第7話

「──はい、よろしいですわ。テーブルマナーもきちんとマスターなさいましたね」


「ありがとうございます!」


ガラント侯爵家に迎えられて、まず付けられた指南役のミステラ夫人から頷かれて、私は声を弾ませた。貴族社会のルールやマナー、教養をミステラ夫人は事細かに教えて下さった。


「下町訛りも元より耳障りな程ではございませんでしたし、きっとお母様がミモレヴィーテお嬢様を大切にお育てになられたのでしょう。明日からは刺繍をお教え致しましょうね」


「はい、よろしくお願い致します」


お母さんの事を褒められるのは、自分の努力を褒められるより嬉しい。侯爵様との結婚がお母さんにとって幸せか、それが分からないからなおさらだ。


「──ミモレヴィーテお嬢様、お勉強はお済みでしょうか?」


ドアをノックする音が軽く響き、ビオラの声が聞こえる。私は「はい、大丈夫です」とミステラ夫人が許可の目配せをして下さったのを見てから返事をした。静かにドアが開き、ビオラが深々とお辞儀をする。普段はマルタが傍に付いていてくれるので、ビオラが訪れることは珍しい。


「ミモレヴィーテお嬢様、今宵の晩餐は御一家揃って食堂にてお召し上がりになられますよう、侯爵様よりお言葉がございました」


「侯爵様……お父様が?」


父を知らない平民だった私には、まだ言い慣れない呼び方だけれど、お父様と呼ぶように侯爵様から言われている。いずれは慣れるのだろうか。


それよりも、お屋敷に迎えられてからずっと、食事は与えられた部屋へと運ばれてきてマルタの世話を受けながら一人で頂いていた。それも仕方のない事で、貴族のテーブルマナーも知らないうちから侯爵家の方々とご一緒しても恥ずかしい思いをするのは私のみならず、私を育ててくれたお母さんもなのだ。侯爵家の皆様を不快にさせるおそれもあり、私はその処遇を受け容れていた。ご一緒するのは緊張してしまいそうで怖かったというのもある。


それが、お母さんの結婚から一か月経とうとしている今許された。新しい家族──義理の兄妹となった方々も含めて、疎遠というべきか滅多に顔を合わせた事もない。私がまず教わるべき事が多くて関わるいとまもなかったせいもあるものの、兄妹のお二人が私の部屋を訪れて来て下さった事は一度もなかった。


「ミモレヴィーテお嬢様、ちょうどよろしいですわ。学んだ事を皆様にご覧頂く良い機会です」


「はい……ですが、不安です」


「ミモレヴィーテお嬢様は熱心に学ばれましたわ。あとは実践あるのみです。大丈夫ですよ、経験を重ねれば気後れなさる事もなくなりますわ」


「……はい、頑張ります」


ミステラ夫人の後押しに、私はお母さんに恥をかかせないように頑張ろうと心に決めた。


──でも、問題はテーブルマナーだけではなかった。


晩餐の時を迎えて食堂に向かうと、既に他の皆様はお揃いで席に着かれていた。私は「お待たせしてしまい申し訳ございません」と頭を下げて謝罪してから着席する。すぐにスープが運ばれてきた。緊張に胸が詰まり、なかなか喉を通らないスープを出来るだけ品良く口にする。すると、お父様が私にお声をかけてきた。


「ミモレヴィーテ、今日は精霊と何か話したか?」


「……え……あ、はい。お庭の薔薇が美しく咲いているので明日は皆で見に行きましょう、と」


「……そうか」


途端にお父様が気難しげな表情になる。そして、隣から控えめな笑いが聞こえてきた。ガネーシャ様だった。


「まあ、精霊様といえば世界の繁栄を守る崇高な存在かとばかり思っておりましたのに、随分と他愛ない無邪気なお話しをなさるのですね。──それとも、ミモレヴィーテお姉様の心のありように合わせていらっしゃるのかしら?」


それは、明らかな皮肉であり嘲笑だった。私が咄嗟に何も言えず言葉を失うと、今度は引き継ぐようにブリジット様が呆れたと言わんばかりの物言いをしてきた。


「まったくだな、精霊とは世界を守り国を栄えさせるものだろう。それが庭の花を皆で楽しもう、か。頑是ない幼子を相手にままごとをしているようだ。精霊は子守りをする為に寄り付いているようだ」


「……っ」


お父様がお二人を諌めないのは、それに同感しているからだろう。私にとって精霊とは友達──とても近しい親しみある存在だった。しかし、貴族が求める精霊の働きは私の思いとはかけ離れているらしい。恥ずかしさと蔑まれた事実に、感情が熱い濁流となって私は顔が赤くなるのを頬の熱で感じた。お母さんに助けを求めたかったが、侯爵家に入れられたお母さんは町で働いていた頃のような気概が失われてしまっていて、黙って俯いている。お父様の妻としての立場、その重みもあるかもしれない。お父様ご本人こそ、お母さんを恭しく扱っているけれど、私という子供を連れた後妻──その立場は中途半端なもので、居心地いいものではないのは私も薄々感じ取っていた。


言い返す事など到底出来ずに唇を噛みしめていると、地の精霊がやって来て耳許で「今年のこの国の麦はたくさん収穫できると言って」と囁いた。次いで、光の精霊が現れて「けれどね、ミモレヴィーテ。今年の冬は家畜の病気が流行るのよ。今のうちに干し肉を作れるだけ作るべきだとも話してやりなさい」と憤慨した様子で告げた。


──そうだ、精霊達はいつだって私に寄り添い私を思いやってくれてきたのだ。だからこそお庭の薔薇を見ようとも話してくれたに違いない。ここのところ学ぶ事が多くて休む時間もろくになかったのだから。それを誤解だからといっても誹謗されるのは間違っている。私は勇気を振り絞って口を開いた。


「お父様、精霊さんが今年は国で麦が豊作になると言っています。それから、冬には家畜の病気が流行るので、今から干し肉を作れるだけ作るべきだとも教えてくれました」


「──それは本当か?」


「はい、今私の元に地の精霊さんと光の精霊さんが現れました」


すると、お父様はにわかに満足そうな顔になった。対照的にガネーシャ様とブリジット様は鼻白んだ面持ちになる。


「よろしい、国政の場で精霊の愛し子がお告げを受けたと話してみよう。ミモレヴィーテ、これからも積極的に精霊から話を聞くようにしなさい。甘えるばかりでは駄目だ、精霊と通じる力は国を支えると弁える事だ」


「……はい、お父様」


甘え──正直を言えば納得は出来ていない。けれど、私と精霊達との繋がりが大勢の他者を幸せにするならば、と思えば反駁する気にもならない。ただ、精霊達との向き合い方を変えてしまうのは培ってきた絆を壊すようで嫌だし怖いとも思う。


とはいえ、そこは上手く精霊達と示し合わせて、やっていくしかない。この侯爵家に迎え入れられた時点で、私はもう元の暮らしには引き返せないのだから。


「──それから、ガネーシャ。これからは茶会を開く時にはミモレヴィーテも誘ってやりなさい。デビュタントまでにはまだ三年以上あるが、今から少しずつ社交の場に慣れて交友関係も広げておかなければな」


「……はい、お父様。分かりましたわ。ですけれどミモレヴィーテお姉様は出自もお育ちも私とは違いますので、お姉様が影で何を言われるか心配ですのよ?」


これは気遣うふりをした嫌味だ。分かっていても事実なのだから怒る資格は私にはない。どろりと沈む気持ちは、やり過ごすしかないのだ。


「かと言って、ミモレヴィーテは他でもない精霊の愛し子だ。それを知らしめる必要はあるだろう。そこはガネーシャが上手く取り計らいなさい」


「……はい……」


視界の端に、僅かな悔しさを顔に出したガネーシャ様が映った。けれどもお父様は素知らぬ顔だ。


「ミモレヴィーテ、人前に出るためのドレスを揃えなさい。我が家が懇意にしているデザイナーが構えている店には伝えておこう」


「ありがとうございます、お父様」


出来る限りおっとりと淑やかに返事をして、供されてゆくお料理を頂く。しかし味わうどころではなく、まるで美味しさは感じなかった。これなら私室で一人頂く食事の方が遥かに美味しい。ブリジット様も妹がやり込められたせいか苦々しい表情で、つまらなさそうに黙々とお料理を口に運ぶだけになっていた。


──私が初めて体験した侯爵家の皆様とのお食事は、こうして居心地悪く終わった。その後は毎晩、晩餐の度に緊張を強いられる事となる。努力して覚えたテーブルマナーや、頑張って直した下町訛りのない発音を褒めてくれる人は──気づいてくれる人は、誰もいなかった。テーブルマナーがちゃんとしているのも、下町訛りが無いのも、当たり前だと。


それから二日後、私は多くのドレスを買って頂く事になる。クローゼットは華やかに埋まり、あまりの贅沢に恐ろしささえ感じた。


ガネーシャ様のお茶会にお呼ばれするのは、更にそのしばらく後になる。私はミステラ夫人から学べるだけの事をひたすら学び続けていた。私室でのティータイムで精霊達とお茶やお菓子を味わって過ごすのを唯一の憩いとしながら。


──まだ、私は本当には何も知らない。自発的な人生というものを。それを私の中に生まれさせる出逢いは、まだ訪れていなかった。

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