第8話
……幼い頃、一度だけお母さんが話してくれた。
人生には、自分が確かに一人の生身の人間として生きていると味わえる出逢いが必ずあると。
それが幸か不幸かは分からない。でも、生きている悲しみも喜びも確かに実感出来る出逢い。
お母さんは何と出逢い、それを知り人生を変えたのか?
私には、まだ分からない。流されるがままに毎日をこなして、今の自分に出来うる許された事をするのみだった。
「──お父様、今宵はお酒が随分と進みますのね。少々お召し上がりになりすぎではないですか?」
晩餐の時、ガネーシャ様が気遣わしげに口を開いた。お父様は既にワインのボトルを一本空けてしまっておいでだった。
けれど、お父様は珍しく上機嫌に快活な笑みをたたえた。
「なに、祝いの盃だ。今日は大変喜ばしい事が分かったからな。お前達にも話しておかねばなるまい──サリエルが私との子を妊娠したのだ」
私のみならず、ガネーシャ様もブリジット様も咄嗟に言葉が出なかった。カトラリーを扱う手が止まり、お父様とお母さんを交互に見つめて──三者三様に信じられないといった思いを瞳に浮かべる。
最初に気を取り直したのはガネーシャ様だった。
「まあ、それは本当に喜ばしい事ですわね。お父様、……お母様、おめでとうございます。お祝いを考えなければなりませんわ」
次いで、ブリジット様がことさらに朗らかな声を発する。
「まさか、この歳になって弟か妹を迎えられるとは思っていませんでした。本当におめでたく、今から生まれてくるのが楽しみですね。父上、誠におめでとうございます」
いっそ白々しいほどに、二人とも貴族然として新たな家族を祝福する。ブリジット様がこちらを見やって「ミモレヴィーテも嬉しいだろう、お二人の間の子はお前にとって本当の家族としての架け橋になる」と声をかけてきた。声音こそ明るいものの、言葉の端々に棘が隠されているのに気づかないほど、私も無邪気ではなくなっていた。それでも笑顔を取り繕い、鷹揚に従順に頷いてみせる。
「はい、本当に驚きましたけれど……お父様、お母様、おめでとうございます。生まれてくる赤ちゃんの為にも、お母様はお身体をお大事にしてくださいね。でも、お父様がお母様をとても大切にして下さっておいでですので、きっと大丈夫と信じております」
子供達の祝いの言葉を満足げに聞いていたお父様は、私の言葉が何よりお気に召したらしい。相好を崩して頷き、グラスのワインを飲み干した。対してお母さんは貞淑な妻といった風情で慎ましやかに口を閉ざしている。私には、それが気になった。
お父様がお母さんと結婚して、お母さんはややあって居室を別棟のお部屋から、お父様と同じお部屋に移された。それが何を意味するのかは漠然と理解しているつもりだったが、こうしてお母さんの妊娠を知らされると、その生々しさに衝撃を受ける。でも、それをあらわにする事は決して許されないのだ。
まるでお父様に飼われている愛玩動物だ。お母さんも、私も。従順でさえいれば安寧を与えられる。しかし逆らえば……。その先は怖くて考えられない。
町で平民として暮らしていた頃は貧しくても自由があった。心は何にも縛られていなかった。働くことさえ、それは励める自由だったと今ならば分かる。
……嘆いても仕方ない。
お父様はお酒に頬を赤らめながら、ガネーシャ様に向かって「そういえば、明後日には茶会を催すのだったな。その場にはミモレヴィーテも参加させなさい」と告げた。食事を再開しようとしていたガネーシャ様の手が止まる。
「……はい、お父様。ミモレヴィーテお姉様もよろしくて?」
ガネーシャ様は交友関係が広く、お茶会はよく開催したり招待されたりしている。しかし、私がそこに参加する事をガネーシャ様が認められたのは初めてだった。お父様は以前お茶会に私も参加させるようにと仰せだったが、毎回何らかの理由をつけて私を遠ざけていたのだ。それを今回になって許したのは、お父様の今の機嫌を損ねたくないからだろう。
「はい、ガネーシャ様。粗相がないか心配ですが、喜んで参加させて頂きます」
「……お姉様なら大丈夫ですわ、マナーについて熱心に学ばれていると聞きましたもの。ミモレヴィーテお姉様には初めてのお茶会、素晴らしいひと時になりますわ」
もちろん、ガネーシャ様の言葉を額面通りに受け取るつもりはない。私は初々しさを表に出して「ガネーシャ様のお優しいお言葉に励まされる思いです。ガネーシャ様はお心が広くていらして、こうしてご縁があって本当に良かったと思います」と返してから、お父様に向かって「お父様、お母様が悪阻で顔色がすぐれないのが心配なのです。お食事の途中で退席するご無礼をお許し頂き、お母様にお部屋まで付き添いたいのですけれど、よろしいでしょうか?」と伺った。実際、お母さんは口許に手をあてて具合が悪そうだった。こんな空気に晒していたくない。
「ああ、よかろう。ミモレヴィーテにはかけがえのない母親だからな。私が部屋に戻るまで傍にいてやりなさい」
「ありがとうございます、お父様。──お母様、立てますか?
私がお支えします」
席を立ってお母さんのもとへ向かい、手を差し出す。お母さんは僅かに、ほっとしたような表情を浮かべた。支える為、身体に触れると、少し痩せたような気がする。私のお母さんを奪っておきながら、その変化に頓着しないお父様に腹立たしさをおぼえた。
「……では、失礼致します。皆様、お食事をお続けくださいませ」
お辞儀をしてお母さんの肩を抱き包みながら食堂をあとにする。お母さんがお父様と共にすごすお部屋に入るのは気が引けるというか、何とはなしに嫌な気持ちもあるけれど、それよりも今はお母さんと一緒にいたかった。二人で、誰にも邪魔されずに。
お母さんの歩調に合わせて歩き、お部屋に入る。そのお部屋は、とても広くて贅の凝らし方が半端ではなかった。煌めくシャンデリアに木目の整った美しい家具、四人は横になれそうな広々としたベッドは掛布もシーツも高級感が溢れている。別棟に与えられた私のお部屋も下町で暮らしていた家より遥かに贅沢だけれど、侯爵家の主のお部屋ともなれば扱われ方は格別なのだろう。埃一つなく掃除の行き届いたお部屋は磨き抜かれていて、これでお母さんがお父様に立場を縛られていなければ私は素直に喜べていたはずだ。
ともあれ、お父様が食事を終えるまでは二人の自由時間だ。私はお母さんをベッドに横たわらせて傍らに椅子を引き寄せて座った。
「お母さん……大丈夫?」
様々な意味を籠めて言った言葉は、果たしてお母さんに正しく伝わっていた。お母さんはうっすらと微笑み、私の手を優しく撫でてから握ってくれた。
「お母さんは大丈夫よ……分かっていたの、あの日々がずっとは続かない事も。……侯爵様のお心もアムースにいた頃から気づいてはいたわ。侯爵様は家同士の許嫁とご結婚されていらしたけれど……それに、家格が違うもの。周りが侯爵様を止めて下さると思っていたのよ……甘かったわね」
「お母さん……侯爵様の事は、その頃どう思っていたの?」
結婚してしまった今、後戻りは出来ないのだから、それを聞いてはいけない。失言だと口にしてから悟ったものの、お母さんは私を責めなかった。
「……私にはね、既に愛するお方がいたから。応える事など考えた事もなかったわ」
「……」
それは、婚約していたディマルテ男爵の令息の事だろうか?
分からない。ただ、これ以上踏み込んではいけないと心が警鐘を鳴らしている。私は押し黙り、私の手を握ってくれているお母さんの手をもう片方の手で包みさすった。
「お母さん……私が精霊さんに助けてもらったせいで……ごめんなさい」
「何を言うの、ミモレ。あなたは私の命を救ってくれたのよ。あなたが精霊様の力を借りたのは、私を慕ってくれているからこそでしょう。感謝こそすれ、恨む事などかけらもないわ。……だから、自分を責めないでちょうだい。あなたは何も悪くないの。過ちなどないのよ。……私が運命から逃れられなかったのは、それは私の……」
「お母さん、もう話さないで。顔色が悪いから……侯爵様が戻るまで、こうしているから休んで」
「……ありがとうね、ミモレ」
お母さんは息をついてから目を閉じて、けれど存在を確かめるように私の手は離さなかった。そうしてつかの間、久方ぶりに母娘として寄り添っていた。
──翌日、お茶会に着ていくドレスをマルタに手伝ってもらって選んだ。
淡くて優しい若草色の生地に合わせるのはウエストから裾まで続く純白の三段レース。髪型は緩く編み込んで、控えめな真珠の髪飾りをあしらう事にした。
「ミモレヴィーテお嬢様、リボンは何色に致しましょう?」
「そうですね、何色が良いか……淡い若草色に少し黄色みを加えたようなリボンはありますか?」
「素敵ですわね、ございますよ」
「出来るだけ清楚にまとめたいですね。編み込みに使うリボンはそれで、真珠は小粒のものをサイドにお願い出来ますか?」
「はい、かしこまりましたわ。ガネーシャお嬢様にも引けを取らない令嬢に仕上がりそうですね」
「ガネーシャ様については、構わないのだけれど……他の皆様から笑われないようにはしたいですね」
「大丈夫ですとも、お嬢様は何しろ妖精の愛し子なのですから」
「もう……」
マルタと話すのは気晴らしになる。朗らかなマルタの性格のお蔭だろう。二人で、ああでもないこうでもない、これがいい、これはどうだろうと話し合っていると、あっという間に時間が経った。
──楽しいと思えるのは、この時だけだった。翌日、私は、ぼんやりとそれを思い返す事になる。しかし、その追想さえものんびりとはしていられないのだ。
「ミモレヴィーテお嬢様、何やら風が強くなってまいりましたね」
「そうですね……」
嵐が待ち受けている。風は破壊か、雨は恵みか。私は向かい風に立たされ、追い風に突かれ、うずくまる事も許されない。
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