第14話

池からお屋敷の自室に戻ると、池に入ったのに身体は濡れてもいない。精霊達の力は摩訶不思議なものだと思いながら、キャンディが入った小さな紙袋と道化師がくれた棘の取り除かれた薔薇をテーブルに置いた。


お屋敷では私が抜け出した事が知れ渡っているだろうか。だとしたら侯爵家の方々から相当言われるだろう。しばらく部屋で謹慎させられるかもしれない。けれど、ショーターが一緒で私は久方ぶりに心から何かを楽しいと思えた。それは、かけがえのない価値ある時間と経験だった。まだ心が浮き立っている部分がある。この心の幸福感がある限り、お父様達から何を言われても耐えられる。


まずは、キャンディを精霊達にあげようと思って袋から取り出そうとすると、「やっと帰ってきたね、ミモレヴィーテ」と穏やかで美しい声が間近に聞こえてきて飛び上がりそうなほど驚いた。聞き覚えのある声の主は、マルタでさえ私の許可なしに入れない部屋で、自由に行き来出来るとなると──あの方しかいない。


「──アポロデス様?!」


慌てて振り返ると、精霊王様が間近に佇んでいる。精霊王様は「君が精霊達と外に出たのが分かったからね。マルタとかいう人物が三度ほどドアの向こうから声をかけてきたが、君の声で返事をしておいたから、屋敷を抜け出した事は知られていないはずだよ」と仰って下さった。私の声でどう誤魔化したのか分からないけれど、助けてもらえた安堵に気持ちがやわらぎ、精霊王様に会えた嬉しさで明るくなる。


「ありがとうございます、アポロデス様」


「礼には及ばないよ。祭りは楽しめたかな?」


「──はい、とても」


「なら良かった。眷族達もよくミモレヴィーテを守ってくれた、良い子だ」


「精霊王様、私達はミモレヴィーテ様の為に当然の事をしたまででございます」


「ミモレヴィーテ様は屋敷に籠りっぱなしで息抜きさえもお茶の時間だけでしたから、自由なひと時を楽しんで欲しかったのです」


ハディとアイリーンが口々に答える。セイレンが「精霊王様、ミモレヴィーテ様がキャンディを頂きました。皆で味わおうと」と話した。紙袋のキャンディはちょうど全員に1つずつ行き渡る数だ。精霊王様には駄菓子など差し上げていいものか躊躇したものの、精霊王様はセイレンの言葉に柔らかな笑みを浮かべた。


「キャンディか、私が人と関わる事はほとんどないから、食べる機会もなかったな。ミモレヴィーテ、私にもくれるかな?」


「あの、──もちろんです。よろしければアポロデス様も一緒に頂きましょう」


「ありがとう」


さっそく、テーブルにハンカチを敷いてキャンディをその上に並べる。精霊達が群がり、とても嬉しそうだ。精霊王様もまた、興味深げにキャンディへ手をかざす。


と、キャンディを楽しんでいた精霊王様が不意に「表情が明るいね、ミモレヴィーテ。祭りで良い事があったかな」と話題を振ってきた。


「あ、──はい。初めての経験ばかりで……とても新鮮でしたし、ショーターという男の子と楽しめて音楽に合わせて踊ったり」


「ならば良かったよ、ミモレヴィーテ。君の喜びは眷族達の喜びでもある。ましてや君は私との稀有な契約者だからね」


精霊王様はどこまでも翳りなく朗らかだ。気高い風貌なのに親しみがある。精霊王様は私の色を変えたひと房の髪にくちづけ、「さて、どうやらマルタが来るようだ。眷族達ならまだしも、私が姿を見せてしまえば騒ぎになるだろうから戻るとするよ」と仰った。


「はい。本当にありがとうございました、アポロデス様」


「何の事はない。私は常に君を見守っているよ」


頼もしい言葉を残して、精霊王様の姿が光の粒子を残してふわりと消える。その粒子も溶けるように消えていった。


「ミモレヴィーテ様、マルタでございます。お目覚めでしょうか?」


「あ、──ええ、入ってきて大丈夫です」


答えると、そっと扉が開いてマルタがお茶らしき物を持ってきた。


「ミモレヴィーテ様、お加減はいかがでしょうか?──毎日お勉強やレッスンに励まれておりましたものね、お疲れで眠りたくなるのも無理はございませんわ」


「え、ええ……心配をかけてごめんなさい。もう元気です」


どうやら、精霊王様は私が部屋で休み寝ていた事にしておいたらしい。レッスンに励むようにお父様から言われていたので、にもかかわらず休んでいたとなればお叱りは受けるだろうが、お屋敷を抜け出した事に気づかれなければいい。それに今の私には、ショーターと無邪気に──何の打算も嫌味もなく、ただのミモレヴィーテとして自分を解放出来た晴れやかさがある。本当に良い息抜きになった。あの楽しさを反芻すれば叱責など何のことはない。


「ミモレヴィーテ様、お疲れがとれるように甘いミルクティーのご用意を致しました。お召し上がりくださいませ」


「ありがとう、マルタ」


私を思いやってくれるマルタの心遣いも嬉しい。嘘をついたのは少し罪悪感というか後ろめたさはあるけれど、事実を知らせればマルタはどれほど驚くか。とても言う事など出来ない。


「──マルタ、何度も部屋を訪れてくれたのにごめんなさい。しかもレッスンを放り出してしまったわ」


「いいえ、よろしいのですよ。時には休息も必要ですわ。──大丈夫でございます、私が声をかけた時には、別棟は使用人が少ない事も幸いして誰にも出くわさずに済みましたから。侯爵様もミモレヴィーテ様がお休みになられておいででしたのには気づいておりませんでしょう」


「──本当に?」


「ええ。ですから、晩餐でも堂々となさってらして下さいまし」


おそらく、これもアポロデス様の配慮だろう。三回も部屋を訪ねたマルタが誰にも見られずに済むとは、いくら別棟といっても考えられない。侯爵家には多くの使用人が働いていて、普段ならば昼間は掃除する人達が廊下などに必ずいるし、人けは途切れる事がないのだ。私は心の中でアポロデス様に感謝した。連れ出してくれた精霊達にも、もちろん。


──ミルクティーは、白いお砂糖に温めたミルクを加えて、優しい香りとまろやかな味わいを楽しめた。マルタは抜かりなく精霊達の分も用意してくれていて、精霊達も喜んでいる。こんな風に穏やかな時をすごしていられるのなら、侯爵家での生活も悪くはないのだけれど──お母さんが今幸せかが気がかりだった。


だが、侯爵家の娘となってしまった私ものんびりとしている事は許されない。晩餐で一堂が会している場で、お父様が考えた事すらない言葉を発したのだ。


「ミモレヴィーテ、五日後の午後、お前が陛下に謁見する事になった。礼儀作法はまだ未熟だろうが、失礼のないように努めなさい」


「陛下……国王陛下ですか?」


「そうだ。皇后陛下も同席する。何しろお前は精霊の愛し子だからな、今の聖女様もお歳を召しておられるし、早急に事を進めねばならない」


あの下町で拝見した聖女様が、もうお歳を召しておられると言われるのが不思議だった。あれほど神々しく美しかったのに。


「今の聖女様が五十路になられる前に、お前のデビュタントがあるのが幸いだな。我が妻も良い子を生んでくれたものだ。侯爵家の繁栄の為にも、精霊達との繋がりをより深く強固なものにしなさい」


「……はい、お父様」


積み重なる疑問は、五日後の謁見で解かされる事になるが、この時の私はまさに急転直下の展開に翻弄されていた。


「ミモレヴィーテお姉様、これはとても栄誉な事でございますのよ。平民としてお暮らしになられておいででしたお姉様には実感もわかないでしょうけれど……」


棘を付けたガネーシャ様の言葉にも、まったく傷つかないわけではないけれど含みがある方が気になる。


「はい、ガネーシャ様。……私などには畏れ多い事ですわ。ですけれど、お父様がお決めになられた事ですもの。粗相のないように謁見の日まで礼儀作法について精一杯学びますわね」


「……そうですわね、それがよろしいわ」


どことなく不満そうにガネーシャ様が返事をなさる。ブリジット様が追撃に出た。


「そうだな。ミモレヴィーテ、確かお前はカーテシーに苦戦しているようだが、その点はガネーシャが完璧にマスターしている。手本にさせてもらえば貴族令嬢としての心得も学べるのではないか?」


「それも悪くないな。夫人の教えだけでは不十分なところもあるだろう。ミモレヴィーテ、ガネーシャからも夫人のレッスン後に学びなさい」


それでは休む間もない。しかし、謁見は決まった予定ではあるし、今しばらくは我慢してガネーシャ様にも教えを乞うしかなさそうだ。


「……はい、ブリジットお兄様。ガネーシャ様、よろしければお教え願えますか?」


「……ええ、お姉様。お姉様が失礼をして恥をかけば、すなわち我が家の恥ですわ。喜んでお付き合い致しましょう」


「ありがとうございます、ガネーシャ様」


その夜の晩餐は、いつにも増して重苦しかった。それでもお屋敷を抜け出した事が知られずに済んで、お祭りの楽しかった余韻を大切に出来るだけありがたいのだろう。知られれば思い出を穢される──踏みにじられる事は容易に想像出来たから。


自室に戻り、道化師から受け取った薔薇の前に座る。一輪挿しに活けた薔薇はまだ瑞々しさを残していて、このお花が枯れなければ良いのにと思った。いつか枯れてしまえば、あのお祭りでの喜びが切ない思いと共に過去になりそうで少し寂しい。


──でも。


私は自分の首の下に手をあてた。そこにはショーターが着けてくれたペンダントがある。これは色褪せる事のない幸せの証明だ。


いつか、また逢えたら。


その時はお祭りの時みたいに、くだけたはしゃぎ方など出来ないだろうけれど──ショーターがどれほど高貴な身分でも、ショーターは眼差しを変えることなく私を見つめてくれるような気がした。


それは、胸に灯る希望のようだった。


それによって私は今自分がすべき事、努力を怠るまいと自分を奮い立たせて頑張ろうと思った。


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