第3話
馬車に揺られて連れて来られたお屋敷は、豪奢の一言に尽きた。侯爵様が言っていた別棟でさえも、真っ白な建物は日射しを受けて輝くようで、案内されたお部屋もまた、日当たりが良く内壁だけでなく置かれた家具や敷かれた絨毯までもが、見たこともない高級なもので私はひどく気後れした。町では煤けてくすんだ建物ばかりで、私達母娘も同様の家に住んでいたのだ。すきま風が吹き込む部屋で固い椅子とベッドに慣れていた身としては分不相応にも程がある。見たところ、このお部屋のソファーもベッドもゆったりと大きく、てっきり使用人の人達が休むようなお部屋に案内されると思っていた私には、まるでお嬢様扱いでもされているかのような待遇に恐ろしささえ感じられた。
「ミモレヴィーテ様には、本日よりこちらのお部屋で暮らして頂きます。何か必要なものがございましたらミモレヴィーテ様につくメイドのマルタにお申し付けくださいますよう」
メイド長だと紹介された、貫禄のある女性が──名前はビオラと言っていた──まだ年若く私より少し歳上くらいの女性を控えさせ、淡々と告げる。その女性は私に向かって深くお辞儀をして、「これからミモレヴィーテ様にお仕え致します、マルタと申します」と、なめらかに挨拶してきた。
「……は、はい……お世話になります……」
それにしても部屋が広すぎる。その上お付きのメイドまであてがわれるなんて、扱いの丁重さに萎縮するばかりだ。侯爵様は別棟で母を侍医に診させてくれると仰っていたけれど、所詮平民でしかない母娘なのだから一つのお部屋で母と過ごすことになるとばかり思っていた。
「……あの、お母さんは今……」
馬車から降りてすぐに母とは別にされ、今の部屋に案内された私にとって、それが何より心配だった。母はお屋敷までの道のりでも意識を戻さず、呼吸こそ落ち着いていたけれど血の気が引いた頬は、事故での出血がいかに多かったかを物語っていたし、いくら妖精達が癒してくれたと言っても流れ出た血は体内に戻せないようだった。侯爵様の侍医というお方が診て下さっても、足りなくなった血液はどうしようもないのではないか?──私はお医者にかかった事がないから、治療については何も分からないだけに不安だった。
しかし、ビオラは落ち着いた様子で「ミモレヴィーテ様の母君でしたら、ご心配には及びません。ゆっくりと療養出来るようミモレヴィーテ様とは別のお部屋で休まれておいでですが、看護の者も常に控えております。貧血を補えるように、きちんと薬も出されておりますので」と教えてくれた。
けれど、いくら事故を起こしたからといっても、平民の母娘をお屋敷に迎えて世話をして下さるだなんて不自然に思えて仕方ない。
「あの、せめてお母さんに会わせて頂けませんか?」
たとえまだ意識が戻っていなかったとしても、母が無事な姿を見られれば多少は気持ちも落ち着くはずだ。今は母の傍で母の手を握り、話しかけて寄り添いたかった。
けれど、それさえも「母君には、ただ今侯爵様が付き添われておいででございます。お二人きりにしておいて欲しいと侯爵様は仰せでしたので、侍医も看護の者も隣室に控えております状態ですので、何とぞ我慢なされてくださいますよう」と切り捨てられてしまった。
「侯爵様が……?」
明らかにおかしい。母にこれだけ人手をかけて下さる上に、わざわざ付き添いまでするだなんて高位貴族の旦那様がする事ではない。私にでさえ、こんなに過分なお部屋を用意して下さっているのだから、おそらく母には更に贅沢なお部屋を使わせて下さっているだろう。その予測は、次に続いた言葉で裏付けられた。
「──はい。侯爵様の、亡くなられた奥様が療養にお使いあそばされておいででしたお部屋にてお休み頂いております。お二方が到着なさる前に早馬で、何一つ不足のないように準備せよと侯爵様からのご命令を受けておりました」
「──」
私は言葉を失くして息を呑んだ。立ち尽くす私の周りを、精霊達が心配そうに飛んでまとわりつき顔を覗き込んでくる。
「ミモレヴィーテ、お母さんなら大丈夫」
「そう、私達が癒したもの。すぐに良くなるわ」
「それに、ミモレヴィーテには私達がついてる」
「……あ……皆……」
精霊の言葉で精一杯励ましてくれる皆の気持ちがありがたく、彼らを落胆させるような仕打ちなど出来ようはずもない私は精霊達に微笑みかけた。悩ましい事が多くて、ぎこちない微笑みになってしまったが、それでも私の想いは精霊達に通じたらしい。大丈夫、大丈夫と口々に囀って頬や手にくちづけてくれた。
「──皆、とは。ミモレヴィーテ様、精霊様達がそこにおられるのですか?」
「──! あ、それは、あの……」
落ち着いた様子だけれど、静かに問いかけてくるビオラの低めの声が何やら恐ろしい。幼い頃に母が精霊達について誰にも話さないようにと私に誓わせたのは、今なお私を守る為の事だったのだと雰囲気で感じる。私は返事に窮して俯いた。
「……ご安心を。ミモレヴィーテ様が精霊様達を使役した事は知らされております。まだ屋敷でも一部の者しか知り得ておりませんが……」
「……え……」
「ミモレヴィーテ様、恐れる事も恥じる事もございません。侯爵様はミモレヴィーテ様のお力をご理解の上で、あなた様方母娘を保護なされたのですから」
──保護?
不意と、精霊達が母を癒した時の町の人達が騒ぐ様子を思い出した。あの時の興奮と熱狂。あのままでは、私達母娘は町にはいられずに遅かれ早かれ逃げ出す事になっていただろう。しかし今、母は動ける状態ではないのだ。よしんば家に戻れても、癒しの力を求めて町の人達は押しかけてくるのが容易に想像出来た。正確には私の力で精霊達を使役したのではなく、精霊達が私の為に力を貸してくれただけだと言うのに。──そう、私は精霊達と心を通わせる事が出来ても、使役する方法など分かっていない。精霊達が人々にとって、どのような存在かも分からないのが実情なのだから。
──ぞっとした。
侯爵様は、それらを見抜いて私達母娘をお屋敷に連れて来て下さったのだろうか?
確かに、ここならば安全かもしれない。
「……ありがとうございます」
「お礼でしたら、侯爵様に。──マルタ、ミモレヴィーテ様のお着替えを手伝ってさしあげて。それから熱いお茶を。お疲れでしょうから、甘いお菓子と果物も用意して」
「かしこまりました、お任せください。──さ、ミモレヴィーテ様。湯浴みをお済ませになられて、楽なお召し物にお着替えしましょう。シュミーズドレスをご用意してあります」
「え、あの……」
「浴槽には疲れに効くハーブを浮かべてありますから、お心を落ち着かせられますわ。今日は色々ございましたでしょう、ゆっくりとお湯に浸かって寛いでくださいませ」
優しい口調だけれど、有無を言わせない。私は押し切られるようにバスルームへと連れて行かれた。
「ミモレヴィーテ、お菓子と果物が貰えるの?」
「クッキーはある?」
「町では約束のクッキーを食べられなかったわ、ミモレヴィーテ。でも、私達はミモレヴィーテのお母さんを助けられたから満足なのよ」
「そうそう、ミモレヴィーテはお母さんが大好きだから」
無邪気な精霊達の言葉は温かく、マルタが目の前にいる手前、返事を言葉に出す事は憚られたものの、マルタに気づかれないように精霊達をそっと撫でた。
──私は知らなかった。
その頃、まさに侯爵様が眠れる母の枕元で妖しい笑みを浮かべていた事に。
侯爵様は貪婪に母の寝顔を見つめて、「やっと見つけた」と呟いて──ゆっくりと手を伸ばし、母の白い頬に触れたのだ。
「アムース子爵の娘……サリエル、あの時は既に君の心はあの男のものだった。でも今は違う。私もまた変わった。見ている事しか出来ない無力な若造ではないんだ」
そして、口角をくいと上げる。細められた目は胡乱に光っている。
「サリエル……歳月が翳らせてもなお失われない、清らかな美貌だな。ミモレヴィーテと言ったか……あの娘は美しくなるだろうが……目元や瞳の色が君に似ていない。あの男の血のせいだ。──誰かいるか?」
呼び鈴を鳴らし、人を呼ぶ。侯爵様に仕えて長い執事が現れ、頭を垂れた。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「すぐにアムース子爵家へ書簡を送る。サリエルをアムース子爵家の娘として私の後添いに迎え、妻とすると」
「ですが……確か、アムース子爵家はサリエル令嬢をかつて勘当されていたかと」
「勘当か、そのようなものは取り消させる。アムース子爵家は領地の不作で運営が苦しいと聞くが、それを援助しよう。サリエルと引き換えにな」
「──は、かしこまりました」
アムース子爵家。
私ミモレヴィーテは生まれた時から平民だった。それが当たり前に与えられた生だと信じて疑わなかった。父がいなくとも、母がいて満たされていた。
知らなかった。母がアムース子爵家の娘であった事を。
私は、母の事を何も知らなかった。
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