第4話
「──さ、ミモレヴィーテ様。こちらでございます」
マルタに案内された浴室は汚れひとつなく磨き上げられていて、大きな白い浴槽からは柔らかい湯気が立ちのぼっていた。ほのかに、ハーブのものらしき優しい香りが漂ってくる。
着ていた服を脱がされてタオルを纏い、──服を脱ぐだけでもマルタは手伝うと言ってきて、私は自分で脱げますからと必死に抵抗したものの聞き入れてもらえなかった──浴槽へと促され、恐る恐る張られたお湯へと足を浸けてゆく。ぬるくも熱くもない温度は幼子が母から受ける抱擁のように温かい。
浴槽に足を浸けて立ち尽くし、どうすればいいのか分からずに戸惑っていると、マルタがやんわりと「腰をおろして足を伸ばされ、どうぞ楽になさってくださいませ」と教えてくれた。躊躇いつつ言われた通りにすると、お湯が身体を包み込んできて、初めて体験する心地良さに私は驚きながらも知らず息をついていた。
「お湯加減はいかがでしょうか?
熱くはないですか?」
「あ、大丈夫です……あの、気持ちいいです」
「でしたら、ようございました。ゆっくりお湯で肌を柔らかく致しましたら、私が洗わせて頂きますわ」
「?……洗う……?」
浴槽すら初めて見た私からすれば、何もかもわけが分からない。お湯に浸かる事の他に、何かあるのだろうか。この浴室ではお湯に浸かるだけでなく、身体も洗うのか?──だとしても、幼い子どもでも病気の身でもないのに誰かに身体を洗ってもらうだなんて、まさか貴族の方々は皆様、自分の身の回りの事全てでメイドとして働く人からお世話を受けているとでもいうのか?
「失礼ですが、普段はどのようにお身体を洗われておいででいらっしゃいましたでしょうか?」
「あの、身体を洗いたい時は桶に水を汲んできて……布を濡らして身体を拭いていました……」
侯爵様のお屋敷に来てからというもの、身分違いの扱いをまざまざと感じてしまい、萎縮するばかりだ。けれど、マルタは見くだす様子もなく微笑みかけてきた。
「左様でございましたか。お湯は貴重なものでございますから、ミモレヴィーテ様が馴染みのない事も致し方ありませんわ。私達のようなお屋敷で働く者どもも同様に身体を洗っておりますのよ」
「そうなんですか?」
こんなにも立派なお屋敷で働けている人達でも、平民である私と変わらないと知って驚く。同時に、ならばなぜ私は今お湯に浸かっていて、それだけでも平民の私には過ぎた贅沢なのに身体を洗うお世話までされようとしているのだろうか。もしかして、私が自分で洗っては洗い方が悪くて浴室を汚してしまうからだろうか?
けれど、私の狼狽を察したらしいマルタが、両膝をついて目線を私に合わせ語りかけてきてくれた。
「生まれてこられてから、ずっと平民としてお暮らしになられておいででしたのですもの、戸惑われる事も多いかと存じます。ですが、ミモレヴィーテ様、これからは私がミモレヴィーテ様にお仕えさせて頂きます。私を雇用しているお方は侯爵様でございますが、私の主はミモレヴィーテ様なのですよ。どうか、お心を平らげてお任せくださいませんか?」
「マルタさん……あの、私は……主というのは、どういう……」
「言葉のままですわ。ミモレヴィーテ様は、もはやこのお屋敷に住まわれる尊いお方の一人でございますもの」
──住まう。私が、この立派なお屋敷に。下働きとして働く身ではなく。
まるで天変地異だ。あまりの衝撃に言葉を失って固まった私をマルタはどう受けとめたのか、「さ、お身体を洗わせて頂きますわね」と甲斐甲斐しく柔らかいタオルを使って、私の身体を流し始めた。そこからは、「力加減はいかがでしょうか?」と訊ねられても「痒いところはございませんか?」と訊ねられても、「……大丈夫です……」としか言えなかった。
──そして、マルタの手で身体を洗ってもらい、浴槽から出てもマルタにタオルで優しく身体の水気を拭われて、着慣れないシュミーズドレスを着せられた。生地の肌触りがなめらかで、驚くほどさらっとしている。裾も袖もたっぷりと生地が使われていて、身じろぎするだけで、ひらひらと舞うように揺れた。
「本来でしたら、香油で全身をお揉みさせて頂きたいところですが……今宵はまだお屋敷においでになられたばかりですので、明日の湯浴みをお済ませになられてからに致しましょう」
「──明日もお湯に浸かるんですか?」
「湯浴みは毎日なさるものですけれど……お嫌でしたでしょうか? それとも、私のお世話に何か不手際が……」
不手際が、と口にしたマルタが悲しげな表情になったので、私は慌てて「不手際だなんて、とんでもないです」と否定した。
「ただ、マルタさんからお湯は貴重なものだと聞いたので……私も今まで、お湯で身体を洗った事なんてありませんでしたし……そんな贅沢をしていいのかと……」
たどたどしく訴えると、マルタはにこりと笑んで「よろしいのですよ、ミモレヴィーテ様にとって、これから湯浴みは日常であり贅沢ではないのですから」と言った。
「それから、私の事はマルタと呼び捨てになさってくださいませ。ミモレヴィーテ様は私の主なのですから」
どうにもおかしい。保護というのは、一時的なものではないのか。宛てがわれたお部屋の行き届いた準備といい、マルタといい、まるでこれから侯爵家の新たな一員としてずっと暮らしてゆくかのようだ。
けれど、その疑問をどう口にすればいいのか分からない。口ごもると、マルタは「そうですわね、ミモレヴィーテ様もお慣れになるまでお時間が必要でしょう。──とりあえず、湯冷めしないうちにお部屋にまいりましょう、熱いお茶と甘いものをご用意しておりますわ。聞いた話では、精霊様も甘いものを好むのですよね? ミモレヴィーテ様とご一緒に頂けば精霊様も喜ばれるのでは?」
「──甘いものですって、ミモレヴィーテ!」
「甘いお茶も欲しい、クッキーと一緒に食べたら美味しい!」
服を脱いで湯浴みをしている間、離れておとなしくしていた精霊達が途端に声をあげてはしゃぎだす。──そうだ、精霊達は私がどうなろうと一緒にいてくれるはずだ。物心つく前から身近に寄り添ってきてくれた友達以上の親しみある存在が見守ってくれると思えば、少しは安心出来る。
そう思い、私はようやく微かな笑みを浮かべる事が出来た。
「──ありがとうございます。あの、クッキーもありますか?」
さすがに言われてすぐにマルタと呼び捨ては出来ない。それでも、マルタは「ええ、ございますよ。お紅茶にはお砂糖か蜂蜜か、どちらをお好みか分かりませんでしたので、両方ご用意しております」とにこやかに答えてくれた。その言葉に精霊達が歓声をあげる。どうやら、精霊達はマルタを憎からず感じているらしい。私もマルタに対しては、環境の変化の激しさに怖気付いてはいても良い人なのではないかと感じられていた。
「嬉しいです。ありがとうございます」
「どういたしまして、ミモレヴィーテ様と精霊様がお喜びになるのでしたら、私も嬉しいですわ。スコーンもございますよ。合わせるものはジャムとクリームをご用意致しましたので、お好きなようにお召し上がりくださいませ」
話しながら、初めに案内されたお部屋へと連れて行ってもらう。すれ違う使用人らしき人が皆私にお辞儀をしてくるので、一人一人に頭を下げていると、マルタから「ミモレヴィーテ様、その必要はございませんわ」と窘められてしまった。
お部屋は明かりが灯されていた。促されてソファーに腰をおろすと、すぐにお茶とお菓子に数種類のフルーツが運ばれてきた。フルーツは綺麗にカットされていて、一口で食べられる大きさになっている。普段飲み慣れないお茶には、どれくらいお砂糖や蜂蜜を加えればいいのだろうと迷うと、精霊達が「このくらい入れて、ミモレヴィーテ」と指示してくれた。
お茶は香りが花のようで、お菓子と合わせて頂くととても美味しかった。そのお菓子も、お砂糖とバターがふんだんに使われていて、甘くて濃厚な味わいだった。こんなに美味しいものを口にするのは初めてで、給仕をされながら食べる事に落ち着かない緊張感はあったけれど、目の前で精霊達が喜ぶ姿を見ていると、それでも心はなごんだ。
「精霊様がお菓子を召し上がるなら、お菓子が浮いてみたり消えていったりするものと思っておりましたが、拝見しているとミモレヴィーテ様お一人が召し上がられているようにしか見えませんのね、不思議です」
「精霊さんは食べ物を持ち上げられないので、食べ物のエネルギーだけを食べるんです。なので、精霊さんが食べたお菓子は見た目こそ変わりませんが味も栄養もなくなります」
「まあ、そうなのですね。精霊様とは本当に神秘的な存在ですわ。お茶とお菓子は喜んでおられますか?」
「はい、とても」
興味深そうに訊ねてくるマルタに笑顔で頷くと、彼女も相好を崩した。
「それはよろしゅうございました。──ミモレヴィーテ様、軽食もございますので、お召し上がりくださいませ。そうしましたら、本日はお疲れでしょうからお休みになられるようにとの侯爵様からのご伝言でございます」
「あ、……その前に、お母さんにひと目でいいので会えませんか?」
それは、ずっと気になっている事だった。そろそろ意識は戻っている頃だと思うものの、しかしマルタは首を縦に振ってはくれなかった。
「気がかりではございましょうが……お傍には侯爵様が付き添われておいででございます。侍医も控えておりますので、どうか今夜だけは我慢なされてくださいませ。──ご安心ください、お母君様は無事に目を覚まされたと伺いましたわ。明日には笑顔でお迎えくださいます」
断りに表情を曇らせた私を見てとり、マルタがすぐに情報を付け足す。お母さんが目を覚ましたと知れて、本当ならば一刻も早く顔を見たかったけれど、いくらか安堵は出来た。
──結局、精霊達とお腹いっぱいに美味しいものを頂いて、ベッドに入らされた。ふかふかのベッドは身体を包んで雲の上に横たわっているかのようだ。ぺったりと薄くて固い布団に慣れていた私は、落ち着かなくて何度も寝返りを打った。気持ちいいのに寝つけない。
すると、宵闇の中で光る蝶のように鱗粉にも似た軌跡を残しながら光の精霊が目の前を飛んで話しかけてきた。
「ミモレヴィーテ、心配でしょうけど寝なさい。──私が子守唄を歌ってあげる」
「精霊さんの子守唄……?」
それは、激しい雷雨に怯える夜とか、お母さんが疲れて寝てしまっても寝つけずに震える時、精霊が歌ってくれる特別な歌だった。どんなに怯えていても、聞いているうちに、すっと眠りに入る事が出来る優しい声音の歌。
光の精霊は、私の返事を待たずに微笑んで歌い始めた。
「──おやすみ、おやすみ、愛しいあなた」
その声に、身体がベッドへと沈んでゆくのを感じる。
「月が満ちて星を見守るように、あなたは常に愛が見守る」
待って、もう少し話し相手になって。そう言いたいのに、瞼がとろりと重くなる。
「見守る寝息よ安らかに、夢へといざなえ満たされて」
もう、声も出ない。石鹸の香りがする枕に顔をうずめて、やがてその香りも遠ざかる。
「おやすみ、おやすみ、愛しいあなた、眠りの国でも独りにならず……」
──そうして私が眠りに就いた時、意識を取り戻したお母さんは侯爵様と向き合っていたのだ。
侯爵様は、まずお母さんに謝罪した。
「──まずは、すまない事をした。私の乗る馬車が視察に向かう途中の道で、君を害してしまった……さぞ恐ろしくも痛い思いをした事だろう。どうか許して欲しい」
「……ガラント侯爵様……と、お見受け致します……私はこの通り無事ですので……それよりも、ここは」
「勝手ながら、私の屋敷へ君の娘と共に運ばせて頂いた。──馬車に轢かれた君は瀕死の重傷を負っていた。それを君の娘が精霊を使役して治癒させた。……これが意味する結果は分かるはずだ」
「ミモレ……ミモレヴィーテは普通の娘です……! 精霊様の使役など有り得ません」
「けれど、事実は町の住人達が目の当たりにしてしまった。──私も見たが、彼女が起こした奇跡の御業は本物だった……そこで、だ」
ああ、と震える両手で顔を覆うお母さんの、その手に侯爵様は自分の熱い手のひらを重ねた。
「君達母娘は私が守る。その為にも──アムース子爵の娘として、君には私と結婚してもらう」
愛の言葉の代わりに、侯爵様は繰り返し「大丈夫だ、悪いようにはしない。必ず守る……」と囁きかけていたのだ──それが真実の何を意味するか、お母さんが知ってか知らずかは問わずに。
……私はその頃、深い眠りに就いていた。夢さえ見ない眠り。
夢に見てしまえば、恐ろしい何かを知ってしまう。だから、光の精霊は私をひたすらな眠りに落としたのだった。──いつかは知る時が来るであろう、けれどそれは今であってはならない、と。
許された時の目一杯を、愛に包まれた、ただのミモレヴィーテであれと。
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