第13話
とにかく暴漢が目を覚ます前に公園から離れようと、ショーターと共に並んで歩き始める。ショーターは、今度は目立たないように取り戻した何かをマントの中のシャツに着けた。そこで、黄金のブローチだと知った。大きさといい細工の細やかさといい、かなり上質で高価な物だと分かる。やはりショーターはどこぞの貴族の令息、それも高位貴族の御曹子に違いない。
「──ミモレもお忍びで出てきたの?」
「何で分かったんですか?」
「その、ドレスが外出用じゃないみたいだから……」
「……あ、」
今着ているドレスは群青の生地にペールブルーと白の絹糸で刺繍を施したシンプルな物だ。パニエも用いていない。その上、靴も室内履きだ。それにしても、それをひと目で見抜くのは、やはりショーターがドレスを見慣れている身分の者だと裏付けている。私は何の準備もせずにお屋敷を抜け出した為、着替えもしていなかった。それを恥じらい、頬を染めて少し俯く。半年前の自分でなら、このドレスでさえ手の届かない存在だったのに、ずいぶんと貴族の水に染まってしまったものだ。
「……そうなんです、お祭りがあると知って。お祭りだなんて見た事がないから、見てみたくて。ショーター様もお忍びだったんですね」
「ショーターでいいよ、敬語もいらない。今の僕は、ただの君に救われただけのショーターだから」
「あ、はい……うん、分かったわ、ショーター」
言い直すと、ショーターは満足そうな笑顔になった。そうすると貴族特有の高貴な雰囲気が柔らかくなり、どことなく人懐っこい。侯爵家に迎え入れられてから久しく目にしていなかった、飾り気も邪気もない柔和な笑みに、私はどきりとした。マルタでさえ常にかしこまっているので、素直に受けとめられる他意のない笑顔は懐かしく下町にいた頃を思い出させる。
「──ミモレ、あの屋台を見てみない?」
ショーターが指さしたのは、お菓子を作っている屋台だった。見たことのない形をしている。甘い香りが漂ってきて、次々と人が買い求めている。
「美味しそう……あ、でも私……」
お祭りだというのに用意もなく出てきたので、お金がない。もっとも、お屋敷での暮らしではお金の使いようもないので、自分のお小遣いは持たされていなかったけれど。
けれどショーターは屈託なく笑い、「今日は僕にご馳走させてよ。僕の恩人なんだから」と言って、躊躇なく私の手を引き屋台へ向かった。
「おばさん、お菓子を2つ」
「はいよ、揚げたてだから気をつけてね」
「ありがとう」
貴族の令息となれば金貨を出してしまうのではと、はらはらしながら様子を見ていたけれど、ショーターは手馴れた様子で銅貨を2枚出して支払い、お菓子を受け取る。よほど街に馴染みがあるのだろうか。感心していると、ショーターが「はい、ミモレの分」と言って、紙袋に半分収まった状態のまだ熱いお菓子を手渡してきてくれた。
「あ、……ありがとう」
「熱いけど、揚げたてが美味しいんだ。この街の名物だよ。生地に蜂蜜を練り込んで、仕上げにシナモンを振ってるんだ。街の子供達もお小遣いでよく食べるんだよ」
「そうなんだ……うん、美味しそう。ショーターは街に詳しいのね」
「まあ、ね。ほら食べてみて」
私に勧めながら、ショーターはお菓子を頬張った。お菓子は私の小指位の太さの渦巻き型で、シナモンの甘い香りが鼻腔をくすぐる。そっと齧ってみると、香ばしい生地に蜂蜜の甘さと香りにシナモンの優しいスパイスが混ざっていて本当に美味しい。
「美味しい……!」
「でしょ?──良かった、ミモレが気に入ってくれて。僕も街に出た時はいつもこれを食べるんだ」
「そうなんだ……こんな珍しいお菓子は初めてよ。ありがとう」
下町にいた頃は、買えてもせいぜいバターとお砂糖の薄い質素なクッキーを少しがやっとだった。それさえも手仕事のお駄賃がなくては買えないので貴重なお菓子で、数枚のクッキーを精霊達やお母さんと分け合って食べては喜んでいた。
けれど、下町と都の街では栄え方がまったく違う。あちこちに美味しそうな食べ物や飲み物の屋台が並んでいて繁盛している。
「何か飲み物も欲しいね。──あっちにペリエを使ったジュースを売ってるよ、行ってみよう」
「ペリエ?」
「自然の炭酸だよ。細かい泡がしゅわしゅわして口に広がるんだ。最初は驚くけど美味しいよ。レモンソーダはどう? 甘いお菓子に良く合うよ」
「──うん、任せるわ。炭酸なんて初めて聞いたのよ。私が暮らしていた所にはなかったわ」
「そうなんだね。絶対美味しいから期待してて」
「──うん!」
「じゃあ行こうか」
私が頷くのを見て、ショーターは言うなり張り切って私をジュースの屋台に連れて行く。店主の人に「レモンソーダを2つ。砂糖は控えめでね」と朗らかに注文して、瓶詰めのジュースを受け取って片方を私に差し出した。
恐る恐る口にすると、細かい泡が口の中で弾けるようだ。私はその刺激に驚いたけれど、レモンの爽やかさとほのかな砂糖の甘みが口に広がり、飲み下すと喉がすっきりした。口に残っていた食べたお菓子の甘さが、さっぱりと洗い流されている。もうひと口飲むと、今度はいくらか慣れたのか味わいが楽しい。
「これも美味しいわ、すごく」
「良かった。色々なフレーバーがあるんだよ、お祭りを歩いて疲れたら他のフレーバーも飲んでみようよ」
「でも、そんなにご馳走になっていいの?」
「気にしないで、僕は今すごく楽しいんだ。一人でお祭りを眺めるつもりだったけど、誰かと楽しさを分け合える方がずっと楽しい」
分け合える──それは、もうずっと人とは感じられずにいた喜びだった。精霊達とは相変わらず親しく出来ていて、それは侯爵家での慰めになっているけれど、お母さんはお父様に奪われてしまったから。
「──ほら、ミモレ。あっちに大道芸が来てるよ」
「大道芸?」
「道化師が色々な芸を見せてくれるんだ。大きなボールに乗って踊ったり、口から火を吹いたり」
「そんな事、人間が出来るの?」
「それは見てのお楽しみだよ、行ってみよう」
ショーターに連れられて広場に向かう。見た事もない赤と黄色の不思議な服を着て、顔を真っ白に塗って、目の周りと口に大袈裟な化粧をした男の人が周りの歓声に応えながら大きなボールに片足で乗ってバランスを取りながら陽気にお手玉を操っていた。
「すごい……」
他に言葉が出ない。広場では道化師の動きにも良く合ったテンポの音楽も演奏されていて、これがお祭りなんだと実感する。
──と、ボールから降りた道化師が、ぽかんと見入っている私に一礼して魔法のように手から一輪の薔薇を出してみせて、「どうぞ、お嬢さん」とプレゼントしてくれた。受け取っていいものか、ショーターを見やると「ミモレ、初めてのお祭りのお土産と記念になるよ。大丈夫だから受け取って」と促してくれた。
おずおずと手を伸ばして薔薇を受け取る。棘は取り除かれた、小ぶりの赤い薔薇は可愛らしくて、手を動かして色々な角度から見つめた。本当に本物の薔薇だ。
「ショーター、道化師っていうのは魔法使いなの?」
「これは手品だよ。ミモレが可愛いから見せてくれたんだ」
「……っ」
ショーターの言葉はどこまでも裏表なく、真正面から私に浴びせてくるみたいだ。それが温かい。むず痒いような気さえするのに居心地は悪くならない。精霊達が気配で囃し立ててくるのが、また照れくさいものの、失われていた温もりが私を満たしてくれているのが分かっているらしく、彼らも楽しそうだ。
そうこうしていると、音楽が明るさを残しながら少ししっとりした曲調に変わる。見てみると、広場に集まっていた人達が楽の音に合わせて踊り始めた。
「──僕達も踊ろうよ」
「……でも、私ダンスなんて経験が……」
差し伸べられた手に戸惑っていると、ショーターは「大丈夫だよ、ステップも振り付けも全部自由なんだ」と後押しした。見回すと、皆楽しそうに踊っている。そのさまは一組ごとに違っていて、ドレスを着ているわけでもなく、動きもばらばらなのに華やかだ。
「──うん、踊ってみたいわ」
「──では、お嬢様。お手を」
ショーターはまるで貴公子のように手を差し出して、私はくすりと笑って手を取った。導かれるままに広場の中央に向かう。ダンスと言えば社交ダンスを少し習い始めたばかりなのに、身体がとても軽かった。ショーターと手を取り合い、見つめ合って軽やかに踊りを楽しむ。楽の音が途切れる頃には、周りの視線は私達に集まっていて、踊り終えると拍手が沸いた。
「やるじゃんか、兄ちゃんにお嬢さん」
「本当に可愛いねえ」
「皆さん、ありがとうございます」
「あの、……ありがとう」
あまりの楽しさに我を忘れていた。口々に褒めそやされ、急に照れくさくなる。ショーターは対照的に堂々としている。心なしか誇らしげだ。
「──さ、ミモレ。踊って喉が渇いたよね。何か飲もう」
そういえば、はしゃいだからか喉がからからだ。私は素直に甘える事にして「ありがとう!」と笑った。再びジュースの屋台に二人で向かう。
「今度は少し甘めの苺ジュースにしようか」
「私、苺のジュースも初めてだわ」
「美味しいよ、苺ジャムを使ってるんだ。──おじさん、苺ジュースを2つ」
「はいよ、また来てくれたね。──これはほんのお礼だよ」
「ありがとう!──ほら、ミモレ。キャンディだよ。ジュースとお揃いの苺飴だ」
「わあ……ありがとうございます、おじさん」
「いいって事よ」
にこやかな店主に見送られ、噴水の縁に腰をおろしてジュースを飲む。僅かな酸味がアクセントになった甘さは癖になりそうだ。ショーターも隣で美味しそうに飲んでいる。その表情はとても晴れやかだ。
「このジュースも美味しいわ。ありがとう、ショーター」
「うん、僕も美味しい。キャンディは持って帰ろうか」
「そうね、すぐに食べるのは何だかもったいないわ」
それに、連れ出してくれた精霊達にも楽しんで欲しい。キャンディをあげれば喜んでくれるだろう。
──この時間が、もっと続けば良いのに。
ふと、そう思う。
けれど、願いは常に儚いものなのだ。
「ショーター様!」
「お探し致しました、ショーター様。よくぞご無事で……!」
二人の空間に、大人の男の人達が声を上げてくる。腰には剣を携えていた。──そうだ、ショーターは貴族の令息だと推測していたではないか。お忍びでも、護衛の騎士をつけていておかしくはない。むしろ、侍女もつけずに出ている私の方がおかしいのだ。
「ああ、気にしなくていい。むしろ楽しいひと時をすごせたよ」
「ショーター様、そのような事を仰らずに……私どもは寿命が縮む思いでお探ししました。申し訳ございません、任につきながらショーター様を見失うとは……」
男の人達はひたすら畏まっている。ショーターは鷹揚に──貴族として振る舞っていた。
「だから、大丈夫だったと言っているんだ。こちらの令嬢がいてくれたお蔭で何事もなく済んだんだ。……ミモレ、僕はそろそろ帰らないといけないみたいだ。君を送って行きたいけれど……」
その言葉に甘えたら、お屋敷は大騒ぎになる。それに、ショーターは言外に自分には不可能だと言っている。私は立ち上がり、ショーターに微笑んだ。
せめて、心から楽しいひと時だった現実、事実を壊さないように。
「私なら大丈夫。ここでお別れしましょう。私にも迎えが来るわ」
「……そうか。──ミモレ、楽しかった。本当にありがとう」
「私こそ、お祭りをこんなに楽しめるとは思ってなかったわ。ショーターのお蔭よ、ありがとう」
私達が気安く呼び合うのを、護衛の騎士達は何とも言えない面持ちで見ている。主が呼び捨てにされて、敬語も使われないのだから当然だろう。しかし、私の身なりは私もまた貴族の令嬢だという事を明かしている。下手に口を挟めない。
「最後に……ああ、そうだ。──これを受け取ってくれないかな」
ショーターが懐から何かを取り出す。
「これは……ペンダント?」
「君と出逢う前に、露店で見つけて買ったんだ。贈る相手もいないのにと思ったけど……絶対に君に似合うと今なら思う」
それは、繊細な銀細工に見た事もない宝石らしき紫の石が象嵌されたペンダントだった。露店でこんなに綺麗な物を売っているだろうか、だとしたらお店で一番高かったに違いない。そう考えて戸惑っていると、ショーターが何も言わずに私の首にペンダントを着けてくれた。
「楽しかったよ、ミモレ。──また、いつかどこかで逢えたら幸せだ」
「……私も楽しかった。ありがとう、ショーター。ずっと忘れないわ」
また逢える確証はない。だから、悲しくなる約束はしない。
「──さ、ショーター様」
「分かった。……じゃあ、ミモレ。気をつけて帰って」
「……ええ。ショーターも」
私は先に背を向けて歩き始めた。人けのない公園の池辺りで、ハディとアイリーンに助けを借りなければいけない。手入れされた池ならば、鏡の代わりになるだろう。
一度だけ、振り返る。ショーターは見送るつもりなのか、まだその場に立っていて、私と目が合うと精一杯の笑顔で軽く手を振ってくれた。私も笑って手を振り返し、今度は振り返らずに公園に向かって歩き続けた。
──それは、ひとつの不思議な出逢いだった。私の心を暖める出逢い。お祭りはショーターと一緒に、確かに楽しかった。それを忘れたくないと思った。
忘れない。私の心を満たしてくれた時間と存在を。
たとえ、この後に何があっても。
つらい時には、この思い出を心に蘇らせよう。そうしたら、また頑張る事が出来ると思うから。
──そう心に誓い、私は公園の池でハディとアイリーンに導いてもらってお屋敷の自室へと戻った。
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