一から過ごしたのだ。それは彼の人生の中で何より大きな出来事であっただろう。そうしてラディエルはリシルファーノを知った。たった一人、愛を傾けるに足る相手を。

 フェリニルにはリシルファーノが如何に素晴らしい伴侶足り得るかを知る術はない。素晴らしき官僚であり人間であるとは思うが、それが精々だ。しかしラディエルは知っているのだ、リシルファーノが愛するに相応しい人間であると。それを他者が知る事は今後もない。

(……うん)

 万が一。万が一にもフェリニルとラディエルの立場を入れ替えるなどという話が出た場合、フェリニルは最大限に拒絶をしようとそっと心に決めた。ラディエルはリシルファーノを手放す可能性など考慮すらしないだろう。リシルファーノは宰相という立場からしておいそれと他国に嫁すなどしないだろうし、有能であるのなら国とて易々と手放さない筈だ。国と国の間で挟まれて戦になっても困る、と訴えればある程度は耳を貸してもらえるだろう……多分。リシルファーノとしてはラディエルから離れたいだろうが、フェリニルはラディエルの兄なので彼の味方になる部分については許して戴きたい。

 自分の立ち位置を決めてしまうとなんだか胃がスッとした。細く息を吐き、フェリニルはとうに冷めた茶を啜る、と。

「フェリニル殿、貴方は優秀な施政者とはどのような者であると考えるか」

 リシルファーノが水を向けてきた。優秀な施政者などという問いをわざわざこの貴賓席で行う意図が全くわからず、フェリニルは眉根を寄せる。

「国の為となるような施策を行い、或いは戦に勝ち、そうして後世に名を残すような方でしょうか……?」

 言うだけなら簡単だが、所謂フェリニルとは遠くに在るような類の人間だろう。歴史書にだって残されている名高い施政者は得てしてそうしたものだからだ。

 しかし、この答えにリシルファーノは笑みを消した。そっと茶を交換する為に伸ばされた侍女の手を片手で断り、フェリニルを見据える。

「優秀な施政者とは、一つも名を残さぬ者だ」

「……はい?」

「名を残す施政者は、つまり名が残るだけの何かを行っている。則ち、何かを正さねばならなかったという事に他ならない。災害にしろ戦禍にしろ、民にとり何がしかの不幸が起こっているという事だ。そうした事がない、或いはそうした事が起こる前に対処出来た、そんな施政者はしかし、それが為に名が残らぬ。貴方は不足と断じるか?」

「……いいえ」

「全ての歴史を残す国もあろう。しかし此方近隣各国においてはその治世が長い為、結果的に少しでも名が上がるような施政者しか記憶には残らない。確かに不都合があって歴史の闇に消えた者もあろう。だが、確実に有能な施政者もそうして誰の記憶にも残らず、王城の奥深くの書物に残るのみで消えているのだ」

 背を正して凛と言うリシルファーノにフェリニルは目を瞬かせた。思いもよらぬ事である。

「ですが、リシルファーノ様は……、……、あれ……?」

 反論を繰り出そうとしてフェリニルは黙り込む。思い描いたリシルファーノの来歴はといえば、国内最年少で位に就き家名を売り払い済みの平民たるヨーレティエルナ国宰相、とそればかりだ。その仕事振りをと思ってみても一つとて思い浮かぶものはない。

「私はこの形と着任までの諸々で色が付いただけの話。これといって名高い仕事を成した訳ではない。しかし日々国の為に仕事をし、毒と成らん事象を先んじて潰しているつもりだ。そうした積み重ねはわざわざ他人が評価してくれるものでもなく、況してやいつかの未来で誰かが謳うものでもない」

 それを貴方は過小評価するか。

 問われ、フェリニルは静かに首を横に振った。地道に積み重ねる仕事の地味であるが故の過酷さを、フェリニルはそれなりに理解しているつもりである。

「まぁ、確かに何がしかが起こってから対処するという手もある。片付けは面倒ではあるが、一網打尽に出来るから楽であるという側面もあってな。それに比べたら日々虱を潰すような仕事振りの方が面倒であろうよ。しかしな、私は日々虱を潰す方が性に合っている」

 喋るだけ喋り、リシルファーノは歪に口の端を上げた。

「私は名を残す気がまるでないのでな」

 意外な事でありながら、しかしリシルファーノには似合いでもあった。官吏として重用され、国の根幹を成す人間が名を残さぬとはなかなか言える事ではない。つまり彼女はそれだけの仕事を人知れず成すと宣言しているも同じなのだ。大それた事を言っている訳であるがしかし、リシルファーノの言と思えば「そうするだろうな」という納得しか生まれない。

 成る程、リシルファーノは優秀な文官である。余人に同じようにせよとは詰められぬが、それでも誰もが彼女のように仕事を成す事は出来る筈なのだ。余人はしかし、欲が故にそう簡単に成せぬだけで。

「……リシルファーノ様、貴女様のようになれますでしょうか」

「なるのだ、人間はな。少なくとも地道な仕事は得意であると見受ける。何より、貴方はこの国の一つの鍵となるのだから」

 リシルファーノは言うなり玉座に向き直り、話を窺っていた王に進言した。

「陛下におかれましてはラディエルをどのようにお考えで?」

「うむ……、悩ましいところだ。正直に申せば、戦時下であれば貴女を拘束してでもアレを利用したであろう」

「!」

 フェリニルだけではない、王子を筆頭とした王族若人がぎょっとした目で王を見る。しかし真逆に王を中心とした年長者はまるで動じる事もない。平和な世では異質であっても、それは軍を掌握する施政者としては当然の選択なのだ。

「アレが誠狂戦士の類であるならば、アレが執着する貴女を手にすれば大凡は事が運ぶ。何せ此処にはアレの指示役足り得るフェリニルもいるのだからな」

「わ、私ですか……!?」

「事実、ラディエルはお前の言葉しか聞かなかったではないか」

 そうであった。動揺するフェリニルを余所にリシルファーノは当然のように頷くばかりだ。

「けれど、平和な世では狂戦士など無粋なものでしかありませぬ」

「全くだ。戦力として期待する程の役がある訳でなし、一歩間違えば国の首元から食い千切られかねん。アレの操作も儘成らぬたれば、平素は無用の長物に過ぎぬ」

 すっと王は首の前で横に手を切った。不要であるのだ、あのラディエルが。

「──」

 ぞっとするフェリニルを構わず、リシルファーノは畳みかける。

「其処で御相談なのですが」

「許そう」

「詳細はヨーレティエルナにおいても相談した上で国家間でお話させて戴きたく存じますが、少々充てがございまして。国に帰ってその点を精査したく思います。こちらの損にもなりませぬし、なあに、盾足らんフェリニル殿がいらっしゃる。歳月こそ戴きますが、妥当な線に納めさせてみせまする」

 リシルファーノはしっかりと言い、静かに頭を垂れた。その小さな頭をじっと見つめ、王は顎下を軽く擦る。

 長いような、短いような、一瞬。王はぱしりと柏手を打つなり「面白そうだな、任そう!」と頷いた。

「ラディエルがそちらの国に在って成す事が如何な事とて、ベシェリアは一切の責任を取らぬ。それでよいな」

「勿論」

「ならばよし。先程叩いた大口、正に成してみよ」

「有難く」

 頭を上げたリシルファーノの顔は常の如く凪ぐようにありながら、瞳はいつになく輝いて見える。こうして一つ一つの何かを成してきたのだな、と思わせる輝きが其処にはあり、フェリニルは素直に感嘆した。

 このような人間になれるであろうか。フェリニルにはわからない。わからないが、努力する事は可能な筈だ。一つ一つを着実にこなし、いつか己が在る其処を、そこそこ納得出来る程度には整える事が出来る筈だ。

「リシルファーノ様」

 教えを請うたとして、彼女はそれを否定しないだろう。そう思い定めて口を開いた瞬間である。

「閣下! 貴女のラディエルが只今戻りましてございます!!」

 ──嵐のように貴賓席に登場したラディエルに、フェリニルは口にしかけた全てを忘れた。

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