第16話

「ミモレヴィーテ様、お身体が傾いていますわ、もう一度やり直してください」


「は、はい……」


カーテシーは、目上の相手に対して行なうお辞儀で、片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、何より背筋は伸ばしたまま挨拶をするのが身体のバランスを取りにくい。 両手でスカートの裾を軽くつまんで持ち上げながらともなると、履き慣れないヒールのある靴では重心が傾いてしまう。


それでも言われた通りに何とかこなそうとすると、今度はミステラ夫人が「先ほどよりはよろしくなりましたし、ういういしいと思えば愛らしいですけれど、表情が必死すぎて固いですわ。もっと堂々と柔らかく」と注意してきた。


「はい……」


明日は国王陛下に謁見する。残された時間は僅かだ。これを会得しなければ、国王陛下に対して失礼にあたるし、何より子連れの後妻という微妙な立場のお母さんが陰口を言われてしまう。私はここ数日、ミステラ夫人のレッスンとガネーシャ様からのレッスンの後にも自室で練習するようにしていた。


「そうですわよ、優雅に、たおやかに。──そろそろガネーシャお嬢様からの指南のお時間ですわね。少しだけ休憩なされて、ガネーシャお嬢様からも学ばれますよう」


「はい、ありがとうございました」


正直、疲れてはいる。それでも弱音は吐けない。


「ミモレヴィーテ様も、長い間下町で暮らしておいででしたのに習得がお早いですわ。よく頑張りましたわね」


私の気持ちを察したらしいミステラ夫人が優しく言葉をかけて下さる。少し癒される思いだ。


「ミモレヴィーテ様、お茶をお運び致しました。こちらを頂いて休まれてからガネーシャお嬢様の元へ行かれますよう。お紅茶にはお砂糖を多めに入れて下さいませ、ミモレヴィーテ様お好きでございますわよね?」


マルタがお茶の道具等を運んで来てくれる。軽いお菓子まで一緒に用意してくれていた。


「──さ、私は退室致しますので、おくつろぎ下さい。長い時間立ったままでお疲れでしょう」


「いえ、ミステラ夫人様には本当にありがとうございました」


ミステラ夫人が部屋から出てゆき、私はようやくソファーに腰をおろして足をさする。その間にも、マルタが手際よくカップに鮮やかな色味の紅茶をそそいでくれて、「こちらは精霊様達とお召し上がりくださいませ」と言いながらお菓子もテーブルに並べてくれた。軽くつまめるように、どれも一口サイズの可愛らしいお菓子だった。


「ありがとうございます、マルタ」


「お礼等には及びませんわ、私はミモレヴィーテ様にお仕えする身ですもの。ミモレヴィーテ様を大切に思い、お仕えする事は専属メイドに許された特権ですのよ」


心なしか得意げに胸をはり、悪戯っぽく温かい笑みをたたえてマルタが応えてくれる。こうした優しさがなければ、私はとうにお屋敷での暮らしに根を上げていただろう。


「ありがとう、頂きます」


マルタが出してくれた焼き菓子のメレンゲを口にして、コクのある甘みを味わいながら紅茶を口に含む。精霊達も「ミモレヴィーテ様、お疲れ様でした。もうすっかり立派なご令嬢ですよ」と労ってくれながら一緒にお菓子を囲んで賑やかに振る舞って場を明るくする。精霊達の美しい姿と無邪気な様子は、下町にいた頃には高価で手の出せなかった甘いお菓子と共に私の心をほぐしてくれる。


それにしても、と思う。ガネーシャ様はさすが生まれつきの貴族令嬢なだけあって、カーテシーのみならず全ての挙措が洗練されている。まだ私と同じ13歳なのに、とても優雅で堂々としておいでだ。


お父様からガネーシャ様にも教わるようにと言われてから、毎日ガネーシャ様のお部屋を訪ねさせて頂いているけれど、お部屋の家具も可愛らしく上品で、淡い色調で揃えた品々の色合わせは、お父様から与えられたお部屋でそのまま生活している私には到底真似できるものではない。


「ミモレヴィーテ様、お時間でございます」


同情を含むマルタの声に、私は気が重い本心を隠して「はい、では行ってきますね」とティーカップをソーサーに戻した。立ち上がると脚が痛んだが、これも謁見さえ無事に済めば休めるようになる。あと少しの辛抱だ。


別棟から本邸への道のりを歩き、階段を昇ってガネーシャ様のお部屋に向かう。息をついてからドアをノックすると、ガネーシャ様の専属メイドであるショーンが代わりに返事をした。


「──どうぞ、ミモレヴィーテお嬢様。ガネーシャお嬢様は既にお待ちでございます」


「ありがとうございます、失礼致します」


出来るだけ上品に部屋へ入る。ガネーシャ様が「お疲れ様ですわ、ミモレヴィーテお姉様。申し訳ないのですけれど、私今日は体調が少し優れませんの。座ったままでの指導をお許しくださいませね」と鏡台前の椅子に腰をおろしたガネーシャ様が迎え入れながら仰った。


見ると、確かに顔色に血の気がない。座っているのも億劫そうな程に見受けられた。


「ガネーシャ様、大丈夫ですか?

私の事はご無理をなさらず、お休みになられた方が……」


「大丈夫ですわ、それよりもお父様から仰せになられた事は責任を持たなければなりませんもの」


言いながら、ガネーシャ様が鏡台に置いていた小瓶をショーンに手渡す。中身は使った後なのか、からになっていた。その瞬間、受け取るショーンの表情が曇っているように見えて不穏な疑問をいだいたものの、訊くことは許されない雰囲気だった。


「──さ、ミモレヴィーテお姉様。今日教わりましたこと、見せてみて下さいませ」


「あ、……はい」


かしこまり、居心地の悪さを感じながらミステラ夫人から教わった事を頭で反芻しながらガネーシャ様の前でして見せる。ガネーシャ様が頬に手をあてて、僅かに首を傾げた。何かいけなかったのだろうか。


「平民として礼儀作法とは無縁のお暮らしをなされていらしたお姉様には、付け焼き刃としても十分ですわ。よく励みましたのね」


「あ、……ありがとうございます……」


この端々から感じられる皮肉が私の心を重くする。卑しい身だった者が高位貴族の令嬢として扱われるのみならず、国王陛下に謁見まで許されるなど嘆かわしい──陰でそう言う人もいる事を知っている。言い返す言葉もないのが情けないが、何より貧しくとも幸せだった下町でのお母さんとの暮らしを貶められる事が、私としては少しずつ毒を盛られてゆくような苦しみを味わわせた。


それでも、嘆いていても激変した暮らしは逃げ場などない。まして、ガネーシャ様は今、体調が優れなくとも私の面倒を見て下さっているのだ。その事に感謝しなければならない。


「──ミモレヴィーテお姉様、最後にお手本をお見せ致しますので覚えておいてくださいませ」


身体が重そうにガネーシャ様が立ち上がる。私はその様に「ガネーシャ様、お具合がよろしくないのでしたらお座りになられたままでいて下さいませ」と慌てて止めようとした。


「いけませんわ、これは我が家の威信にも関わりますの。ミモレヴィーテお姉様がみっともないお姿を国王陛下にお見せしては、お父様のお立場によろしくないのですから。一度きりですわ、よくご覧になっていてくださいませ」


「……はい……」


ガネーシャ様が私の目の前に立ち、お手本をしてみせようとする。だが、いつもの美しい挙措とは違って身体が震えていた。


明らかにおかしい。再び声をかけようとすると──ガネーシャ様がくずおれ、絨毯に何かを吐き出した。口から吐き出されたのは、不自然な緑の液体だった。突然の事に私は「ガネーシャ様!」と悲鳴をあげて寄り添おうとして──ガネーシャ様お付きのショーンに制された。


「ミモレヴィーテお嬢様、ここは私が見ますのでご退室頂けますか?──もうガネーシャお嬢様から教わる事もお済みでしょう」


「……ああ……何てこと……せっかく飲んだ美容水を戻してしまったわ……」


「ガネーシャお嬢様、本日はお休み下さいませ。ただ今お口をゆすぐ水をお持ち致します」


「駄目よ……口に残った美容水まで流してしまうだなんて……」


「ガネーシャお嬢様、美容水はまた後日手に入れてまいりますわ」


「それはいつ……? 明日?」


「……今はともかくお休みを」


異常なやり取りを呆然と見つめる。そして、美容水という言葉に何かが引っかかったものの、これ以上ここにいる事は許されない気がして、私はガネーシャ様に掠れた声で「ガネーシャ様、私は失礼致します……どうか、お身体をお大事になさって下さい」と、かろうじて言葉を絞り出し、後ろ髪の引かれる思いでドアに向かった。あれだけ権高に振る舞われておいでだったガネーシャ様は失意に落ちて、私を引き留める言葉もない様子だった。ガネーシャ様を庇っているかのようなショーンも、私の事など意に介さないようで、ガネーシャ様の傍らに膝をついて気遣わしげに背をさすっていた。


部屋を出て、のろのろと歩き出す。すると、ハディが姿を現して私に耳打ちした。ハディの声は沈んでいた。


「ミモレヴィーテ様……彼女は毒を飲んでいるようです」


「──毒?」


高貴な方は毒殺されないように幼い頃から少量ずつ服毒して身体を慣らすというのは、下町にいた頃に作り話で読んだ覚えがある。遠い世界の事だとばかり思っていた。だが、ガネーシャ様は後継者として誰かと争う身ではない。むしろ、由緒ある侯爵家の令嬢として守られて生きてきた存在のはずだ。


怪訝な顔をすると、ハディが「あの小瓶から毒を感じました。それから、彼女が吐き出した物からも危うい毒を」と言った。──そこで私ははっとした。


美容水──確か、初めてお目見えした時に、ガネーシャ様は私に向かって美容水を使っているのかと訊ねられたと記憶が戻る。先ほどのガネーシャ様も、美容水を吐いてしまったと激しく落胆なされておいでだった。


「ハディ……ガネーシャ様は、美容水のせいで苦しまれておいでなの?」


「あれを美容水と言って良いものか分かりかねますが、本人がそう信じて望み、服用しているものです」


「そんな……」


ガネーシャ様は確かに私に対して友好的ではない。だからと言って私から敵視するつもりはなく、ガネーシャ様の事は特段好きな訳でもないし苦手ですらあるが、それでも人が苦しんでいるのを見て心を痛めない程に憎む理由はない。


──お父様やブリジットお兄様に話せば、何か良くなるだろうか?


そう考えたものの、彼らにどう話せば良いのか分からない。ガネーシャ様は自ら望んで、あの美容水を飲んでいる様子だったし──付き添うショーンも美容水の小瓶を受け取る時に見せた表情から、中身の危険性には気づいていたように思う。


「ミモレヴィーテ様……彼女はおそらく、あの毒を常用しております」


「……ガネーシャ様をお止め出来る方はここのお屋敷にはいないのかしら?」


「そこまでは、私には分かりかねます。しかし、彼女が飲み続けているあたり……父親も兄も……」


「……そんな……」


私は文字通り言葉を失った。


──それから、自室に戻って重苦しい気持ちで着替えを済ませ、晩餐の食堂へと向かった。案の定ガネーシャ様は不調により欠席し、お食事はなさらず今夜は既にお休みになられたと聞かされた。周りの反応を窺ったものの、誰も慌てていない。ガネーシャ様が常用しているうちに異常に慣れてしまったようだった。


「ミモレヴィーテ、明日は国王陛下に謁見する。その準備は整ったか?」


「……はい、ミステラ夫人とガネーシャ様から教わりましたこと、努めて身につくよう励みました」


「当日はお前一人で謁見する事になる。くれぐれも失礼のないように気をつけなさい」


「……はい、お父様」


「しかし、めでたい事は続くものだな。妻が我が子を身ごもったと思えば、今度は娘が精霊の愛し子として認められるとは」


「……」


ガネーシャ様が不在なのに、お父様は心配もなさらず上機嫌で食事をしながらワインを進めていた。ブリジットお兄様も口を挟まず、意を唱える事もなく淡々とカトラリーを扱っていた。


何かが歪んでいる。


このお屋敷の人達は明らかに何かが間違っていると思うのに、それを口にする事が出来ない自分が、自分の置かれた立場がまた歪んでいると痛感する。


──やる瀬ない気持ちになった時、不意にショーターを思い出した。首にかけたペンダントの存在を感じる。


ショーターは屈託なく、真っ直ぐだった。きっと彼も良い家柄の貴族令息なのに、朗らかに歪みなかった。


それが今、つい最近の出逢いだったのに無性に懐かしく思えた。


ショーターならば、間違いは間違いだと言っていただろうに。


それが許されない我が身の情けなさは、この侯爵家で宙吊りになっていると思えて、味わえない晩餐を終えて自室に戻り、マルタに安眠の為のハーブティーを淹れてもらって優しい香りをかいで口に含んでも癒される事はなかった。


それでも、明日は国王陛下に謁見する。どんな粗相も出来ない。万全を期す為にも、しっかり眠らなければ。


──私はベッドに入り、アイリーンに子守唄をねだって、澄みきった歌声を聴きながら眠りに落ちるしかなかった。


翌日の私に、何が待ち受けているかを想像だに出来ずに、ただ眠った。


私を待ち受ける運命を読み解くには、この侯爵家は歪み縺れすぎていた。



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