犬の皮を隠していた男・第1話

 ラディエルは武の誉れ高きベシェリア国第三王子の次男として此の世に生を受けた。正しく王家の一員として相応しく見事な赤毛を有した彼は、幼い頃からその才も高く周囲を嘆かせたものである。

 嘆かせたとは何故か? それは彼が生まれる以前より第二子は母方の隣国伯爵家を継がせると決まっていたからだ。彼の母は隣国の伯爵息女であり、一人娘。婿養子を貰って家を継ぐ筈の彼女を娶った第三王子が、彼女の両親とそう約定を取り交わしていたのである。

「長男が行けばよいのに」

 陰で囁かれているそれは、既に誰もが知るところだ。

 ラディエルの兄であるところの長男フェリニルは誠母に似て、赤毛で癖毛の兄弟の中でたった一人小麦色の真っすぐな髪を持っている。性質も母に似て穏やかで優しく、つまりベシェリア王家の中に在ってはまるで異端と言えた。

 フェリニルはラディエルが長じるにつれ濃くなる陰口の中に生きていて、いつも暗い顔をしていた。だが、ラディエルは兄が羨ましかった。彼は兄弟の中で一番父に愛されている。幾つになっても愛しいと公言して憚らぬ母に瓜二つの子供を、どうして愛せぬと言うのだろう。その様は歴然としていて、ラディエル他第二子以下はいつでもフェリニルを羨んでいた。

 一家の長に愛される、安穏とした未来を約束された凡庸なフェリニル。慣れぬ地で物馴れぬ家を継ぐ事を定められた非凡なラディエル。

 兄弟がラディエルに付くのは道理であり、フェリニルは兄弟の中に在っても孤独だった。その中で、けれどラディエルだけはフェリニルに優しく寄り添った。

「大丈夫。兄さんはどんと構えて私が発つ日を待てばいいのです」

「……そんなひどい事は僕には無理だよ」

 なよなよとした形にぴったりな憂い顔でフェリニルが言う。ラディエルは彼を羨ましく思っていたけれど、それだけだ。父に〈一番に〉愛されているというたったのそれだけが羨ましかったが、他にはどうと思った事もない。だからこそ、兄を慰めた。

(私は何処かおかしいのかも知れない)

 長じるにつれ、何にも心を動かされない己に気付き、ラディエルはそっとそんな事を思ったものだ。優美な笑顔の裏で、何にも関心なく彼は日々を過ごし続ける。身綺麗に努める為、周囲に倣っての仮初めの恋も高級娼館への足向けもせず、ラディエルは只管腕を磨いた。その様が益々彼の評判を上げ、またフェリニルの顔を曇らせる事に繋がっても。

 そうしてとうとう、ラディエル二十歳の年に隣国伯爵家へと向かう事が決まり、その前年は丸々各種手続きとお披露目とに追われる事になった。隣国の関係者を呼んでのパーティで顔を繋いで、王宮で王位継承権の返還手続きに署名する。そんな日々の最中、顔を合わせる友人達は軒並み残念そうにしていたし、女性らからの秋波は弥増した。

「ラディエル。お前ならきっと、あちらでいい女性と巡り会うだろうよ」

 そう言う友人に笑顔を返しながら、ラディエルは胸中それに疑問を呈する。

(本当に、そんな事があるだろうか)

 確かに己の両親は仲がよい。けれど、それをラディエルが継ぐ事は出来ないだろう。どうしたってラディエルは他人に興味を持つ事が出来ないのだから。

 ラディエルはこれから隣国の伯爵家に入りその家督を継ぎ、家格の合う女性と結婚して家を保つ。つまり祖父母のように声を荒げず醜聞に遠く佇み、静かに長く家を保ち続ける、たったのそれだけをすればよい。他には何も考えずともよいのだ。

 年が明け、ラディエルは多くの人々に見守られながら隣国へと向かった。馬車の外、フェリニルが常の憂い顔で見送っている。二十歳を過ぎて尚全く男らしさの増さぬ兄だったが、これで後継者として背を伸ばしてくれるだろう。己の顔が見えぬ方が、きっと彼の心中にはよい方に働く筈だ。

 ラディエルはそうして隣国の祖父母の元へ向かい、家督として正式に認められた。ラディエル・ディル・ベシェリア改め、ラディエル・ロワライナ。二十歳の頃の話である。







 隣国ヨーレティエルナでの暮らしは、しかしラディエルが想像していた慎ましやかなものではなかった。

 現ロワライナ伯爵家を支える祖父母は確かに慎ましやかである。彼らは驚く程に大人しく、醜聞からは掛け離れた暮らしを続けていた。二国間に置かれた家を確かに理解し、毒とならずに生きる事に執心していると言ってもいい。だが、それが呼吸をするように当然の事となり、彼らはなんの苦もなく暮らしていた。

 その中に身を落ち着けたラディエルは王城に出仕し、武官として働き出す。そうして粛々と武働きで国を支え、日々を静かに暮らす――訳にはどうにも行かなかった。

「……」

 鉄錆に満ちた槍を手にラディエルは溜息を吐く。この槍の鉄錆を落とせと正規兵に命じられ備品倉庫に押し込められたが、落とす為の器具もなくつまりは只の新兵いびりな訳だ。第一武器をこれだけ錆びるまで放置しておく事もあり得ないので、わざわざこの為に用意されたのだろう。御丁寧な事である。

 とはいえ、新人としては年嵩の部類と言えるラディエルは無闇矢鱈に騒ぎ立てる程の可愛げもなく、溜息を吐いて壁に身を預けている。

 この国はいい意味でも悪い意味でもなかなか自分に正直だ。寧ろロワライナ伯爵夫婦のような人種が世間にとっては少数派なのだろう。隣国王室出身のラディエルと知って尚これなのだから、いっそ天晴れとも言える。こんな目に遭うのは生まれてこの方初めてなので、対処の仕方に苦慮しているのが本音だけれど。

 ともかく、ラディエルは新兵として、甘んじてそれを受けた。母国ではすぐ様騎士団に配属される家格を有していたが、この国ではそうは行かない。飽くまで下級、平の平に所属し、日々を過ごすしかない。無骨な重い甲冑を身に纏い、ラディエルは仮初めの兵士として東へ西へと走り続けた。

 とはいえそれもそろそろ限界である。理不尽な仕打ちに甘んじる事半年ばかり、更にあと半年もこんな目に遭わねばならないのかとラディエルは半眼で溜息を吐いた。その肩に鞍を抱え、走って厩舎へ向かうところだ。いびりの一環だろう事は明白だったが、とにもかくにも一頭の軍馬を早急に用意せねばならない。

 厩舎から該当の軍馬を出してもらうと、担当官は厳しい顔をしてラディエルに手綱を寄越してくれた。

「こいつは気性が荒い。充分に注意するんだぞ」

「勿論」

「わかるならいい、連れて行くにはくれぐれも」

 どうにも担当官の口が止まらない。命を下してきた正規兵には時間を制限されている為、ラディエルは会話もそこそこ、馬の背に飛び乗った。「時間がないから馬に乗って戻って来い」と言われていたからだ。常であれば新兵は移動が制限されているので馬には乗れないが、その許可は事前に出ていたのである。

「おいこら!」

「すみません、時間がないので失礼します!」

 そう叫んで馬の腹を蹴るや否や、である。

「わ!」

 馬が勢い込んで首を振り回した。馬首に抱き着いたラディエルはなんとか振り落とされる事はなかったが、しかしそれだけ。馬は猛烈な勢いでがむしゃらに走り出し、どうにかこうにかラディエルを振り払おうとするではないか。

 ラディエルは必死にしがみついたものの、とうとう振り落とされて大地に転がった。とっさに受け身を取った上に落ちた先が柔らかな土であったから助かったが、突き出ていた石に眉尻を裂かれ、鮮血が流れ出す。

「――ッ!」

 目でなくてよかった。こんな事で失明なんて戴けない。

 振り回された為に目眩がひどく、その上に失血だ。ラディエルは頭を抱えて呻いた。此処が何処かもわからなかったが、馬は近くに居るようだ。興奮した嘶きが聞こえている。

 と。

 突如ラディエルの傍らに小さな足が見えた。全く気付かなかったそれに驚き、その動作に鋭い痛みが走り再度頭を抱える羽目になる。

「おい、馬から落ちたのか」

「……」

 言葉もなく、ラディエルは出来る限り頷いて見せた。

「では、暫し待て」

 小さくそう呟き、声の主は去って行く。踞ったまま、どのくらい待てばいいのだろうと頭の片隅で思い始めた頃、小さな足音が聞こえた。視界の片隅に先程見た靴が見える。あっと思った途端だった。

「!」

 傷口に、問答無用で濡れた布が押し当てられた。覚悟のない痛みは幾ら武官でも我慢出来ず、恥も外聞もなく背中が引き攣る。しかし相手は構わずぐりぐりと傷口を拭い続け、次いで乾いた布をぐるぐるに巻かれるまでに至り、ようやくラディエルは解放された。

(一体……)

 ともかくは何をおいても礼である。ラディエルは額に手を当てたままでゆっくりと顔を上げ、相手を見つめた。其処に居たのは背丈の随分低い人物だった。

「馬を引いて医師の元へ行け。乗ろうとはするなよ、お前新兵だろう? 此処の馬の気性の荒さを知らないで乗ってどうにかしようなどと、何も知らんまっさらな新兵以外居やぁせん」

(確かにそんな事は知らなかったけれど、そもそも乗るように命じられていたのだが……)

 ぐりぐりとブーツの踵で穴を掘り血の付いた土を埋めて行くその人はラディエルを見ない。思わず呆然と見つめていると、ようやくその小さな頭を上げてくれた。

「聞いていたか」

 小柄な形に合わず、随分と厳しい顔立ちをしている人だった。声もすっかり命令に慣れたそれで、ラディエルの背は自然と反る。

「は、はい!」

「では、さっさと立ち上がって行け。その布は返さんでいい。私は他人の使った物を使わない」

「あの!」

 足を翻す刹那にラディエルはその人を呼び止めた。礼の一つも、満足に言えていない。

 だが、相手は更に上を行った。

「礼をするつもりがあるなら使える官吏になれ。新兵の出来る事はそれだけだ」

 さっと裾を翻し、目の前にある建物へと彼の人は去って行く。全てをラディエルは呆然と見つめ続けた。目を見開いて、一挙手一投足を逃すまいとするように。

 ずっとずっと、見つめていた。髪の毛に等しい程、真っ赤な顔を晒したまま。

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