第15話

* * *



ガラント侯爵が、自分の娘は全ての属性の精霊と契約を結ぶ事を成しえたと陛下に奏上した──それは、陛下に仕える貴族達の間に波紋を呼んだ。しかも、その娘は契約を結ぶ前に精霊による治癒を二度も行なったという。陛下も今の聖女が四十路半ばという高齢からか、いたくご興味を示され、その娘は陛下との謁見を許された。


血筋から言えば、ありえない。


ウィルダム公爵はガラント侯爵が知らぬ聖女の血筋についても分かっていた。だからこそ、家臣にガラント侯爵が突如迎えた後妻とガラント侯爵の娘達について調べるよう命じたのだ。


都の街では祭りが開催されており、ウィルダム公爵の息子もお忍びで街に出てしまった。息子本人は秘密のつもりだろうが、家長に知らされない訳はない。これが街に出る最後だと話していたそうだから、仕方ないものだと思いながらも許す事にする。息子が最後と決めたのは、ウィルダム公爵を正式に継ぐ為の証を渡したからだと理解してやれない程には狭量ではない。


──さて、息子の帰宅が先か、それとも報告書が上がってくるのが先か。


執務室でコーヒーを一口含み、息をつく。今日片付けるべき書類は既に目を通し終えている。


と、ドアをノックする音が来たるべき知らせを告げた。この音の出し方は執事長のホールズだろう。ウィルダム公爵は「入りなさい」と許しを与えた。静かにドアが開き、すっと洗練された挙措でホールズが入室して来た。手には纏められた紙の束が抱えられていた。厚みはなく、おそらくは数枚の束だろう。


「公爵様、お命じになられました調査につきまして、ご報告致します。──こちらをご覧下さいますよう」


「ああ、ご苦労だった」


丁重に差し出されたそれを受け取り、目を文字に走らせる。ああ、とウィルダム公爵は思った。


──サリエル……。君は。


報告書には、かつてアムース子爵家の令嬢だったサリエルがディマルテ男爵家との縁談を破棄されて子爵家から勘当され、その後に下町で私生児を生んで、その子供と二人で暮らしていたと記されていた。子供は女児で、幼い頃から時に不思議な様子を見せていたらしい。


サリエルはガラント侯爵に見初められるまで下町の公衆食堂で酌婦として働いていたそうだったが、女児が13歳になった時にガラント侯爵の使う馬車がサリエルを轢いてしまい、結果サリエルは瀕死の重傷を負い、女児──娘が精霊の御業を発現させて治癒を施したとある。下町では騒ぎになり、保護を名目として母娘をガラント侯爵が屋敷に引き取った後、どういう訳かサリエルはアムース子爵家からの勘当を解かれて、子爵家の者としてガラント侯爵の後妻に迎え入れられたそうだ。


考えれば簡単な事だ。ガラント侯爵が、困窮するアムース子爵家に援助という金でサリエルを貢がせた。その真実を、ウィルダム公爵は苦い思いで解き明かす。


……娘はミモレヴィーテと名付けられていた。報告書には、そう続けられている。そこまで読み、ガラント侯爵の正妻の娘ではなく、このミモレヴィーテこそが我が母を救う為に精霊の御業を成し遂げたのだという事実から、ガラント侯爵が陛下に偽りを申し立てた訳でもなさそうだと理解する。


それらは、ウィルダム公爵には知り得なかった過去だった。


あの白百合のような令嬢だったサリエルが勘当され、下町で酌婦に身を落として、産み落とした娘と共に貧しく暮らしていた。


かつて、彼女がまだアムース子爵家の令嬢として夜会に参加していた頃の姿が脳裡に蘇る。清楚なドレスを身にまとい、言葉数も控えめにディマルテ男爵家の令息をパートナーにして──男爵家の令息はサリエルをそこそこに扱い、主に他の令息達と事業について盛んに語り合っていたが──どこか寂しそうに佇んでいた。


その様は根のない切り花としての美しさだった。アムース子爵家は既にサリエルを切り売りする事にしていた。ディマルテ男爵家に買われたサリエルは逆らう術も道も考えようがなく、従うのみだ。


──けれど、瞳は澄んでいた。濁りなく澄み渡り、聡明に物ごとを把握しながら、何らかの希望を捨てきりはしていなかった。


己の身の上に失望こそすれど、運命に絶望はしない。そう言わんとしている瞳。それに吸い寄せられるように、ウィルダム公爵となる前の、まだ第五皇子だった自分は彼女に手を差し出し、ダンスを申し込んでいたのだった──その夜会をウィルダム公爵は忘れもしない。いつでも、昨日の事のように鮮明に思い出せる。儚くも毅い眼差しのサリエルを。驚きに打たれた後、恥じらいに輝いた彼女の瞳を。


──それが、結果はどうだろう。


サリエルを地獄に落とし、我が身もまた皇太子争いから退いた。


感傷に浸っていても致し方ないと思いながらも、後悔は心臓に棘を残している。


その痛みを、まざまざと感じながら報告書の続きを読んでゆく。ミモレヴィーテは、侯爵家に迎えられてからも精霊の御業を成したらしい。継妹が主催する茶会に参加した令嬢の受けた火傷を、皆の前で癒してみせたとある。集まった令嬢達も目撃しているのなら、これは間違いないだろう。


そして、ミモレヴィーテという娘は母親譲りの髪と白い肌に、アムース子爵家では生まれようのない紫の瞳を持っているそうだ。


紫の瞳は、皇家の血を引く者にしか与えられないものだった。そして、この瞳の色こそが皇家から輩出される聖女の証となる。聖女は必ずアメジストを思わせる紫の瞳をしていて、聖女として力を使い続けてゆくうちに色は薄くなってゆく。そして灰色の瞳になった時こそが、聖女の務めを終えて次の代の聖女へと座を譲る時だ。


このミモレヴィーテという少女も、そう遠くない未来に歴代の聖女達と同じ命運を辿るのだ。力を国に捧げ、──捧げ尽くすまで力を使う。


その娘の運命を、サリエルはどう思って見守っているのか。サリエルの、かつて絶望に呑まれまいと抗っていた瞳は今、何を映しているのだろうか?


今こそ会って、対面して彼女の瞳が自分を映す事を心では望む。だが、それを望みながらも何より恐れている事もまた事実だ。


「……公爵様、いかがなされましたか?」


ホールズが控えめに問うてくる。ウィルダム公爵は苦笑を浮かべて、「ああ、何でもない。──どうやらガラント侯爵は虚偽を申してはいないようだな」と現実に戻って応えた。


過去をいくら思い返してもサリエルは取り戻せない。既に奪われた存在だ、と。


「──それより、ショーターがそろそろ帰って来る頃だと思うのだが……」


「はい、ショーター様でしたら、つい先ほどご帰宅なされました。一時護衛の者とはぐれましたようですが、ご無事でございます。何やら、不思議な出来事によって救われたと申しておりましたが……お呼び致しますか?」


「不思議な出来事?──ホールズ、ショーターをここへ」


「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」


ホールズが頭を垂れてから退室する。ややあって、ショーターが初めて見る面持ちで執務室を訪れた。


「なるほど、確かに無事で済んだようだ。しかし、護衛とはぐれたのは良くないな。ウィルダム公爵家を継げるのはお前しかいないのだから、自分を大切にしなさい」


「申し訳ございません、父上。不慮の出来事に巻き込まれてしまいました事は心より反省しております」


着替えも済ませ、さっぱりとした服装になったショーターは素直に謝った。見たところ怪我もない。何かを奪われた様子もなかった。


「──まあいい、最後に見た街並みは楽しめたか? 生まれ変わったように新鮮な顔をしているよ」


率直に言うと、ショーターは頬を染めた。


「はい、……ある人と出逢って、一緒に祭りを見ました。明らかにどこかの貴族令嬢なのですが……僕が名乗っても、ウィルダム公爵家の者だと気づいていなかったようなのです」


「それは不思議だね。どこぞの地方から出てきたばかりの家門の令嬢なのか……」


息子のショーターと共に、僅かに疑問を抱く。すると、ショーターは思いも寄らぬ事を口にした。


「──ですが、ミモレには、いつかまた会える気がします。立場や場所こそはばかられても」


「……ミモレ? それが君の恩人の名前なのか?」


「はい、風と木の根を操って僕を助けてくれた、不思議な少女でした。でも、とても良い心根のようで……」


ミモレ。──ミモレヴィーテ。


「……それは、良かった」


──果たして、これは偶然なのか?


自然界のものを操る力を持つ不思議な少女であり、ミモレと名乗る──そんな人物が、果たして偶然なのか。


ウィルダム公爵は、改めてショーターを案じた。ショーターの瞳に、過去の自分がいだいた何かを見て取ったからこそ。


そして、その少女が運命に縛られていると告げられない──今はまだ言えないからこそ。


二人が、二度と会わない事を願いながら。それが叶わない事も知りながら。


──息子もまた、何かに何かを奪われるのか。


心の片隅で、闇を苦く味わって。


「──さ、部屋に戻りなさい。私も晩餐には間に合うように仕事を片付けよう」


片付けるべき仕事は全て終えているが、心を落ち着けるのに必要な嘘だ。


「はい、父上。失礼致します」


──ああ、と心で呟く。運命の神は、どこまで残酷なのかと。


ウィルダム公爵は、退室してゆく息子の背中に、残した眼差しに、昨日までにはなかった重みを見い出していた……。



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