第12話
* * *
ウィルダム公爵家の嫡男にして、公爵家唯一の子であるウィルダム・フォン・ショーターは、黒に近い地味な色味のマントを翻し、街の喧騒に流されるかのように身を投じて歩き始めた。
通い慣れた活気ある街は、祭りによって普段とは違う熱を帯びた活気に満ちあふれている。屋台が並び、広場中央からの音楽は歌声と囃し立てる歓声が入り交じって耳だけでなく全身に打ちつけるようだ。人混みも、都中の人間がここに集ったかと思うほど多く、誰かとぶつからないように気をつけながら、ゆっくりと歩くしかない。
貴族の多くならば、下品あるいは野蛮だと眉をひそめるであろう祭り騒ぎは、けれどショーターにとっては感慨深いものだった。
ショーターは昨日、15歳の誕生日を迎えた。──それは、特別な誕生日でもあった。
幼い頃から背中を追い続けてきた父親から、祝いにと獅子をかたどった純金のブローチを贈られたのだ。獅子の瞳はアメジストが嵌め込まれており、それは常に穏やかで他者に優しい父親と同じ色の瞳だ。ブローチは父親がウィルダム公爵となった時に祖父──この国の国王陛下より賜った家長としての証で、だからこそショーターはそのブローチを着けて──最後に、お忍びで通い慣れていた街の民の姿をよく見ておこうと思ったのだ。
父親は黒くしっとりとした髪と深い紫の瞳を持つ落ち着きある容貌の人で、対して母親は燃えさかる炎を思わせる色味の髪に淡い茶色の瞳を持つ派手やかな美貌だった。父親の容貌を月とするなら、母親のそれは太陽だろう。
ショーターは黒く艶やかな髪に、澄んだガラス細工を思わせる緑色の瞳をもって生まれた。幼い頃、なぜ父親とも母親とも違う瞳の色なのか父親に問うた事があったが、問われた父親はもの静かにショーターの頭を撫でて「お前の母方の祖父が緑色の瞳でおられたから、その血を受け継いだのだろう」と教えてくれた。
祖父はショーターが生まれたばかりの頃に他界しており、残されたのは肖像画のみで思い出はなかったものの、絵画の中の祖父は確かに緑色の瞳で描かれていたから、以降ショーターが瞳の色に疑問を抱いた事はない。
積み重ねてきた記憶にある限り、父親はいつも温厚でいて多弁ではなく、民には寄り添える度量のある思いやりに満ちた素晴らしい人物だった。ショーターにも優しく接してくれて、特別甘やかす事はなくとも厳しく叱責された事は一度もない。間違いは分かりやすく諭してくれる人格者とも言えた。
その父親に、ウィルダム公爵家の跡継ぎとして認められた証のブローチは重く尊く、ショーターはマントに着けたそれを、歩きながら何度も手のひらに包んで確かめた。眼差しは歓喜にあふれる民に向けたまま、これからはブローチにふさわしい人間として生きなければならないと自らを言い聞かせて。
そしてブローチを贈ってくれた時の父親とのやり取りも思い出す。
父親はショーターに「私のただ一人の息子として成長してくれたお前に、相応のものを」と言って黒いビロードを張った箱に収まるブローチを手渡した。
ショーターは「ありがとうございます、父上。ご期待に添える大人を目指します。父上のような大人を」と感謝を伝えたが、その言葉に父親はなぜか微かながら寂しげな笑みを一瞬浮かべたのを見逃さなかった。見た事のない笑みは、──それは自嘲に見えたのだ。
父親の産まれは、皇家の直系──それも国王陛下とその正室の間に生を受けたものだったはずだ。そう聞かされて育った。国王陛下は他に側妃を多く持ち、その為皇子だけでも8人もいたそうで、皇太子の座を争う皇家は当時苛烈を極めたとも聞く。父親もその中の一人だったそうだが、ある時突然身を引いたとも漏れ聞いた事があった。
もしかしたら、その過去のうちの何かが父親の心に自嘲させる澱を残したのかもしれない。父親には問いかけようがない過去だから、憶測でしか考えられないが。
その点で、ショーターは他に兄弟姉妹をもたないから跡目争いといった醜い争いとは縁遠い。ある意味恵まれたのかもしれない。だが、兄弟姉妹がいない事は寂しくもあった。
兄弟姉妹がいない──そこまで考えて、はっとする。父親はショーターを物足りなく思っているのではないかと。母親がショーターには幼い頃から座学に礼儀作法に剣術にと師範をたくさんつけて厳しく学ばせできていた事から、自分では跡継ぎとしての自負があったけれど、父親の目には己の自負ほどのものはショーターから見い出せていないのかもしれない。
そう思いついた瞬間、ブローチはずしりと重みを増した気がした。ショーターは思わず、「父上、僕にもし兄弟がいたら、互いに研鑽し合えたかもしれませんね」と言ってしまっていた。
皇太子の座を争い退いた体験を持つ父親に対して失言だ。でも、その時は同じ両親から生まれた兄弟達と共に育っていれば、もっと自分を磨けたかもしれないという思いを素直に──そして安易に抱いていた。
父親はブローチを持つショーターの手に自らの手を重ねて「確かに、たとえばパイなら分け合えば皆で空腹を満たせるだろう。だが、一輪の花ならば分け合えはしないのだよ。──このブローチのように」と説いた。
そこには確かな影があった。
ショーターはすぐに己の安直で幼稚な考えを恥じた。そして父親が抱く闇の深さを知った。当時何が起きていたのかは与り知らないものの、我が子はショーター一人で良かったと父親が思うくらいの過去は、相当に重く父親にのしかかって、かつての父親を苦しめたのだ。
「申し訳ありません、父上。僕の思い違いがありました。──ですが父上、僕はあなたの子で幸せです。いつかウィルダム公爵家を背負って立つその日まで、どうか僕を教え導いてください」
それがショーターに今言える精一杯の誠意だった。はたして父親は表情をやわらげ、「もちろんだとも。今までもこれからも、お前が私の跡継ぎなのだから」と言ってくれた。
──それが、昨日の夜の出来事だ。これからは、正式な跡継ぎとして学ぶ事が増えてゆく。街に出れば民の暮らしを直接間近で見られるから、ここ数年はわずかな護衛をつけてお忍びで街を歩いてきたが、家を背負う覚悟の為にもそれは今日で最後にする。
だから、よく見ておこう。そうして街の人々を眺めて、記憶に焼きつけようとしていると──酔っ払いを装った柄の悪い男達が目の前に立ちはだかった。
「坊ちゃん、つまんなそうに歩いてんなあ。俺らが祭りの面白さを教えてやるよ、ついてきな」
「僕は……!」
にやにやしながら手を伸ばしてきて絡もうとする男達にぎょっとして背後に控えているはずの護衛へ振り返る。しかし、この混雑で自分の姿を護衛の者達は見失っていたらしい。いつの間にかショーターは一人になっていた。焦りと恐れが募るが、男達はそんな様子さえ楽しんで見ているようで、さながら小動物を前にした捕食者だ。
「いいからさ、ついて来なよ。ほら、あっちだよ坊ちゃん。人混みにゃ慣れてねえみたいだからな、ジュースでも買って公園で休もうや」
「そんなものは、いらない。放っておいてくれ。僕には連れがいるんだ」
「あ?──いねえじゃねえか」
「少しはぐれただけだ、すぐに僕を見つける!」
傍らを通りすぎてゆく人々が怪訝そうに見やってきて、けれど面倒には巻き込まれたくないのか助太刀は望めそうにない。気まずい面持ちで顔をそらし、一歩離れて去ってしまう。酔漢風の男達はさらに調子に乗って、ショーターの肩を抱いたりして自由を奪い、じりじりと脇道へ引きずり人いきれから離してしまう。
ショーターも抵抗したが、大の大人の男達には敵わない。とうとう公園まで連れて行かれて、人けのない小道まで連れ込まれた。挙げ句、ショーターの何よりの宝であるブローチを毟り取られる。
取り返そうにも、羽交い締めにされて腕も伸ばせない。せめて必死に声をあげていると──突如として風が吹き荒れ、砂埃が男達を襲って──不思議な事にショーターの事は避けるように男達だけを風は見舞った。それでも視界はかすみ、よく見えなくなったが、めりめりと音を立てて地面から何かが伸びてきて男達を追撃するのが見て取れてショーターは呆然とした。
いきがっていた男達は皆、まばたき一つする間くらいの一瞬で、木の根らしき物にぐるぐる巻きになって地面に伸びてしまった。明らかに不思議な自然界の力が男達を倒している。何が何だか、さっぱり分からない。
立ち尽くしていると、自分より少し歳下らしいような少女が声をかけてきた。街の大人でさえ逃げていたのに、子供っぽさを残した少女は何の躊躇いもない。
──待て、自分に声をかけてきてくれる前に、彼女は何かに話しかけていなかったか?
目には見えない、けれどおそらくは──自分を助けた何かに。でなければ、この状況に納得のしようがない。
だが、それは何だろう。自然界に影響を及ぼせるのなら……精霊様の力くらいだが、それを扱えるのは聖女のみだ。今、現役の聖女は皇城の特別な神聖宮に住まっている。それに、あまりにも見た目の年齢が違いすぎる。今の聖女は確か、四十路半ばのはずだ。対して目の前に駆け寄ってきた少女はまだ十代半ばにも見えない。
しかし、彼女と相対して、ある事に気づいた。信じられない思いで少女を見つめる。
彼女の髪は麦穂が光を放ったらこの色になるだろうという、ごく淡い茶色で──瞳はアメジストを思わせる紫だったのだ。父親も持つ──皇家の血筋の者のみが受け継げる瞳の色。
知っている。父親が皇家にいたからこそ。聖女とその候補は、皇家の血筋を受け継ぐ女性のみから輩出される事を。ならば、この少女は。
何より、彼女は力を行使して自分を救ってくれたではないか。男達を殺める事なく、いたずらに傷つける事もなく制圧し、正しく。それが可能となったのは、彼女の心が正しい生き方をしているからこそだ。
手には奪われたブローチがある。
目の前には、あどけなさを残しながらも美しい、不思議な少女がいる。その少女に救われた自分もここにいる。
眼前で吹き荒れた風は、何の嵐だったのか?──今や自分の心が知らない初めての衝動に駆られている。心の中が嵐のようだ。
なのに、怖くないのだ。
──ショーターは、ただ、この少女と話したいと思った。話して、同じ時間で、何でもいいから何かを残したいと願った。
おそらくは、遠からず手の届かない存在になる少女と。
それでも出逢えた今に。今だけ。
──これが最後と決めた祭りの日に、わずか遠い浮き立つ楽の音が背中を撫でるのを感じながら。
出逢えた少女を知りたい、今だけ少女を離せないと。
その感情を人が何と呼ぶのかも想像だにせぬままに。
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