宰相閣下の犬

安芸ひさ乃

宰相閣下の犬・第1話

 リシルファーノ・エルディメルトが文官として出仕したのは、言わば生きる為の必然である。

 リシルファーノの両親は波打つような金髪に金目で見目麗しく、その外見に違わぬ程常に脳味噌がお花畑のような夫婦であったから、気が付けば多大な借金を背負ってエルディメルトの家名を貶めた。その上、そんな現状をまるで知らずお幸せなままぽっくりと揃って此の世を去った。巷を騒がせた新種の麻薬乱用事件、それの乱用者イコール被害者としてである。

 リシルファーノはそんな父母にまるで似ぬ、鬼子と囁かれて成長した。金髪金目の両親の子に在って、直毛の黒髪金目の子供とは如何なる事か。祖父母に遡れば純粋な金髪など希少であったから先祖返りや隔世遺伝と言えなくもなかったが、傍目から見れば亡母の浮気と見られても仕様もない有り様である。しかも両親の素行が甚だ悪かったものだから、それは殆ど正解であろうと周囲には認識されていた。

 とはいえ、リシルファーノはそのような些末には殆ど頓着しなかった。両親が実の父母であろうとなかろうと、リシルファーノには全く関係のない事だったのである。何せ両親はリシルファーノを生み落とした他は一切我が子に関わる事はなかった。リシルファーノを育てたのは年老いた乳母一人きりである。

 乳母は産婆も務めた為、リシルファーノが母の実子である事だけは確かに知っていたがそれだけだし、それ以上は関係なかった。乳母は唯一母の実家から連れて来られた女中であったので、確かに母の血が流れている子供で在るならば世話をするのに問題はなかったのである。故にそれ以上の事を知りもしない。

 リシルファーノは己の乳母が少々頭の足らぬ存在である事は認識していたが、特にそれを構う事はなかった。乳母は己の世話を任せるに難がなかった為である。この時リシルファーノは十歳、両親は夜会だパーティだと出ずっぱりで屋敷に戻る事も殆どなく、我が子がどのような成長を辿っているか欠片も興味がなかった。彼等は一時の享楽が全てという、本当に幸せな人種であったので。

 そうしてそんな恥の代表格のような両親が死んだ年、十三のリシルファーノは家屋敷の殆どと使用人、それにエルディメルトの家名を売却して莫大な借金を帳消しにした。家屋敷を売り払うだけでも醜聞であるのに家名を売り払うとは前代未聞、キィキィと騒ぐ羽虫にリシルファーノは淡々と答えたものである。

「あの腐れた両親が自由奔放に生きていただけで充分に家名は貶められている。地に落ちた家名がそれ以下に下がる事もあるまい。その家名を、大金を賭して買おうという者が在るだけ幸いであろうが、それもわからんか屑が」

 これだけでリシルファーノが如何な人間であるか、端的にもわかろう。

 平民となった只のリシルファーノは唯一残された小さな、本当に猫の額のような屋敷とも呼べぬ家をこれまた唯一残した乳母一人に任せ、王室の誇る国内最高教育機関にその身を投じた。リシルファーノは実に優秀で稀代の天才との誉れも高く、飛び級して三年で当時の宰相の務める文官宮へ迎え入れられ、その後四年で宮長となり、二十五の歳には宰相補佐へと昇進した。因みに同級は大概がようやっと主任補佐か士長、同年は大概平であるからして、リシルファーノの才が如何に突出しているか計れようものである。

 そうして、とうとうリシルファーノが新宰相に決まった際、王以下お歴々が集う内示の席で好々爺顔した当代宰相はそのたっぷりの髭を撫でながら口を開いた。

「リシルファーノ、御主は何故に文官になったのであったか」

「己の食い扶持を稼ぐ為に他なりません。私にはこの身の他の財産を持たぬからです」

 これにはリシルファーノの出自を知るお歴々がひっそりと目を見合わせる。

「私は生憎身体が小さく且つ弱く、武官には向きませぬ。しかし有難い事に親には似ず頭の回転は滅法早い。なればこの頭で一番に稼げる方法をと思いました」

「なれば市井でも構わなかったのではないか」

「私は、身体が弱いと申し上げました。市井では、自由にはなりますが公私の別がない。逆に、王宮では公職であるが故に時間も計るように定められております。きっちり線引きされた其処でなら、私の身体の不自由さもある種計れるというものであります。そして何より此処には王室付きの医師も常駐している」

 そう言い、リシルファーノは胸元を撫でる。リシルファーノは誠両親に似ず、固く賢く、そして病弱であったのだ。

「それに、言うまでもない事ではございましょうが、私に嫁に行けと言うも最も難しき事でありましょう。家名を持っていた昔ならばさておき、今や平民の身。それを除外してもこの顔の悪さと女らしからぬ短髪。誰が望むものでありましょうか」

 そう、リシルファーノは真実女であった。だが、言葉面は卑しくないが表情が戴けぬ。今にも人を殺しそうな目付きの悪さに歯を見せて歪む笑み、どれもが全く両親に似ぬ正しく鬼子の風体であった。母が卑しい男と通じたに違いないと囁かれる所以が、その表情にある。これでは女としての価値もない。

「いやはや、逆を言えばあれか、地位に興味はなく、正しく地位が己に付いて来たと」

「正しく。私は食えればよいのです。私一人身体の面倒が看れればそれで全く文句はございませぬ。それに次いで、汚らわしくない、整った環境さえあれば」

「はっはっはっ!」

 宰相は笑う、得たりと笑う。リシルファーノはこのくそジジイがリシルファーノの才覚以上に、正直過ぎる嫌いを好んでいる事を嫌という程知っていた。

「如何ですかな我が王よ。このリシルファーノは誠女らしき媚というものも、反して男らしい気概もない。只己が理路整然とした美しい床に、何の飢えもなく立って居られればよいのです。それは己の視界全てに及びます。己の視界で行われる不正を、不実を、リシルファーノは見逃さないでしょう。それはリシルファーノの正義感からではない。リシルファーノの利害の為です。リシルファーノは己のテリトリーを汚される事を由としない、それだけなのです。これ程左右されない番人が他にありましょうか」

「まぁ、居らぬなぁ」

「では採択を」

「満場一致で」

 この一連の出来事を知るのは、当時その密室たる現場に居合わせた一部の官僚のみである。

「リシルファーノ、御主も面倒な爺に巻き込まれたものよの」

 閉会時、王が軽々しくも口を開いた言葉に、リシルファーノは弓なりに唇を引いて頷いた。全く面倒な爺であったが、故にリシルファーノは今この地位に居るのだ。

「リシルファーノ、面倒が在れば言え。これから生涯をこの国に賭すであろう哀れな御主の為に、わしがいつでも力を添えてやろう」

 それは王の最大級の後ろ盾と言ってよい。リシルファーノはそれを恭しく戴き、しかしまるで時間が惜しいとばかりに颯爽とその場を後にした。

 リシルファーノ、三十三歳。最年少宰相の誕生である。







 そんなこんなで始まった宰相職も既に幾年か。ゆるゆると上層部が若返り行く中、リシルファーノは今日も怠惰な姿勢で煙管を弄っている。煙管といっても詰めているのは薬草の玉で、流れるのは清涼な香りばかりだ。リシルファーノは生まれ付き肺が悪い。

「宰相閣下、本日の業務は」

「既に終えている。それが明日の分だ」

「はっ」

「たまの休みだ、余計な呼び出しをしたら、原因如何に因っては潰すぞ」

「はっ!」

 かんかんと煙管を打って滓を携帯灰皿に投じると、リシルファーノは上着を着、部下の見送りを断って屋外へと出て行った。

 リシルファーノはだらけた業務体制が好きではない。だから、決まった時間内に仕事は終わらせるし、休みはきちんと取る。部下にもそれはきっちり履行させている。そうする事で無闇矢鱈な経費を削減する事にも繋がるからだ。第一金は欲しいが余分には要らない。既に宰相の身たるリシルファーノには充分な給与が出ていたし、他も官吏である時点で高給取りである。足らな過ぎる事と充足させ過ぎる事は時に腐敗に繋がる、それをリシルファーノは己の両親で以て知っていた。何事も程々が一番だ。

 数年前乳母を亡くしたリシルファーノは家を売り払い、王宮内の官舎で暮らしている。通常は外に大きな、肩書きに見合った邸宅を構えるものであるが、リシルファーノは乳母以外を自宅に入れるつもりなど微塵もなく、つまり警護に欠ける為官舎で落ち着く事となった。リシルファーノの官舎は非常に清潔である。本人の気質そのままに。

 リシルファーノはさくさくと無駄なく歩きながら裏庭を通過し、官舎に至る目前で足を止めた。

「……」

 目の前の道路で、武官らしき男が一人頭を抱えて唸っている。

「……」

 周囲を見渡せば、少し離れた所に軍馬が居た。少し興奮していると見え、どうにもこうにも上手く制御が出来ず落とされたのだろうと予想が付く。リシルファーノはお人好しではないが、仕方なく声を掛ける事にした。何せ切ったらしい額の辺りから、少量とはいえ血が流れ道路を汚していて不快であったので。

「おい、其処の」

 声を掛ける。が、どうにも耳にまで届かなかったらしく、男はぴくりとも動かない。リシルファーノは肺が悪い関係であまり大声を出す事がない。肺活量だって最低の最低だ。必要のない場面では、文章の読み上げなど補佐官に任せている程に声が出ない。

 仕様もなく、リシルファーノは男の隣にまで近付いた。途端、流石の相手も驚いて顔を上げる。が、途端襲い来たのであろう痛みに呻いて再度頭を抱えた。

「おい、馬から落ちたのか」

「……」

 言葉もなく、男は頷いた、ように見えた。

「では、暫し待て」

 言い差し置いてリシルファーノは官舎に入ると、乾いた布と濡らした布とをそれぞれ持って戻る。そして、踞ったままの男の額に濡れた布を問答無用で押し当てた。

「!」

 痛みに引き攣った男を無視し、リシルファーノはぐりぐりと傷口を拭った。ぱっくりと割れた傷口は、しかし然程深くも見えない。医師に見せれば軽い処置で終わるだろう。次いで乾いた布をぐるぐると巻いてやって、膝を就いていたリシルファーノは立ち上がり静かに言った。

「馬を引いて医師の元へ行け。乗ろうとはするなよ、お前新兵だろう? 此処の馬の気性の荒さを知らないで乗ってどうにかしようなどと、何も知らんまっさらな新兵以外居やぁせん」

 そうしてぐりぐりとブーツの踵で穴を掘り、其処に血の滴った土を埋めて行く。もう一度見遣ると、男は呆然と座り込んだままリシルファーノを見上げていた。

「聞いていたか」

「は、はい!」

「では、さっさと立ち上がって行け。その布は返さんでいい。私は他人の使った物を使わない」

「あの!」

「礼をするつもりがあるなら使える官吏になれ。新兵の出来る事はそれだけだ」

 さっと裾を翻し、リシルファーノはやっと官舎へとその身を滑らせた。ようやっと休日だ。




 この日の事を、リシルファーノは全く覚えていない。けれど一瞬だけ、ちらりと脳裏を掠めた事実がある。

 濡れた赤い髪が、まるで燃える炎のような男だな、と。

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