憂う殿下・第5話




 ラディエルは誠嵐、誠犬としか形容のしようがない有り様であった。ぶるぶると頭を振るだに飛沫が飛ぶ。どうやら言い付けを守って水でも浴びてきたらしいがこれでは本当に只の犬であるし、事実飛沫を浴びたリシルファーノの顔面には怒りが浮かんでいた。

「誰ぞ、雑巾を持て」

「布巾! 布巾はございませぬか!」

 雑巾でラディエルを拭う気満々のリシルファーノの言葉尻を奪い、フェリニルは周囲に向かって大声を上げる。今日この席で既に同じ事をしている気がするが、思い出すのも面倒な程色々な事がありすぎた。フェリニルの気力はそろそろ限界である。

 次いで、ラディエルの後を追ってきたらしいトリフェルが戻る。見るに何処ぞで撒かれたらしく、脂汗を掻いての登場だった。散々探して仕様もなく貴賓席に戻ったところ先んじてラディエルがいた、という流れであろうか。可哀想に。

 そんな兄弟を余所に、ラディエルはといえばリシルファーノの足元に跪いてきらきらしい瞳を向けていた。

「閣下、御覧戴けましたか私の試合は」

「あーあー見た見た」

 片手を取られ頬擦りされながらのこれだ、なおざりにもなろう。フェリニルは今日一番リシルファーノに同情する。周囲もまた同様の気持ちを抱いている事が感じられ、つまり今現在この場で最も尊重されるべき人間、それはリシルファーノであった。故に、仕方なしに布巾を手に弟の髪を拭くフェリニルの姿は最早背景である。

(仕方ない……うん……)

 一桁の子供の時分ですらした事もないというのに、何故今と思わなくもない。誰か代わってほしいくらいだが、ラディエルにわざわざ近寄ろうとする者は貴賓席に皆無なので仕様もなかった。常にされている様を思い出しつつフェリニルは無言でラディエルの髪を拭き続ける。……髪質までフェリニルとは真逆で、正にベシェリアの血統だ。

 リシルファーノに侍ってべらべらと喋り続ける弟はその実大人しく、拭き浄めるのに難儀する事もない。とはいえ、髪を引き頭皮を押してしまう不器用な兄にラディエルは何も言わなかった。触れる頭髪はヤナシュをやり込めるという当初の目的以上に驀進した所為か、実に熱が籠もっている。その筋肉の付いた背も同様に、一戦一戦の熱を緩やかに放出して熱い。

(……)

 血筋に相応しく、全く肉体派の弟であろう。フェリニルはこうした事に結局疎く育ってしまったので嫡子として劣等感は否めないが、ラディエルへのそうした感情をある種落ち着かせた今であれば向き不向きがあるのだと冷静に思えた。フェリニルはどうしたってこうはなれないのだ。

「私の腕は閣下のお眼鏡に適いましたでしょうか」

「ある程度はな」

「有難き幸せ!」

 どうにもこうにも恋人や婚約者といった雰囲気は欠片もないが、この二人には共通する恋も愛もないのだから当然だ。これからもこうして続いていくのやもしれない。そんな事をつらつら思いつつ、フェリニルはラディエルの髪を出来る限りしっかりと拭き上げていった。

「面の皮厚く申し上げます、此度の褒賞を賜りたく!」

 と、ラディエルが随分子供染みた事を言い出す。同じような感想を抱いたのであろう、リシルファーノの首が微妙に傾いだ。

「……私も鬼ではない。成果がある事には褒賞もあって然るべきであろう。言うてみよ」

「はい! 閣下のお手を、片手で結構です! 一晩御預かりしたく!」

「……」

「……」

 こいつは何を言っているのだ。フェリニルは思わずその手の動きを止めたし、リシルファーノもまたひどく渋い顔をしている。周囲の顔色は言わずもがなだ。

「……どうする気だ」

「一晩好きに致します!」

「……」

 馬鹿の極みのような返答にリシルファーノは額に手を当てた。見れば王以下官吏に至るまで酸っぱい顔をしている。これが国に残る事となっていたら──もうその未来に関してはよきにしろ悪しきにしろ考えたくはなかった。

「……考えさせろ……」

「よきお返事を心より期待申し上げておりますゆえ!」

 場所を弁えてか優しい返答ではあるが、その裏に潜むこの糞という心の声が響くようである。フェリニルは申し訳なさに顔を伏せ、淡々と作業に没頭した。

「それに致しましても閣下のお申し付けに否やはございませんが、今暫くお待ち戴けましたらば必ずや優勝の一閃を捧げましたものを」

「要らぬ。最低限は得た、追って国で軍部の尻を叩いて試させてもらうぞ」

「畏まりまして。何事であろうとこのラディエル、閣下のお声とあらばなんなりと」

 取った手の甲に額を付けて宣言する様は美しい一枚絵にも似ている。……その実情さえ知らなければの話だ。大体はよかろうとフェリニルが布巾を手繰ると、ラディエルは自由になった頭を俄に振って笑った。

 晴れやかなラディエルの顔は人好きのするもので、正に人を騙すのに相応しかろうとしみじみ思う。こんな状態に陥る筈ではなかったのだけれども元々素養はあったのだろう。今やラディエル本人とて自覚のあるなしはわからねど、人を誑し騙しているのだから人生とはわからぬものだ。

「とかく、私の不足もまざまざ感じ入りまして、此度の大会に出た実入りはございました。よき機会を有難うございます」

「ほう?」

 ラディエルの不足とやらに多少なりとも興味が湧いたらしく、リシルファーノが片眉を上げている。それに気をよくしたラディエルは柔らかに笑みを見せた。

「私には肉が足りませぬ。相手が誰であろうと押し遣るだけの気概はございますが、それに見合う力量を有するだけの肉体に不足があると感じました。事実押しやられた際の踏ん張りにも少々……。かくなる上は帰国致しましてから、しっかりとした肉体改造に励みたく思いまする」

「……貴様、それ以上無駄に肉を付ける気か……?」

「はい!」

「……ッ」

 双方の言いたい事がフェリニルにはよくよくわかってしまった。わかってしまったが故に思わず沈黙し、次いで噎せ込んだ。その背を摩ってくれたのは誰だろうか。

 ラディエルは現在、近衛騎士然とした見目の、ちょうどよい塩梅の肉体を誇っていると言えるだろう。無駄に粗野ではない、花形のそれだ。この国にいた時分実直に努めていた弟の事であるからその肉体には問題のない程度の筋肉が十分に備わっているだろうし、故にこそ実力で以て佐官の地位を戴いているのだと思う。だがそれは対外的に、騎士という職務的にも問題がないという限界に過ぎない。野を往く傭兵のような実戦向きの肉体であるかと言われれば大差もあろうし、押し負けてしまう部分は否めない。其処を更に鍛えようという前向きさは素晴らしいと言えるだろう。──だが、リシルファーノにとってはどうか。

 ただでさえ二人の身長差には目を見張るものがあった。横幅とて同様で、リシルファーノはただ立っているだけでラディエルの影に身を潜める事が出来るだろう。それだけの差があるというのにラディエルは更に身体を鍛えると言う。多分、いや絶対、筋肉を付けて体躯が横に広がるだろう。……全てを受け止めるのはリシルファーノばかりだ、あまりにも過度な負担である。

「ッラディエル、リシルファーノ様に御迷惑をかけてはならない。そういう事はあとできちんと二人でお話をだな」

 フェリニルが思わず顔を顰めて苦言を呈すると、それまでそれなりに大人しくしていた筈のラディエルがぐるりと音を立てるかのように振り返った。

「兄上、いけませんよ」

 何がだ、と思うのはフェリニルばかりではなく全員である。

「閣下はラディエルの隣に立ってくださる方です。兄上の隣ではございません。幾ら兄上のお好みに添う女性ではありましてもこのラディエル、兄上に閣下をお譲りして身を引くつもりは毛頭ございません!」

「なんの話だ!」

 立て板に水を流すかの如く朗々と言う、その内容と来たら! 驚愕に至近距離で唾を飛ばしてしまったがラディエルは何処吹く風、すっくと立ち上がるなりフェリニルを見下ろしてくる。

 ラディエルは六年で更にフェリニルの体躯を越えた。こうして見れば益々ベシェリアの男然としているし、何より故にこそ嫌なのだと思う。リシルファーノの嫌な部分も正にこれであろう。体躯の大きな輩には小さな人間の気圧される気持ちなどわからないのだ!

「兄上、兄上の事をこの弟が知らぬとお思いか」

「え?」

 思わず肩をビクつかせたフェリニルにラディエルは益々迫り来る。背が弓なりに反り出したのは気の所為ではない。

「兄上が筋の通った気の強い女性がお好みな事は重々承知! 尚、引っ張ってくださるような勢いのある方に従うのがお好みである事もまた重々承知!」

「わーッ!? え、えぇーッ!?」

「現に兄上は私のいない間に閣下と親交を深めていらっしゃる! なりません兄上! 閣下はこのラディエルの」

「黙れー!!」

 フェリニルは咄嗟に手にしていた布巾でラディエルの首を絞め上げた。なかなかに濡れた布はその強固さを増し、非力なフェリニルでも容易に絞め上げる事が可能である。

「フェリニル様!」

「兄上!」

「フェリニル!」

 皆が勢いよく飛び出してフェリニルを押さえるのに、リシルファーノは──、

「それ程喧しく煮えているのだから茶の一杯や二杯浴びても熱くはなかろう」

 侍女の元にあったティーポットを振り被るなり、残っていた茶を浴びせたのだ。残っていた物であるから温いとはいえ、びしょびしょになったフェリニル達はこのような仕打ちを受けた事がない。だが、文句は出てこなかった。ぱちくりと目を瞬かせるその眼前、リシルファーノが手にしていた空のティーポットでゴンゴンと、実に遠慮なくラディエルの背を殴る光景にこそ言葉を失ってしまったからだ。

「貴様という男は本当に場所を弁えん! 何故にそう頭が足らんのか! この頭の中身は藁か! おが屑か!」

「閣下への愛です!」

「飯の種にもならん上に火の種にも程がある! 死んで家族に詫びよ!」

「嫌です! この身の寿命は閣下に捧げるものです!」

「要らぬ!」

「捧げます!」

 とうとう堪忍袋の緒も切れたと見え、耐熱性の厚い胴が割れて尚リシルファーノはラディエルを叩いた。だがラディエルはラディエルで文句の代わりに愛を訴える。混沌とした状況である事は確かで、つまりリシルファーノには申し訳ないが出来得る限り関わりたくない。

「……手分けして皆の着替えを。受賞には間に合わせなければ」

 フェリニルが冷静に言うのに、侍女達は濡れた己の主人を連れ三々五々に散っていく。確認するまでもなく仕事は遂行されるだろう、散々な様を見せてはいるが此処は王家中枢の人間が集う場なのだ。

「あ、兄上、あの、彼方は」

「放っておきなさい」

「えええ……」

「放っておきなさい、問題はない」

 戸惑うトリフェルをさておき、フェリニルはぎゅうっと髪を押さえ茶を絞る。

 リシルファーノの身の安全を思えばラディエルと先に帰らせる事も出来ないから、全てを監視下に置いておかねばならない。貴賓席に在る限りにおいてその効力は最大限に発揮される。何せこの始末を外に漏らす訳にもいかぬのであるからして、皆が皆二人をこの場から自由になどしない。

 王とて全て、リシルファーノの身の為の監視者だ。この場より安全な場所など彼女にはない。

「フェリニル様、こちらでお着替えを」

 侍従に声をかけられ、フェリニルは王に断りを入れて一時貴賓席を離れる。と。

「フェリニル様」

「リリナ様?」

 廊下の隅、リリナが侍女を従えたまま立っていた。フェリニルと共に被ったのだろう茶で少なからずドレスに染みが出来ている。普段のリリナであれば不快さを隠しもせず早々に着替えるのであろうに、何があったのだろう。

「如何致しましたか」

 足早に近寄ると、リリナはじっとフェリニルを見た。そうしてそっとフェリニルの前髪を撫で付ける。

「わたくし、額を出されている方が宜しいと思いますわ」

「……成る程」

「ではまた」

 そっと小さな手がフェリニルの腕を摩り、去っていく。フェリニルはその背を見送り、ややあってから侍従に問うた。

「髪を上げた方がよいのかな?」

「多分、そうなのでしょう」

「成る程」

 濡れたままの髪であるから難はない。ざっと髪を纏めて後ろに流すとそれだけで妙に背が正される気がする。

「……」

 今時分やるべき事は多くあって、頭がずっと回り続けているし面倒だとも思う。けれど思うよりずっと、身体が軽いような気はしていた。

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