第11話
「──ミモレヴィーテ様、お待たせ致しました。朝食をお持ち致しましたので、お召し上がりくださいませ」
マルタがお料理や飲み物を載せたワゴンを押してくる。侯爵家では、家族揃っての食事は晩餐のみに限られていて、あとは自室に運ばれる食事を一人で頂いているのだが──今朝に限って、お料理やカップが多い事に私は首を傾げた。
「マルタ、いつもよりとても多いわ。今日は何かあったかしら?」
「ありましたとも! ミモレヴィーテ様が精霊様とご契約を結ばれたお祝いですわ。厨房の者に、精霊様の分もお願いしましたのよ」
頬を薔薇色にしているマルタは、まるで我がことのように喜んでくれているのが、はっきりと見てとれる。マルタの心遣いに、私も精霊達も自ずと笑顔になった。
「マルタ、本当にありがとう……こんなにたくさん、重かったでしょうに」
「私達からもお礼を言うわ、マルタ。ミモレヴィーテ様に良くしてくれて、ありがとう。私達の事も大事に思ってくれて嬉しいわ」
私の言葉に続けて、アイリーンが精霊達を代表して告げる。マルタは恐縮しながら「ミモレヴィーテ様は私の大切な主ですから当然ですわ、それに精霊様もミモレヴィーテ様の特別な方々ですのよ。これからは毎食ご用意致しましょうね」と、配膳しながらはにかんだ。
正直なところ、侯爵家で揃っての食事は今でも緊張するし、心が萎縮する。お母さんの為にも自分を叱咤して卑屈にならないように振る舞っているけれど、気を張りつめているので、せっかくの豪華なお料理も心から味わえた事は一度としてなかった。
その点、自室で頂く食事は気心の知れた精霊達と、あとは給仕してくれるマルタだけなので気軽だった。
今朝の朝食は、小麦の香りとバターの芳醇な風味がきいた香ばしく柔らかいパンに、ふわふわとしながらもとろみを残した焼き加減の玉子料理、お肉の旨味とスパイスが絶妙に調和した腸詰め、そしてカットされた色鮮やかなフルーツとお腹に優しそうなハーブティーだった。
精霊達と頂く食事は賑やかで楽しく、はしゃぐ精霊達の姿はお料理の美味しさを増して感じさせてくれた。私はありがたく味わいながら、お母さんもこんな風に食事を楽しめたら、どれだけ喜ばしいだろうと思わずにはいられなかった。母娘で暮らしていた頃、貧しい食卓でも二人で共にする喜びがあった。それを懐かしむ思いは捨てきれない。
「──ご馳走でした。マルタ、とても美味しかったです」
「それは大変ようございましたわ──ミモレヴィーテ様、ハーブティーのお代わりはいかがでしょうか?」
「嬉しいです、よければ頂くわ」
「かしこまりました、精霊様の分も淹れましょうね」
穏やかな時間。──しかしこの時、お屋敷では私が精霊達と契約を結んだ事が、電光石火の如く伝わり知れ渡っていた。もちろん、お父様やガネーシャ様とブリジット様にも真っ先に伝えられた。
その為、一人で頂けるはずの昼餐は急遽、食堂で一家揃って頂く事になった。お父様はお喜びの事だろうと予測がつくけれど、ガネーシャ様とブリジット様がどう思われておいでかは不明で、お二人から何を言われるか不安になった。
だが、家長であるお父様は絶対的な存在だった。お二人とも、お父様が私を祝うべき場では嫌味の一つさえ口に出来ない雰囲気を感じ取られておいでだった。貴族然として、表向きだけだとしても、ゆったりと構えて私を祝福した。
「ミモレヴィーテ、お前が精霊達と確かな契約を結んだ事は喜ぶべき事だ。髪と爪、それぞれ一部の色が変わっているが、それは契約によるものなのか?」
「はい、お父様。下級精霊ならば髪の毛の色が、中級精霊ならば爪の色が精霊さんと交わされます。昨夜、全ての属性の精霊さん達と契約致しました」
「なるほど、確かなようだな。これ程までに潜在能力があったとは、私としても誠に嬉しく思う。──この事は、さっそく陛下にも奏上させて頂こう」
「──まあ、ミモレヴィーテお姉様。とても光栄な事ですわね。今や我が家の誇りでさえありますわ、何しろ全ての属性の精霊と契約出来る方というものは数十年に一人現れるかどうか……本当に存在そのものが奇跡ですもの」
「本当にガネーシャの言う通りだな、ミモレヴィーテは偉業を成し遂げた事を広く祝福されるべきだろう。──これからの未来の為にも」
ブリジット様のお言葉に、全ては理解しかねたものの、お父様は鷹揚に頷き「そうだな。──ミモレヴィーテはミステラ夫人からカーテシーをしっかり教わり、習得しておきなさい」と私に命じた。カーテシーは高貴な方へのお辞儀で、膝を折り足を後ろに下げる所作が難しく、私がいまだに苦戦している作法だった。
「ミモレヴィーテ……私には祈る事しか出来ないけれど……あなたの未来に幸ある事を常に願っているわ」
お父様からの言葉に、なぜカーテシーの会得を急がせるのかと不穏な何かを感じて曇りかけた心が、お母さんからの控えめながらも真心が籠った言葉で励まされる。私はこのお屋敷で独りではない。お母さんがいてくれるし、精霊達もいてくれる。マルタのように親身になって接してくれる存在もいる。
「──はい、お父様、お母様。お言葉を胸に刻みます。精一杯励みます」
「よろしい。──さ、食事を続けなさい。せっかく用意させた祝いの料理が冷めてしまう」
「はい、お父様。ありがとうございます」
お父様の言葉に従って、皆がカトラリーを手にして優雅に食事を再開する。執事によって磨き抜かれた銀食器は昼餐の場で輝き、鋭い光を放っていた。
──その後、厳しくなるであろう礼儀作法の勉強について自室に戻ってから溜め息を一つつくと、アースリーが私に話しかけてきた。
「ミモレヴィーテ様、少しだけ屋敷を抜け出しませんか?──今日は街でお祭りがあるのです」
「お祭り?……それは行ってみたいわ、下町では体験した事がないもの。でも、お屋敷からどうやって抜け出せるの? お屋敷に勤める人がどこにでもいるわ、すぐに見つかってしまうのではないかしら」
抜け出してお祭りを楽しめた後のお叱りならば我慢のしようもあるが、途中で見つかってお祭りも見られずに叱責だけ受けるのは、今の私には耐えがたい。
それを知ってか、ハディが得意げに囁きかけてきた。
「私が闇の通路を開きます。──そこを通り抜ければ、すぐに街の中ですよ」
「通路の中は怖くないように私が照らしましょう。大丈夫ですよ、ミモレヴィーテ様」
アイリーンも加勢して勧めてくれる。他の精霊達も異論はないようだった。口々に「ミモレヴィーテ様は今までお勉強を頑張ってこられたではないですか。息抜きもしなければ」と後押しした。
今、ここにはマルタもいない。私と精霊達だけだ。抜け出すには絶好の機会だろう。このお屋敷に引き取られてからというもの、ずっとお屋敷から出る事は許されずに──豊かでも息の詰まる日々を送っていた。何かを無邪気に楽しみたい気持ちがまさって、私は精霊達に向かって頷いていた。
「──そうね、皆でお祭りを見たいわ。ハディにアイリーン、お願い出来るかしら」
「お任せください、ミモレヴィーテ様」
言うなり、ハディが部屋の姿見に手をかざす。すると、部屋を映していた姿見が真っ黒に変わり、驚く間もなく、得たりや応とアイリーンがそれを柔らかな白い世界に変えた。
なるほど、確かにこれならば怖くない。どきどきするけれど、期待に胸を高鳴らせて、促されるままにそっと姿見へと歩み寄り──私の身体は何の抵抗も受けずに白い世界に入る事が出来た。
辺りを見回しながら数秒ほど歩く。たったそれだけで、いきなり視界ががらりと変貌して、土の小道が伸びた景色に飛び出した。耳には少しだけ離れた所から楽しそうな明るい音楽が聞こえてくる。どうやら、街の公園に出たらしいと気づいた。道はこれまで多くの人が歩いたのか固く踏みしめられていて歩きやすそうだし、両脇の木立は手入れが行き届いている。
「わあ……本当に外の空気だわ」
精霊の力の凄さを改めて実感しつつ、木立の濃厚な緑の匂いに触れて思わず深呼吸する。こんなに新鮮な空気を吸うのは久しぶりで、お屋敷にも立派なお庭はあるものの、自由な空間という滋養は今だからこそ味わえる特級の美味だった。
「ミモレヴィーテ様、人の集まる場所に突然現れるわけにはいきませんので、公園に出るように致しましたが、少し散策なさいますか?」
ハディが、心地よく感じている私の気持ちを汲んで問いかけてくる。私はほんのりと微笑んで「そうね、皆で少し歩きましょう」と頷いた。
今はお屋敷を抜け出した後ろめたさなど考えるだけ無駄だ。せっかくのひと時なのだから、思う存分に享受しようと心に決める。
「そうですね、ゆっくり歩いて──それからお祭りに向かいましょう、ミモレヴィーテ様」
「ええ、皆。ありがとうね」
ハディの言葉に答えて、付き添ってくれている皆を労う。フィアが「私達は他の人間に見られないように姿を消しておきますが、必ずお傍におりますので、ご安心ください」と言ってから、精霊達は気配だけを残して姿は見えないように変わった。
それでも気配は確かに感じるので心強い。私は清々しい気持ちで歩き始めた。身に受けるそよ風さえも新鮮で、その爽やかさが優しくて気持ちいい。
しばしの間、精霊達皆と心を通わせて散歩を楽しみ、そろそろ街の中心部で行なわれているお祭りに向かおうかと思った、──その時だった。
「──何をする! やめろ、離せ!」
少年らしき人の悲鳴が、空気を裂いて鼓膜に響いてきた。まだ声変わりしたばかりと思われる、私とそう年齢の変わらない少年の声。
「怪我したくなきゃ、おとなしくしときな。坊ちゃん」
「何も生命まで奪おうってんじゃねえよ。──良いもん着けてんじゃねえか、貰っとくよ」
「やめろ!──返せ、それは大事な物なんだ!」
抗う少年の叫びに、大人の男性の濁み声が複数人分混ざっている。私は突然の恐怖に足をすくませて──でも、襲われているのなら助けたいと思った。それほど、聞こえてきたのは切羽詰まった悲痛な叫び声だったのだ。
「ミモレヴィーテ様、ここは私とフレアが」
アースリーが耳打ちする。どう力を使って助けるのかと訊ねる間もなく、「フレア、風で目くらましを。私は木立の根を伸ばして奴らを縛り上げる!」と力技に出た。
「──うわっ、なんだよ?!」
「ぐがっ!……くるし、息……」
突風が吹き荒れて砂埃を伴いながら、これと見定めた相手に迷わず飛んでゆく。同時に、めりめりと小道が裂けて、太い根が縄のように標的へと向かい伸びる。呼吸一つの時間もかけずに、伸びた根は木立の中にいたと見られる男達を縛り、締めつけて制圧していた。
「ありがとう、フレアにアースリー!──そこのあなた、大丈夫?!」
そこで、ようやく精霊達に「ミモレヴィーテ様、もう行って差し上げて大丈夫です」と言われて駆け寄ると、自然界からの鉄槌を受けた男達を目の前に、だいぶ衝撃を受けた様子の少年が呆然と立ち尽くしていた。少年の足許には、根に身体を締めあげられて、ぴくりとも動かない男達が転がっている。
「……あ……こいつら……死んで……?」
少年が目を見はったまま呟く。アースリーが「軽く気絶させただけに留めてあります」と教えてくれたので、私もほっとして改めて少年に向き合った。
「彼らは気を失っているだけです。……それより、怪我はしてませんか? あと、盗られた物とか……」
「──あっ……あれを、」
少年は我に返って、一人の男の元にしゃがみ、緩んだ手から何かを取り返した。きらりと金色に輝く物の一部が見えて、少年の手のひらに収まる。少年がそれを検分するように見つめてから、ほっと息をついた事で無事だったと分かった。目立った怪我も見あたらない。
こうして見ると、少年は服装こそ地味に見せてはいるけれど、使われている生地はかなり良質な物だと、侯爵家で高価な装いを見てきたお蔭でひと目で分かる。羽織っているマントの仕立ても細やかな仕事がなされている。少年自身も涼やかな容貌をしているし、手は労働者のそれではない。艶やかな黒髪も手入れが良いし、良家の令息だろうと推察出来た。
そんな事を考えていると、少年は訝しそうに私を見つめた。
「君は……暴漢どもを仕留めたのは……君の仕業なのか?」
「え、あの……」
迂闊に精霊の存在は口に出来ない。私は少しだけ口ごもってから、咄嗟に「神様がお怒りになられたんですよ、こんな楽しむべきお祭りの日に子供を襲うなんて」と嘘をついてとぼけた。
「僕としては、こんなのを見て落ち着いていられる君が不思議なんだけれど……でも、僕は救われた」
手のひらの物を大切そうに握りしめ、少年の呟きが穏やかになってゆく。長い睫毛の奥の瞳が綺麗な緑色をしていて、木立の緑よりも美しく見えてしまい、どきりとして、私は自分のその反応をおかしいと思って狼狽えた。
「ありがとう。君の名前は……」
「……あの、──名乗る程の者ではありません。あなたと、あなたの大事な何かが無事で良かったです。──じゃあ、私はお祭りに行くので、あなたも早くここを離れてくださいね」
男達が目を覚ます前に離れなければ、助けたのも意味が無くなる。私も早く立ち去らなければ、少年が私の力についてまた何か訊いてきた時に対応しきれないかもしれない。
身を翻して、──それを別れとしようとした時──少年が慌てた声音で「待って!」と言って私の腕を掴んだ。
びくりとすると、少年は更に慌てて手を離して、それから少しだけ気まずそうに、でも、どこか熱っぽく「一緒に行ってもいいですか?──お祭り」と懇願するように掠れた声を出したのだった……。
……いけない。断らなくては。深入りしては、いけない。精霊達との繋がりを人に知られる事が広まってはならない。
それは、下町に生きていた頃の呪縛だった。
誘いを断る言葉をいくつも探して、声に出来なくて、そんな自分が自分でも分からなくて、ただ困って少年を見つめた。
「──お礼をさせて欲しいんだ。屋台の物とか、君が欲しい物を見て回らないか?──駄目かな?」
──この少年に、他意はない。
向けられた眼差しが、侯爵家の家族からのものに細かな傷をつけられ続けてきていた自分には純粋なまばゆさで、私は流されるように「……分かりました」と口にしていた──。
「ありがとう、……僕の事はショーターって呼んで。君は?」
少年がはにかみながら名乗る。
「……ミモレ……あの、ミモレと呼んでください」
「分かった。──ミモレお嬢様、僕にお祭りをエスコートさせてください」
少年──ショーターがうやうやしく手を胸にあてて一礼する。
それが、ひとつの出逢いだった。
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