第2話

「ミモレ、こっちだよ、早く!」


「おばさん、お母さんは怪我してるの?! 助かるの?!」


「それが……ああ、ここだよ!──ちょいとどいとくれ、娘が来たんだよ!」


息を切らしながら駆けつけた町中の通りでは、豪奢な馬車が停まっていて、その前に人だかりが出来ていた。家族である私が来たと知った人たちは脇に退いて、狭いながらも母への通り道を作ってくれる。考えたくなかった恐ろしいありさまが垣間見え、心臓を搾られる思いで駆け寄り──血まみれになって倒れている母の姿を目の当たりにした。


「お母さん、お母さん! 私よ、ミモレよ!──お母さん!」


「救済院に運べば聖女様が癒して下さるはずだろ!」


「駄目だ、出血が酷くて町外れの救済院までもたねえよ!──それに脚や腕も折れてやがる、多分全身を打ってるんだ。下手に動かしたら……」


「だからって、娘も見てる前でむざむざと見殺しにすんのかよ!」


「──そうとは言ってねえだろ?!」


「お母さん!──お母さん、目を開けて! お母さん!」


繰り返し洗濯して色のくすんだ衣服を着ている母は、全身怪我だらけで頭からの出血が特に目立っているけれど、娘の私でさえ怯えるほどに腕や脚が折れて変な曲がり方をしている。目は白目を剥いていて、呼びかけにも反応しない。


「──まだ息はあるんだ! 聖女様にお越し頂ければ……」


「そうだ、聖女様をお呼び出来れば助かるだろ?!」


辺りがざわめく。──と、一喝する鋭い怒声が響いた。


「──この無礼者どもが! 国の宝である聖女様を、小僧の使いが如くに扱うつもりか! これだから卑しい者どもは厚かましく恥を知らんと言われるのだ!」


あまりにも酷い物言いに、辺りが殺気立って声のした方へと振り向く。馬車の傍らで警護を務めている騎士様が剣の柄に手をかけて、威嚇するように睨みつけてきている。声の主はこの人らしい。


「……お貴族様、卑しかろうが人間を轢いておきながら、だんまりで見物していると思えば……やっと口を開いたら身分のない者は死ねとでも言うんですかい?」


「その女は侯爵様の行く手を遮り妨害したのだろうが!」


「道を歩いてたってだけで罪人みたいな言い方じゃないですか、あたしゃ見たんですよ、その馬車の馬が暴れて……」


「この狼藉者が! 口を慎まねば斬り捨てる!」


いよいよ騎士様が剣を鞘から抜いた。他の護衛している人々もそれに倣う。こちらは全員丸腰だ。さっと恐怖が伝播して皆が青ざめた。


──聖女様には頼れない? ならば、どうすれば母を救えるのか。たった一人の家族であり、私を育ててくれた大好きなお母さん。そのお母さんが、ぼろ雑巾みたいに──惨たらしい言い方だけれど、まさしくそう言うしかない扱いなのだ──地面にうっちゃられている。


「……お母さん……!」


嫌だ。大好きなお母さんを、こんなふうに死なせるだなんて、喪うだなんて絶対に嫌だ。


嗚咽を漏らす唇を、きゅっと噛みしめる。


──その時、私に寄り添っていた精霊達が一斉に輝き始めた。私の傍らから母の元へと移動して、母を取り囲む。精霊達は目配せを交わして、にわかには信じがたい事を話しだした。


まず、水の精霊が「私が流れ出る血を止めるから、地の精霊は折れた骨を治して!」と地の精霊に呼びかけた。地の精霊は得たりや応と頷く。


「任せて。──光の精霊は、体内の損傷を癒して」


「任せなさい。──皆、ミモレヴィーテの母親は死なせない。そうでしょう?」


「もちろん!」


「闇の精霊は、ミモレヴィーテの母親が死の淵に立つのを追いやって! 現世に留めるの」


「分かった、任せろ!」


「えっ……精霊さん達……皆、──きゃあっ!」


母を囲む精霊達が一際強く輝きを放ち、発した色とりどりの光が母の中へ吸い込まれてゆく。母を中心にして突風が吹き、辺りは騒然とした。


「なんだ?!」


「分からねえよ、何が起こって……おい、ちょっと見ろよ!」


「嘘だろ、何で出血が止まってんだ……? それに折れてた手足が治ってるのか?」


騎士様の方を向いていた人達は、もはや皆が傷ついていた母の変貌を見て、驚きを隠せずに母と母に寄り添う私を見つめていた。


横たわる母は、出血が酷かったせいだろう、頬に血の気こそないものの、もはや白目を剥いてはいない。ここが路面でなければ、穏やかに眠っているかとも思える程だ。ところどころ裂けて血の染みが出来ている衣服は酷いものだけれど、衣服の裂け目から見える肌に傷は見えなかった。


「……お母さん……?」


傷が消えた母の手を、恐る恐る握る。──すると、母の冷えた指がぴくりと動いて、次いで瞼が微かに動いた。慌てて母の手首を取ってみると、とくとくと脈打っているのが、きちんと伝わってきた。


「おい、これ……何なんだ?!」


「知らねえよ、風で土煙が上がって目の前が見えなくなったと思ったら……それがおさまったら、もう……」


辺りはざわめいているけれど、私は構わず母にすがりついた。正常な呼吸に上下する胸は温かくて、本当にちゃんと生きている。


「……ありがとう……ありがとう、精霊さん、皆が助けてくれたのね……ありがとう……お母さん、お母さん助かったんだよ、精霊さん達が助けてくれたの」


私と母を囲む精霊達は皆が誇らしげに胸を張り、泣いて「ありがとう」を繰り返す私に、撫でるようなくちづけを代わる代わる与えてくれる。


──この時、私は確かに心から母の命が救われた事を喜んでいた。それだけで胸がいっぱいだった。


だから、精霊さん、と精霊の存在を口にしてしまっていたのだ。今にも息絶えそうだった者が、刹那全ての傷を癒される──そんな奇跡としか言いようのない出来事に直面した人達が周りに大勢いるというのに。


「……今、精霊って言わなかったか?」


「ああ、聞こえたけどよ……でも、あれだろ? 精霊って言やあ聖女様にしか扱えねえ特別なもんだろ?……この子はただの町娘じゃないか」


「でも、ご覧よ。この子の母親の傷は全部治っちまってるじゃないか。──精霊様のお力だよ!」


「そうだよ、あたしたちゃ精霊様の奇跡を見たんだよ! あの土煙も精霊様が起こしたんだ、この子が母親を精霊様で癒すところを見せないようにさ」


「道理でおかしかったわけだよ、あたしゃ母親が馬車に轢かれたって、あの子の家に知らせに行こうと走ってたら何でか町なかの橋に行っちまったんだ! 精霊様のお導きだよ!」


辺りのざわめきに、自分が口走った事の中身の大きさを悟っても手遅れだった。集まっている人達は皆、馬車が人を轢いた事故の衝撃よりも大きな衝撃を受けて興奮している。私は母にしがみついて母の胸もとに顔をうずめながら、母を喪うかもしれない恐怖とは違った焦りに冷たい汗を流した。


──精霊さん達の事は、口にしないと約束していたのに。こんな人前で破ってしまった。


お母さんを助けてもらえたのに。精霊さん達は私のために頑張ってくれたのに。常に私の味方でいてくれた精霊さん達にとっても、悪い事をしてしまったのだろうか?


分からない。


だって、そもそも母がなぜ精霊達と通じ合える事を秘密にしろと言ったのか、誓わせたのか、その理由も意味も知らないままに守ってきただけなのだから。


──ぎゅっと目をつぶった時、背後の気配が変わった。


「そこを退け、侯爵様がお通りになられる!──娘、侯爵様直々に訊ねられたいとの事だ、正直にお答えしろ!」


厳しい声に身をすくませて顔を僅かに上げる。人垣が騎士様達によって半ば強引に割られて、声を上げて騒いでいた人達も黙らせられ目配せしながら口を噤むのが見えた。


ややあって、黒い重厚な召し物を着た壮年の男性が馬車から降りて、こちらに歩み寄って来た。この人を乗せた馬車がお母さんを轢いた、そう思いながらも心はどこか呆然としている。私の周りを飛ぶ精霊達は侯爵様を見て、あからさまに顔をしかめた。だが、相手には精霊達の反応は見えてはいない。ついには私の目の前に立ち、無遠慮に見下ろしてくる。まるで売り物を品定めするような目つきだった。


「──お前、そこの婦人の娘で間違いはないのか?」


「……え……」


「髪の色は良く似ているな。肌の白さも。──答えられぬか?」


「おい、娘! きちんと侯爵様にお答えせぬか!」


凄まれて身体を竦ませる。母は傷こそ癒されたものの、出血が多かったせいだろう、意識まではまだ、はっきりとは戻っていない様子だった。怖くても私が自らお答えするしかない。


「……はい、私はお母さんが産んでくれた娘です……」


「そうか、父親は?」


「……分かりません……お母さんが私を育ててくれました」


「……ふむ」


侯爵様は、そこで言葉を止め、少し考え込む様子を見せた。そして私と母を交互に眺め──くっと口角を上げた。


「お前の母親には悪い事をした。傷は癒えているようだが……大分出血したようだ。事故で精神的にも衝撃を受けているだろう。そこでだが、私の屋敷の別棟に運んで養生させようと思う。もちろんお前も一緒に来なさい。母娘が離れては不憫だからな」


「……それは──」


「ああ、心配する必要はない。医者にもきちんと診せよう。町医者では駄目だ、我が家の侍医に診させて適切な治療を受けさせる」


どうやら、口角を上げているのは微笑みのつもりらしい。ぼんやりと気づいたものの、どうしていいか分からない。母と二人、見た事もない貴族のお屋敷で一時でもお世話になるなど、そんな事は想像だにした事もない。縁もゆかりもない身分の方──それが貴族の方々への印象だった。


だが、侯爵様にとっては相談ではなく通告だったらしい。私の返事も待たずに、侯爵様にお仕えしている者達へ「この婦人を馬車へ丁寧に運べ、視察は延期だ。すぐに屋敷へ戻る事にする」と指示を出した。そして、私に向かって「お前も馬車に乗りなさい」と告げ、近くに控えていた騎士様に「あの娘が馬車に乗り込むのを助けてやれ」と命じた。


「……え……そんな……」


「──娘、立ち上がれるか?」


自分が話すだけ話すと、もう用は済んだと言わんばかりに背を向けて馬車に戻ってゆく侯爵様の背中を眺めていると、立派な体躯の騎士様が手を差し出してきた。自力で立てなければ掴まれという事らしい。狼狽えると、他の騎士様達は早々に母を運ぼうとしていた。


「待ってください、お母さんと私は……」


「──ぐずぐずするな」


強引に腕を引かれて立たされる。抵抗しようにも、幼さを残す私では突然の出来事に対処しきれない。精霊達は不満そうな顔つきをしつつも、彼らをどうこうする気はないようだった。


──ならば、従うべきなのだろうか?


判断する為の材料が少なすぎる。しかし、貴族に対して下手に抗うのは、子ども心にも得策ではないと分かる。


精霊達の態度。身分。それが為に私は抵抗らしい事も出来ないまま、馬車へと連れて行かれた。侯爵様が乗る馬車に控えている、お付きの人が乗る為の馬車へ母娘で乗せられ、ひそひそと何かを言い交わしながら私達を助けようとせずに見送る町の人達を背に、運命の方舟によってか──産まれ育った町から遠ざかっていったのだった──。


……虹を見た後、クッキーを買って……皆で食べようって言ったのに……。


現実逃避だろうか、不意に思った。遠い過去になってしまった、ささやかだけれど幸せだった約束を反芻せずにはいられなかった。


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