第11話

 キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴り、僕は顔を上げた。時計を見上げると十七時を指していて、カーテンの隙間から真っ赤な光が図書室内に入って来ていた。集中して勉強すると時間が過ぎるのもあっという間だ。

「うーん、疲れた……」

 葵もチャイムで集中力が途切れたようでグーっと背伸びをしていた。葵の起伏の少ない前半身が綺麗な弧を描く。その後、横に体をねじったりして勉強で凝り固まった体を伸ばす。

 一通りストレッチを終えた葵は僕に話しかけてきた。

「そろそろ行ったほうがいいんじゃない?」

「え、まだ十七時だけど。あと三十分くらいはできるんじゃないか」

 確か図書館の閉館時間は十七時半だったはずだ。帰ってしまうにはまだ少し早いような気がする。

 葵は「何を言っているんだ?」と言わんばかりに目をパチパチさせながら首を傾げた。

「岬さんと一緒に帰るんでしょ、迎えに行きなさいよ」

「え? ああ、うん」

 そういえば深愛もそんなことを言っていた気がする。この辺は前の世界と勝手が違いすぎて慣れない。言われるがままに帰り支度を始めるが、葵はそのまま教科書に目を落として勉強を再開する。

「あれ? 葵は?」

「私はもうちょっと勉強してくから。今日はありがとう。今度お礼する」

 目線を下に落としたまま葵はそう返答する。せっかく勉強を頑張っているのに水を差すのもよくないか。そう思った僕は勉強道具を仕舞い終わったカバンを背負おうとすると、葵は手を動かしながら声を掛けてきた。

「小学生の頃も思ってたけど、翔也って勉強教えるの上手いよね」

「そう? 普通じゃない?」

 僕の学力は中の上くらいで、飛びぬけて優秀とは言えない。ケアレスミスもよくするし、難問なんか絶対に初見じゃ解けない程度だ。それに学力の化け物が近くにいたこともあって、自分のそういう能力に自信を持ったことは一度もない。

「なんかさ、私が躓いているところをちゃんとわかっててそこから説明してくれるから聞いててわかりやすい」

「それは僕も同じところで間違えたことがあるから教えられるだけだよ。ある程度勉強してれば誰でもできる」

「……褒められたら素直に受け取りなさいよ。それに、誰でもできることじゃない。私の中学の先生なんかわからない問題を質問に行っても、私がわからないことをわからない言葉で説明してくるから、何もわからないままウンウン頷くことしかできなかった」

 今何回わからないって言ったんだろう。

 正直、あんまり褒められたことのないところだったのでピンと来ないけれど、葵に褒められるのは素直にうれしいので喜んでおく。

「……ありがとう」

「よろしい。じゃあまた来週」

「また、来週

 そんな挨拶を交わして僕は図書室を後にした。まさか葵と「また明日」と言える日が来るなんて思ってなかったから、ちょっとだけむず痒かった。

 部活で残っていた生徒たちがまばらに下校している昇降口にやってくると、そこには通学かばんを手にした深愛が僕のことを待っていた。

「お疲れ様、翔ちゃん」

「深愛もお疲れ」

 深愛はきょろきょろと周りを見回す。

「栗原さんは?」

「もうちょっと勉強してくって」

「そうなんだ。……二人きりだね」

 顔を赤らめてそんなことを言う深愛に、僕はドキッとさせられる。深愛って恋人相手にはこんなにいじらしいのか。その相手が僕というのがなかなかに複雑なんだけれど。

「……ほら、帰るよ」

 自分の顔が赤くなっているのを夕日で隠そうと、僕は日陰から出て校門に向けて歩き出した。

 深愛の容姿の良さは昔からわかってはいたけれど、恋人に対してこんな風に甘えるようになるとは思っていなかった。

 出会った頃の深愛はかなりの引っ込み思案で僕以外の男子とはまともに会話ができないほどだった。僕とは話せたけど、それでもやはりペラペラ喋るというタイプではなかったし。そういえば、なんで僕とは話せたんだろうか。昔の記憶過ぎてあんまり覚えていないや。

 いつからか社交的になっていったけれど、今度は僕に対して周りより遠慮がちに話すようになったと思う。だいたい小学生高学年くらいからだろうか。こっちも心当たりは特にない。

 こう考えると僕は深愛とずっと一緒にいながら、深愛のことを全然知らないんだな。この世界の鉄翔也は、僕よりも岬深愛のことを知っているんだろうか。知ってるだろうな、恋人なんだし。……そう思うとなぜだか胸がキュッと締め付けられた。

「ね、翔ちゃん」

 そんなことを考えながら歩いていると、横を歩いていた深愛が一歩距離を詰めてきた。のけぞりそうになりながらもそれを堪える。

「ど、どうしたの?」

「……手、つながないの?」

「へ?」

「二人の時はいつもつないでるじゃん」

 深愛はそう言って僕の腕を自分の胸に引き寄せる。僕の知らない柔らかな感触が合って、ドギマギしてしまう。というかこの世界の僕は二人きりなら手をつないで下校してるのかよ、バカップルかよ!

「えーっと……深愛はつなぎたいの?」

 突然のスキンシップに混乱してしまった僕は自分でもよくわからない言葉を発してしまった。……いや本当に何を言ってるんだ僕は。

 僕の意味不明な問いに対し、深愛はちょっと俯いて――

「……うん」

 と小声で答えた。そんな風に言われたら、拒否できないじゃないか……。

「じゃあ、つなごうか」

 そう言って僕が差しだした右手を、深愛の左手が受け止める。そして指を一本一本絡ませてきて、いわゆる恋人つなぎが完成した。もちろん、僕の主観ではこんな風に手をつなぐのは人生で初めてだ。手汗をかいていないか、少し不安になる。

 動揺している僕に気付いたのか、深愛は上目遣いで僕のことを見てきた。

「今日の翔ちゃん、ちょっと変だね」

「……そう?」

 実際、昨日までとは別人のようなものだし、そう思われても仕方ない。けれど、次の深愛の言葉に僕の心臓は今までとは別の意味で心拍数を高めた。

「なんか昔みたい」

 ドキリとする。まさか中身が変わっているとバレてはいないと思うけれど、それでも核心を突く深愛に驚きを隠せなかった。

「でも新鮮で好きだよ」

 けれどそんな僕の心情を知ってか知らずかまっすぐ好意を伝えてくる深愛に対して、彼女の目をまっすぐ見ることができなかった。世界がどうとか、過去がどうとか、そんなことを考える余裕もないまま心臓の高鳴りを抑えることに集中していたら、いつの間にか家に着いていた。

「あたしが鍵開けるね」

 当然のように合鍵を出した深愛は、家に入るために僕とつないでいた左手を離した。

 僕は離された右手を見つめながら、名残惜しさとともになぜか、後ろめたさを感じていた。誰に対する後ろめたさなのかは、自分でもわからなかったけれど。

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