名もなき語り手の物語を広めましょう

 星々が水面に映り、夜風が花の香を漂わせる異国情緒あふれる水上宮殿を舞台にした物語です。

 主人公は、人間以下の扱いを受ける名もなき奴隷の少女「わたし」。蔑まれ嘲られる日々に彼女が耐えられるのは、サンパギータという女神のような、けれど物言わぬ人形の姫に仕えているから。ひとりでは食事もできないサンパギータに甲斐甲斐しく傅きながら、「わたし」は夜ごと物語を紡ぎます。どうして知っているのか、彼女自身も覚えていない多彩で美しく面白く、時に悲しい物語の数々を。水上宮殿に語り手の青年が現れた時、サンパギータの中に降り積もった「わたし」の物語は花開きます。その花の色は形は、種はどこからやってきたのか──それは、物語を見届けることで分かるでしょう。

 物語を紡ぐこと、物語が人の心に与える感情の波の可能性を高らかに歌い上げるような作品です。虐げられた少女が心を慰めるために紡いだ物語が、宮の祝宴で語り直される時、万座の聴衆を惹き込む力が生まれる。醜い嫉妬を語ったはずが、聴衆は自らの心の影を聞き取って共感し大いに頷く。蔑まれたサンパギータや「わたし」が、王の心さえ手玉に取ることができてしまう。語られること、によって物語の力は何倍にも増すのだと、物語の書き手の端くれである者としては勇気づけられる思いですし、読み手としては、作中と現実とで、良い物語を紐解く興奮を二重に味わうことができるでしょう。

 また、「わたし」の心情を描く筆致の繊細さと柔らかさ、芯にある力強さも本作の魅力です。
 虐げられた者の見上げる目線が描き出す宮殿の人々の傲慢さや残酷さ、嫉妬や卑屈さの的確で、そして時に辛辣なこと。辛い境遇に打ちひしがれて諦めながら、サンパギータの美しさを称え、自然の移ろいに目を止めて耳を澄ませる細やかな心。嫉妬や独占欲といった暗い感情に囚われた場面、「わたし」に共感できるのは、彼女の心の中心にある思いが純粋でひたむきなものだからだと思います。宮殿の華やかな暮らしや、美しい青年に救われること、彼と共にあることよりも彼女にとって大切なものは何なのか──それもまた、物語が語ってくれます。

 水上宮殿の、花とスパイスと香油の香りが漂う宴に招かれたような感覚。か弱く、同時に強い無名の語り手の心に寄り添う感覚に浸れる作品です。物語の女神の導きに従って、この美しい物語を語り伝えたいと思います。

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