第19話

──月日が経つのは早いもので、聖女様がお住まいになられる皇城内部の神聖宮で、お茶会にお呼ばれしてお話しするようになって、もう数か月が経った。初めのうちこそ縮こまって聖女様のお話しする事を聞き、忘れる事のないようにとばかり考えて余裕もなかったけれど、聖女様がとても柔和に接して下さるので、緊張は堅苦しさを解いてゆくようになった。


お茶会の場は神聖宮のお庭か応接室で、今日はお天気が良いからとお庭で開かれている。応接室はどことなく閉塞感があるので、開放的なお庭でのお茶会はありがたかった。芝生は青々として艶があり、植栽も様々な草木や花が調和を成すように計算されていて上品でありながら落ち着く空気を醸し出している。


「ミモレヴィーテ様、聖女という者は求められれば、どこにでも赴きます。──たとえ戦地であっても」


「戦地にも……危険な場所ですよね?」


私はそこを想像してみた。飛び交う怒号、流れる血、生命の奪い合い──戦争を知らない私にとって、それは漠然としていて、ただ戦争というものは恐ろしくて多くの犠牲を伴うとしか分からなかった。


「私は精霊様達によって護られますので護衛は必要ございませんのよ。野戦病院にて運ばれてくる方々の癒しに集中するのみでしたわ……あれは、まだミモレヴィーテ様がお生まれになる前の戦でしたわね。今でこそ平定されて、国は平和を享受しておりますが」


「そうなのですね……」


「例えば上級精霊様達ならば、空間を丸ごと固定して、その場にいる全ての人を癒せますわ。それ程のお力をお持ちなのですよ」


「……凄いです……」


聖女様とお話ししていると、常に自分が精霊達によって恵まれていると思わせられる。そこに押しつけがましさはなく、むしろ聖女様からの憧憬を感じていた。


「──さて、本日はここまでに致しましょうか。日が暮れるまでにご帰宅なされないとミモレヴィーテ様の父君様がご心配されますもの。父君様には、血の繋がりこそございませんけれど……大切にして頂けておりますか?」


「……はい、それは……不思議な程大切にされております。私が精霊さん達と自由に集えるようにお庭まで整えて下さって……その上お部屋も別棟で一番広いお部屋を使えるように調度を揃えて下さったのです」


「それは良かったですわ。そう言えば、母君様もそろそろ産み月でしたわね。お身体は健やかに保てておられますか?」


「はい、初めは悪阻が苦しい様子でしたが……安定期に入ってからは落ち着きました。侍医によると双子らしくて、赤ちゃんも順調にお腹で育っているとの事です」


「それはよろしゅうございましたわ、ミモレヴィーテ様にも弟妹が増えるのは嬉しいですわね」


めでたいことと微笑んで下さる聖女様の瞳が、微かに寂しさを帯びる。そういえば聖女様もお子様がいてもおかしくない年齢さえ過ぎておられる。私がまだお会いした事がないだけで、皇城では聖女様のお生みになられたお子様も育てられているのだろうか?


「聖女様のお子様は、どちらにお住まいであられますか?──聖女様のお子様ならば、きっと素晴らしいお方と思われるのでございます」


私はつい無邪気に訊いてしまったが、無邪気な事と残酷な事は紙一重だ。刹那、聖女様の微笑みが翳る。


そうして聖女様は悟りきった面持ちで告げた。


「聖女とは、子を成してはならぬ存在なのでございます。子を生めば神聖力が衰えてしまうのです。それでは、聖女としての働きに支障を来たします。故に、歴代の聖女は大半が、力を使い尽くすまで独身でおりますのよ。……ミモレヴィーテ様には長い未来がございますので、このような悲しい事はまだしばらくお教えしないでおこうと思っておりましたが……」


「聖女は……子供を授かってはいけない……?」


一陣の風が吹き、木々の葉擦れの音が耳を塞いで埋める。分かるのは目の前の聖女様からの、心の痛みを分かつ同情の眼差しだけになった。


「……それは、聖女様には大変失礼な事をお訊ねしてしまいました……申し訳ございません、お許しくださいませ……。私は……いつかは知るべき事でした……」


「そうでしたわね……私への謝罪等ご無用ですわ、ミモレヴィーテ様。この事は国民には知らされておりませんもの」


「そう、ですか……」


──それから、私は聖女様にどうご挨拶申し上げて帰宅の途に就いたか記憶にない。ぼんやりと聖女様から知らされた現実を反芻していると、いつの間にか馬車は侯爵家のお屋敷に着いていた。


そうして帰宅してみると、お屋敷が何やら騒がしい。白い看護服を着ている女性達がしきりにメイド達へ指示を出しているのが耳に飛び込んでくる。何かあったのかと不安になり立ち働く人の一人に「これはどうした事なの?」と声をかけた。


すると、私が引き止めたメイドは興奮した様子で「奥様が、早産となりますが産気づきましたのでございます。侯爵様には知らせが行き、急ぎ皇城からご帰還なされている途中かと存じます」


「まだ産み月ではないのに……お母様はご無事でおられるの?」


私が焦って畳みかけると、通りがかった他のメイドが話しかけてきた。


「──ミモレヴィーテ様、ちょうど良い時にご帰宅あそばされました。奥様がミモレヴィーテ様にお会いしたがっております。侯爵様もまだお帰りではございませんし、さぞお心細い思いでいらっしゃるのでございましょう。──さ、奥様についていて差し上げて下さいませ」


「──はい、すぐ行きます」


お母さんが今、独りで産褥と闘っている。ガネーシャ様やブリジット様にとってもお父様の血を引く弟か妹が生まれる事になるけれど、お二人は今なおお母さんを表面上でこそ父親の妻──お母様とお呼びになりはしても、心を許して気兼ねなく慕う等考えられない状態が続いているのだ。今このお屋敷でお母さんに寄り添えるのは、私しかいない。


「──お母さん、私よ。お母さんのミモレよ。しっかり……!」


「ミモレ……来てくれたのね」


ベッドに横たわるお母さんは弱々しく呟き、しばし苦しみ悶えてから息をついて「ミモレ……手を……」と痩せた手を差し出した。迷わずその手を握り、私はお母さんを励ます言葉を探す。


「お母さん、大丈夫よ。お母さんは私の事だって頑張って生んでくれたわ。その後も、働きながら私を育ててくれたもの」


「……そうね……あの時は必死だったわ……あなたを愛し育てる事が私の全てだったのよ……。今もね、生まれてくる子は何であれ私の子でもあると分かっているの。私には、自分がお腹で育んだ子を……慈しみこそすれ……疎ましく思うなど、出来ない事も分かっているわ……」


ここにお父様がいなくて良かった。明らかにお母さんはお父様との間の子を望んで授かったと考えていない発言だ。だけど、それでもお母さんは生まれてこようとしている子供を慈しむ覚悟をしている。母という存在の力強さを私は痛感した。


お母さんの言葉は掠れている声で聞き取りにくく、そして途切れ途切れで、私は膝をついてお母さんの口許に耳を寄せていた。お母さんは、そんな私に陣痛の中で手を伸ばし頭を撫でてくれた。


「……ミモレが、いつか愛する人と結ばれて、その人と幸せに添い遂げられる事を願っているわ。心から、愛する人との子供に恵まれて……そして幸せな家族として暮らすのよ……全てからとは言わないわ、けれど世界の幸せな何かから祝福されて……」


「……お母さん……!」


そこでお母さんが激しく身悶え、私は看護服を着た人達によって引き離された。生みの苦しみに声を上げるお母さんに何かしてあげられる事はないのか。そう考えたものの、「お嬢様はお部屋にお戻りくださいませ、じきに侯爵様がお見えになります」と、部屋から出されてしまった。


精霊達が私を案じてくれているのが気配で分かる。私は精霊達に「お母さんについていてあげてちょうだい。どうか、お母さんを守って……」と頼んだ。返事の代わりに、精霊達の光の粉が尾を引いてお母さんのいる部屋へと向かうのが見えた。精霊達が助けてくれるのなら、お母さんはおそらく大丈夫だろう。


後ろ髪を引かれる思いで、それでも私は自室に行くしかない。忙しなく動き働く人達の流れを邪魔しないように避けながら、私はとぼとぼと歩いて別棟の自室に戻った。


お母さんの願いが籠められた言葉を思い返す。


愛する人と……けれど聖女というのは、役目を終えるまで……子を成してはいけないと聖女様が仰った。お母さんにも私にも叶わぬ願いとなってしまう。


お母さんが私に託そうとした切なる願いが、心に刺さって胸を痛める。泣きたいようなのに、涙は出なかった。いっそ声を上げて泣けたら、どれほど心は救われるだろう。


……不意に、私はショーターと過ごしたお祭りの思い出を、切なく思い出した。


この思い出から生まれる感情が、恋か愛かも分からない。けれど、ショーターがくれたペンダントは偶然にしては出来すぎた程に運命的な品物だった。アーティファクトという、自分と上級精霊達を結びつけた宝物。


そして何より、ショーターと過ごした時間の尊さ。あの時の私達は無垢な幸せで輝いていた。何のしがらみも打算もなく、純粋にショーターと向き合い並んで歩いて、共に笑えた。それはペンダント抜きでも私を支えてくれている宝物の時間だった。


会いたいと思った。今──今だからこそ、再びショーターに会いたいと願わずにはいられなかった。


──と、ドアがノックされる音が聞こえて我に返る。いつの間にか日はとっぷりと暮れて、部屋は薄暗い。私は「──はい、どうぞ」と返事を絞り出した。


「ミモレヴィーテ様、遅くなり大変申し訳ございません……まあ、ミモレヴィーテ様、このように暗いお部屋にお一人で……!」


マルタが入ってきて驚きの声を出す。マルタは慌てて燭台に明かりを灯し始めた。


「今宵の晩餐は各々お部屋で頂くようにとの侯爵様からのお言葉でございます。ミモレヴィーテ様も……奥様がご心配かと存じますが、ご出産には都でも随一の者を集めておりますので……」


「ありがとう、マルタ。精霊さん達もお母様についてくれているもの、……きっと、大丈夫よ……」


「精霊様が?──ならばご心配ありませんわ、大船に乗ったつもりでお待ちくださいませ。ただ今お食事を配膳させて頂きますので、お気がかりでしょうが少しでもお召し上がりください」


「ありがとう……でも、食欲がないのよ。ごめんなさい」


「ミモレヴィーテ様……いけませんわ、ただでさえ本日は聖女様のもとへ上がってお疲れですのに、お食事がご無理でも──果物とお茶だけでも口になされてくださいませんか。ミモレヴィーテ様がこの様子では、奥様が知ればご心配をおかけしてしまいますもの」


マルタの言う通りだ。空腹は感じないし食べたくもないけれど、お母さんに心配をかけるのは絶対に駄目だ。しっかりしなくては。


「分かりました、マルタ。軽い果物とお茶をお願い出来るかしら」


「ええ、もちろんですとも。すぐにお持ち致します」


手つかずに終わる食事を載せたワゴンを押して、マルタが一旦下がってゆく。私はまた思考の海原に身を投じた。


──私は、私にこそ出来るのであれば、私が救える人を救いたい。求められるがままではなく、自らの意思でもって。


誰かのために誰かの生命を繋いで、それで幸せがこの世に増えるならと思う。


お母さんがくれた私への思いのように、私のお母さんへの思いのように、寄り添う心を尊いと知っている。


世の中にそれが満ちれば、それは素晴らしくも優しい世界ではないだろうか。


世間知らずの子供の発想かもしれない、綺麗事かもしれない。


でも、精霊達が私に力を貸してくれたり励ましてくれる、その優しさは循環させるべき愛だと思う。


それは次なる聖女を担うとされた私に芽生えた信念の始まりのようなものだった。


叶わない願いは願いのまま心に抱いている事を、せめて許して欲しい。ショーターがくれた時間と思い出が色褪せないように。心の中では自由に息づいていられるように。


それは、私が私として、私から逃げずに生きてゆく為に必要な願いだから。


──そしてお母さんが夜一夜苦しみ抜いて、明け方に元気な双子の男女を生んだ。


男児はお父様に良く似た男の子で、女児はお母さんそっくりの、さぞや美しくなるであろう女の子だった。


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