犬の皮を隠していた男・第2話

 その後、彼の人物の助言に従って馬を引いたままで医務室に向かい、ラディエルは治療を受けながら事の仔細を述べた。治療に必要だったからでそれ以上でも以下でもなかったが、全てはすぐに訓練担当官の耳に入り件の正規兵は処分を受け、身辺はようやっと落ち着いた。いびる為だけに規律違反を犯していたのだから当然とも言える。

 ところが、である。なんとも馬鹿らしい事だが、ラディエルだけに留まらず新兵全体が一気に平和になったのだ。新兵をいびる集団は既に固まっていたので、其処が一掃された途端に環境が静かになったのが理由だった。これには同期の新兵達から感謝の念を伝えられたラディエルだが、彼はそれを馬の耳に念仏と言わんばかりにやり過ごした。

 ラディエルはずっとあの日の事を反芻していた。あの小さな、厳しい顔の恩人の事を。

(あの人を、私は知らない。ベシェリアの式典に出て来るところを見た事がないから、生粋の王族には居ない筈だ。なら王城勤めが妥当だが身形は武官ではない。文官だろうか。困ったな、私は文官に伝手がない……)

 となれば、先ずは相手が誰かをはっきりさせるべきだろう。

 ラディエルは残る半年を逸る気持ちを押さえて過ごし、正規兵登用式典で彼の人の姿を一心に捜した。が、捜すまでもなくすぐに見つかった。何せ彼の人は首脳陣の直中に居たのである。

 ラディエルは彼の人が壇上で話す事を一つも聞き漏らさぬようにと、必死に耳を傾けた。小さめな声だったが、静まり返った会場にはそれでも十二分に響く。

 ヨーレティエルナ国宰相・リシルファーノ。

 小さな形でありながら、ぴんと張った背と真っすぐな足。確かな物言いと、冷静な瞳。全てが全て、人を〈正しく〉使うに相応しい人物であろう。

 感動を胸に秘め、ラディエルは武官として日々勤めながらリシルファーノの情報を集めに集めた。そのどれもこれもが『品行方正で己にも他人にも厳しい人物だ』と称していたが、それこそ官吏として当然でありながら皆が皆出来ぬ事ではないか。しかも彼の人は元々貴族であったそうだが、親の不始末を拭う為に家屋敷ごと家名を売り払い、現在平民の身であるという。

 己を飾り立てる貴族の多い中、リシルファーノのやり方は確かに異端であろうけれど、その潔癖な様は感嘆に値した。法相の地位が相応しいのではと思い掛ける程だが、全てに対し厳しく正しくとあらば、宰相という地位は確かに適任なのだろう。

(なんと素晴らしい方か!)

 ラディエルはすっかり感心し、リシルファーノに傾倒して行った。いつか言われた通り官吏として国に尽くす事が、つまり彼の人に尽くす事にもなるのだと、ラディエルは日々実直に勤め上げる事になる。

 そうする事、おおよそ五年。ラディエルは働き振りが評価され、走るように階級を上げていた。現在の地位は中佐、後日大佐に昇格する事が決まったばかりだ。

 しかし、である。

「……」

 ラディエルは悩みに悩んでいた。その手には一枚の転属願いが摘まれている。軍部派閥がどうのというレベルでの話ではない。武官から文官に転属しようかと、本気で悩んでいたのである。

 というのも、幾らラディエルが勤め上げ実績を重ねたところで直接的にリシルファーノの役に立つ訳ではないからだ。それは当初からわかっていた事だけれど、年を重ねるごとにその居場所の差異は歴然とし、ラディエルはとうとう今の地位そのものに疑問を生じてしまった。そうして一度思い付いてしまったそれは寝ても醒めても脳裏から消える事はなく、結果的にラディエルはこんな届け出用紙を手にしてしまったのである。

 とはいえ、この用紙を出したところで不受理となるのは目に見えていた。上司であるデレク大将が、実力で瞬く間に階級を上げて行くラディエルをぽいと手放す筈がないからだ。その点において、ラディエルは己の実力を正しく計っていると言えよう。

「参った……」

 本当に参った、と頭を抱える程に悩んだ事など今までにない。だが同時に、リシルファーノという人物はラディエルの人生で初めて固執した、唯一人のひとだった。故に、どうしたって諦める選択肢は出て来ない。

 そもそもだ。ラディエルはこの感情が何から派生するものであるのか、己で判別が出来ていない。憧憬か、尊敬か、或いは――。その全てが全て、ラディエルにはすっかり初めての事であり、己でこれと括る事が出来ないでいる。だからこそ、突き止めたい。彼の人の傍らに上がり、その全てを知り尽くしたいのである。

「……大将の肩書きを奪えばいいだろうか……」

 そうすれば議事に参加出来る。宰相であるリシルファーノと毎度顔を合わせる事も可能だ。と。

「おい、何物騒な事呟いてる」

 ノックもせず詰め所に顔を出したのは当のデレク大将である。憔悴した顔でソファに身を投げた彼に、ラディエルは流れるように紅茶を差し出した。こうした折のデレク用に常備してある砂糖を二欠け、入れ混ぜて。

「うあー、この甘いのがいいな、疲れた頭に染みる。全く議事なんて文官共でやりゃあいいんだ、あんなもん」

 余程面倒であったらしい。デレクは脳筋の武官ではないが、だからといって机に静かに就いている類でもないから議事がある度に毎度これだ。

「では代わりに出席致しますので、大将の地位を代わって戴けますか?」

「笑顔で言うな笑顔で」

 苦虫を噛んだような顔でデレクが答え、ラディエルは溜息を吐いた。冗談のように戯けて見えただろうが、内心本気だ。

「クソッタレな事に二軍の奴らが仕出かしてくれてな。お陰で将軍各位減俸にお小言だ。こういう不始末のたんびに恥掻かされる俺達の身にもなれ、クソガキ共め」

「減俸」

「因みにな、お前の時にも遭ったんだぞ」

「私の、ですか?」

 思わず首を捻るラディエルに、デレクは意地の悪い笑みを浮かべる。

「新兵時代にいびりに遭っただろう。どうにもな、ああいう奴らは上手い事擦り抜けやがって処分出来ないでいたんだが、よりにもよって〈隣国王室関係者〉に規律違反犯してまで怪我をさせ、証人に〈宰相〉と来たもんだ。逃れようもなく懲戒処分、ついでに俺達も減俸ってな」

 処分出来たのは物怪の幸いだが、あのちっこい宰相に「そんな屑の処分も出来んのか」とやたらめったら塩塗られてひでー目に遭ったぜ。

 ゲラゲラと懐かしい記憶を辿るデレクに、けれどラディエルは別の意味で目を見張るしかなかった。

「あ、あの」

「ん?」

「宰相閣下が、証人に?」

「議事では小さな出来事も報告に上がるんでな。それを聞いた宰相が目撃証言し出してなぁ。ありゃあ益々黒だったし、別の意味で処分する側も泡食ったわ」

 ――宰相閣下は私を覚えてくださっていた!

 その記憶が今でもあるか、ラディエルは知らないし、覚えていなくても仕様のない昔の事だ。けれどその当時のリシルファーノは確かにラディエルの事を覚えており、議事で口を挟んでさえくれていた。これ程までに嬉しい事があろうか。

 ラディエルは喜色を浮かべ、茶を啜りながらべらべらと喋り続けるデレクを放置して書類仕事に精を出し始めた。とはいえそれは毎回の事であるからこれまたデレクも構わず、過去の愚痴を延々と吐く。

「なんでもいいが、あんな顔面凶器のクソアマ宰相に詰められんのは毎度毎度しんどいわ!」

 一回り程度離れた肩書きのある男が口汚く顎をがしがし掻きながら言う様は戴けぬものだ。けれどラディエルは物言いではなく、内容に呆然として彼を見た。

「デレク大将、今、なんと?」

「かわいこちゃんと乳繰り合う?」

「その後です!」

「顔面凶器のクソアマ宰相?」

 まるで落雷のような衝撃がラディエルを襲う。

 ――女性!?

「あの、宰相閣下は、女性、で……?」

「んあ? お前知らんかったのか。でもまぁ知らんのも無理ないな。女らしい格好もせんしなぁアイツ。顔はあれだし」

 この顔では結婚する宛てもない、ならば職を奉じて自分の食い扶持を稼ぐ。そう宣言した様は有名で語り種になったのだとデレクは呵々大笑した。

(女性)

 女性。あの宰相閣下が、女性!

 その後すっかり上の空で仕事を終えたラディエルは屋敷に帰っても同様で、その有り様は数日続いた。祖父母が心配をしていたと思うけれど、それをどうやり過ごしたのかさえ覚えていない。仕事は多分、機械的にこなしたとは思う。

 ラディエルの胸中にあるのは唯一つ、女性であると知ったリシルファーノの事ばかりだった。

 結婚を望めぬと宣言し、天職に身を投じる女性。

 つまりそれは、リシルファーノが独り身の女性であって、そうであるからこそラディエルの目前に別の方向性から共に歩む道筋が与えられたという事なのだ。リシルファーノが女性で、ラディエルが男性であるという、その違いの為に。何より、ラディエルはその道筋の可能性を、今までになく大きな期待を持って見つめている。

(ああ、ああ)

 これがつまり、そういう事なのか!

 ラディエルはその想いを容易く己の言葉で表現する事が出来ない。けれどそれがひどく異質な執着で、甘く、また苦々しい想いである事はようよう理解した。昔母国で寄せられていたものであろうそれを、今この歳になって初めて体感しているのだ。

(面倒だ)

 面倒だが、幸せだ。狩人なんて言われる尻軽な輩の気持ちはわからないが、全くなんて甘美な地獄だろう。

 とにもかくにもそうして己の心を自覚したラディエルだったが、状況は好転する筈もなく平行線を辿っていた。何せ、重ね重ね確認するが宰相とは全く関わる事のない武官中佐なのである。

「やはり文官に転属するか、将軍職を戴けばよいだろうか……」

 予定通りに下った大佐昇進の書簡を戴きながら、ラディエルはデレクに仔細を告げずにそれとなく相談した。すると、彼からは「お前はやっぱり馬鹿だなー」と呆れを含んだ返しが飛ぶ。

「お前曲がり形にも王室関係者だろ。形振り構わんのだったら、そっちの伝手使うとかあんだろうが。お前の親父が使った手だろ」

「そうでした……!」

 馬鹿を見る目で見つめて来るデレクを無視し、ラディエルは隣国の父へ向けて手紙を認めた。曰く、「想う方が居るのだが家格が合わず、切欠もない。どうしたものでしょうか」と。

 勿論父はすぐに返答を寄越した。出来過ぎた息子にようやく頼られたのも嬉しかったのだろうし、そもそも彼自身も身分違いの恋を押し通して成立させた男だ。

『こういう時くらい任せなさい』

 そう自信満々に認められた手紙を受け取った後日、ラディエルは秘密裏にデレクと王の二人に呼び出された。

「此処にベシェリア王室からの書簡があるのだが……その、ラディエル、お前、リシルファーノに恋慕しているとは誠か」

「勿論です」

 これまた自信満々に答えるラディエルに相対する二人は青い顔を隠さない。

「そのリシルファーノとやらは、その、我々の知らないリシルファーノであろうか」

「何を仰る」

 ラディエルはきりりと眉山を上げ、高らかに宣言した。

「リシルファーノ宰相閣下に相違ありません!」

 王は思わず天を仰いだしデレクは両手で顔を覆って項垂れている。この状況を作った事を理解しているのだろう、「申し訳ございません申し訳ございません」などとぶつくさ指の隙間から漏れ出ているが、全く気にも留めずラディエルはデレクに告げた。

「デレク大将の助言に従ってようございました。父も斯様に応援してくださいますし!」

 とうとう死んだデレクを横に、王が顔色を青から白に変えて口を開いた。

「一回りも上の女傑だが、構わんのか」

「大変尊敬に値します。歳回りなど重ねてしまえば気にする事もございません」

 ――しかし、宰相閣下におかれましては、歳下の男は範疇外でありましょうか……!

 一人悩みどころの違うラディエルを二人はとうとう見放した。そもそも隣国王室から話が来た時点でどうしようもない事態なのである。既に国と国の話であり、二人が個人的に悩んだところで詮ない事だ。

 こうしてラディエルの思うまま見合いの席は整えられ、晴れの善き日に謁見室で二人は顔を合わせる事となった。常と変わらぬ官吏服のリシルファーノは、これまた常と変わらぬ堅い表情を崩さない。しかしそれが何よりよいのだ。ラディエルは高鳴る心臓と紅潮する頬を悟られぬように願う。

「宰相閣下、お越し戴きこの身に余る栄誉です」

 ラディエルは恋をしている。

「リシルファーノだ」

 この小さな形で凛と立つ女性に、心の底から、恋をしている。







 その一年後、伯爵位を退いた祖父に代わりラディエルが伯爵位を継承、ロワライナ伯爵となり妻帯した。勿論妻はリシルファーノその人である。

「ああシーファ! 私は世界一の幸せ者です!」

 公然とリシルファーノに寄り添う事が許され、ラディエルはまるで天国のような日々を過ごす。正式に夫となったラディエルはいつ何処で妻の小さな手を取ろうと失礼には当たらないし、何よりこの愛を向けるのになんの問題もない。

 初めて人に向ける感情はまるで止めどない湧水のようであり、昼夜なく愛を語るラディエルをリシルファーノは「まるで口枷のない犬か」と評していたが知らぬ事だ。ついでに問答無用とばかりにデレクを蹴り倒していたそうだがそれも知らぬ事だ。知っていたらきっと「ずるい! ひどい! 私をお蹴りください!」とリシルファーノにしがみついていたに違いないので誰も口にしない。リシルファーノは確かに怖かったがそれ以上にラディエルのアレっぷりが大分内外に知れ渡っていた為、誰も関わりたくなかったのである。

 とにもかくにも一人幸せな新婚生活を続けたラディエルは、リシルファーノが順調に長男ロシュルベルドを生み宰相として職場に戻ると同時、戴いていた少将の地位を辞した。一門に権力を集中させぬ為でもあり、宰相という天職を戴くリシルファーノの身を考えた結果、ラディエルが伯爵家の切り盛りを行う事にしたのである。

 幼い息子を養育しながら采配を振るうラディエルは、母国の家族にこう筆を認めた。

『ロシュルベルドが長じましたら、さっさと家督を譲って妻と一生くっ付いて離れません!』

 ベシェリア王家の家族は「リシルファーノ殿は嫌がるだろうなぁ……」と胃を押さえて苦悶の表情を浮かべたがどうする事もならなかった。家族でさえお手上げだった。

 そんなこんなで。

「シーファ、その、今晩は如何でしょうか……!」

「……」

「舐めるだけでも! いえ触るだけでも!」

「……」

「ああその厳しいお顔! とても素敵です!」

 ベッドの上、口元を引き結んで顔面歪める妻を目前に、ラディエルは枕をもみくちゃにしながら今日も一人幸せに生きているのである。

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