第8話

 次に目が覚めた時、僕は自室のベッドで横になっていた。カーテンの隙間からは光が漏れていて、どうやら朝が来ているらしい。体を起こして辺りを見回すと、ハンガーには高校の制服がかかっていた。ふと自分の手元を見ると、明らかに小学生の手のサイズではなかった。

「……夢だったのか?」

 さっきまでの記憶――祖父のいる白い病室でのことではなく、五年前に戻っていた記憶――は、ちゃんとある。でも普通に考えれば過去に戻れることなんてできるわけがない。そんな記憶は全部夢の中のものだという方が自然な解釈だ。

 過去に戻っていた記憶を夢だったと仮定するにしても、一つだけ問題がある。一体どこからどこまでが夢だったんだろうか。

 五年前に戻ったところから? あの胡散臭い魔女、ケレスに会ったところからか? それとも……葵にこっぴどく振られたところからだろうか。

 リンゴを食べたところまでが現実だとすれば、あの後僕は道端に倒れ込んでいたはずでこうして自室で平穏な朝を迎えているというのはなかなか不自然だ。親切な誰かが助けてくれたにしても無理やり起こされるなり、病院に担ぎ込まれるなりするはずで。だとしたら、僕にはどこからが夢でどこまでが現実なのか、区別する情報がなかった。少なくとも僕の主観ではすべてが生々しい現実として感じられたから。

「……とりあえず、起きるか」

 昨日は金曜日だったから、今日は土曜日。残念なことにうちの高校は土曜授業があるので今日は登校日だ。夢見が悪かった、なんて理由で高校をサボれるほど肝は据わっていない。

時計の針は午前七時半を示している。そこまで急ぐような時間じゃないけれど、その内母さんが部屋に起こしに来るだろう。幸いなことに寝覚めはいいし、支度はしてしまおうか。

 トントントン

 パジャマを脱いで制服を着ようとしていると、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。どうせ母さんだろう、と思いながらのそのそと着替えを続ける。着替えを母親に見られたくないなどと思うほど思春期をこじらせてはいない。

 ガチャリ、と扉が開いた。早く起きなさい、なんていう母さんのセリフを制するために僕は口を開く。

「もう起きてるよ母さ……」

 ……ちょっと待て、確か母さんは締め切り間際で昨日から編集の人とホテルで缶詰めのはずだ。じゃあこれはいったい誰なんだ?

「翔ちゃん、朝だよ」

 そう言って僕の部屋に侵入してきた人物は予想通り母さんではなかったけれど、予想外の人物ではあった。

「えっ、深愛……なんで?」

 突然現れた深愛に僕は酷く混乱した。深愛と僕は確かに幼馴染だが、僕の家にやってきた深愛に朝を起こされたことなんか生まれてこの方一度もない。そして当然今日起こしてもらうように約束した覚えもない。

 しかし深愛は僕の疑問には答えず、顔を真っ赤にしていた。

「しょ、翔ちゃん! なんで着替えてるの!」

 深愛はそう言ってばっと両手で目を覆う。尋常でない深愛の様子に、僕は自分の姿を顧みた。すると上はワイシャツを着ていたけれど、下はズボンを履く途中でトランクスが外気にさらけ出されていた。

「うわっ、ごめん!」

 僕は慌ててズボンを履ききって深愛の視界にトランクスが映らないようにする。……ベルトを締めていないから、ずり下がらないようにズボンを押さえていないといけなかったけれど。

「珍しく早起きなのはいいけど……着替えてるならちゃんとそう言ってよね」

 呆れたように腰に手を当てている深愛は、自分がここにいることを至極普通のことのようにそう話す。

「えっと、なんで深愛が僕の部屋に?」

 思わずそう尋ねた僕に対し、深愛は不思議そうな顔をしてこちらを見た。

「翔ちゃん、寝ぼけてるの? いつも起こしてるじゃん」

「いつも? 起こしてる?」

「ま、今日は早起きで感心感心。彼女だからってあたしにいつまでも頼っちゃだめだよ。ご飯できてるから早めに降りてきてね」

 そう告げて深愛は部屋から出ていった。どでかい爆弾を投下して。

 深愛が、僕の彼女?

「……何が起きてるんだよ」

 部屋に一人残された僕は、ズボンにベルトを通しながら呆然とつぶやいた。

 理解不能なことがいっぱい出てきたけれど、代わりにひとつ謎は解けた。

 どうやら、昨日の出来事は全部現実だったらしい。……もっとも、過去が変わってしまった以上それを保証できるのは僕の記憶だけだったけれど。




「じゃ、学校行こうか。翔ちゃん」

 朝食を食べた後、深愛に促されるまま食器を洗った僕らはいつもより十分くらい早い時間に家を出ていた。

 深愛の作った朝食は、パンにベーコン、オムレツと特に変わったところのないものだったけれど母さんのそれと遜色ないくらいに美味しかった。特にオムレツが美味しいと言ったところ、「おばさんに教えてもらって、中華だしを入れたんだ」と嬉しそうに教えてくれた。

 右側を歩く深愛の歩幅に合わせていつもよりゆっくり歩きながら、初夏の日差しに目を細めていると深愛が口を開く。

「おじさん、国際学会なんてすごいね。パリだっけ」

「えっ? ……うん、たしかそうだよ」

 通学路を歩みながら、深愛の質問に答える。でも僕は父さんが国際学会に行っていることを伝えた覚えはない。

 僕の記憶では、深愛と僕の両親はそれほど親しい間柄ではないはずだ。何回かは会っていると思うけれど、予定を共有するほどの関係では絶対になかった。

 やっぱり、ここは僕の知る世界じゃない。

 とはいえ、元々の世界からどう変わったのかは想像に難くない。要するに五年前、僕と深愛が恋人同士になりそのまま今に至ったというだけだ。僕と深愛の関係性は大きく変わっているけれど、それ以外は大して変わっていないと思う。僕の部屋にある物はほとんど前の世界と同じだったし、僕らが通っている高校も京駒高校のままだ。バタフライエフェクト、というのは机上の空論だったらしい。

 世界が崩壊したりしていないのは結構なことだけれど、それはそれとして深愛が恋人になっているというのは僕の人生において世界が崩壊するくらいには大きな出来事だ。

 いや、別に深愛のことが嫌いとかそういう意味ではないけれど、こういう関係になることは想像していなかった。

 ……一体、僕たちはどこまで進んでいるんだろう。ちらっと深愛の方を見る。

 小動物のように低い身長、それに反したスタイル、そして客観的に見てかなり可愛らしい童顔。前の世界ではあんまり考えないようにしていたけれど、はっきり言って深愛はとても可愛い。幼馴染というだけで周りの男子の嫉妬の目があったのに、恋人になっているこの世界では僕はクラスでいったいどんな扱いをされてるんだろうか。

「? 翔ちゃん、どうかした?」

「いやちょっと寒気が……」

「風邪? なら休んだ方がいいよ」

「ああいや、そういうんじゃないから大丈夫」

 そんな会話を交わしながら通学路を進んでいく。段々と周りには京駒高校の制服をまとった生徒が増えてきて、大きな人の流れを形成していた。その流れに沿って十字路をまっすぐ横断した時、左の道から同じく通学中の人の流れが合流する。

 その中からひとりの女子が近寄ってきたのを目の端で捉えた。その女の子はとても綺麗な歩き方をしていて、歩くたびに美しい黒髪がふわりと舞っていた。……どこかで見たことあるような。

「おはよう。翔也、岬さん」

 僕たちの傍に寄ってきたその女の子は、そう挨拶をしてきた。

 僕のことを「翔也」と呼ぶ女子が京駒高校にいた記憶はない。深愛が恋人になったことで新しい人間関係ができたんだろうか。とりあえず知っている顔か確認しようと僕が左を向いてその女子の顔を確認すると同時に、深愛が挨拶に応える。

「おはよ、栗原さん」

「……は?」

 思わず、そんな声が漏れる。

 なぜなら僕の左側を歩いていたのは、京駒高校の制服を着た栗原葵だったから。

「おはように対して『は?』はないんじゃないの、翔也」

「そうだよ翔ちゃん、いくらなんでも失礼だよ」

 右と左の両側から咎められた僕は、混乱しながらも条件反射で謝る。

「えっ……ああ、ごめん。おはよう葵」

「よろしい」

 葵は満足げに頷くと僕の左側にぴたりとくっついて歩き始めた。……若干、近くないか?

 両脇に女の子を連れて通学なんて、この世界の僕はずいぶんと偉くなったもんだ。しかも二人ともとびきりの美少女ときた。

 ……周りの男子からは苛烈な、女子からは冷たい視線を送られていたのは、たぶん気のせいじゃないんだろうな。

 通学路を針のむしろの心地で歩いていると、葵がふと思い出したかのように僕に問いかけてきた。

「翔也。今日の放課後ちゃんと予定空けてるわよね?」

「えっ」

 葵の問いに思わず声を上げてしまう。世界がどう変わったかすらまだ把握しきれていないのに、今日の予定が空いてるかどうかなんてわかるわけがない。

「……なに? もしかしてなんか予定入れちゃったの」

 葵は動揺した僕を見て疑わし気にそう聞いてきた。……ここで「うん」などと言えばどう機嫌を損ねるかわからない。

「い、いや大丈夫だよ。で、何するんだっけ」

 過去の自分を信じてそう答える。葵の約束を忘れて別の用事を入れるなんてことはたぶんしないはずだ。

「忘れたの? 勉強教えてくれる約束でしょ。私、京駒には割と背伸びして入ったから最近勉強がしんどくて」

 葵はジト目をしながらそう言ってきたけれど、それを聞いた僕は首を傾げる。確かに小学生の時には僕が葵に勉強を教えていたけれど、それはあくまで小学生レベルの内容ではかなり勉強ができたからだ。もちろんレベルによっては高校の勉強を見てあげることはできるかもしれないけれど、どう考えてもこの場にいるもう一人の方が適任者だ。

「勉強なんて、深愛に教えてもらえばいいだろ。僕より遥かに成績いいんだからさ」

 平均よりはいい成績を取っているけれど、全教科満点の人間を差し置いて教えられるほど僕の成績は飛びぬけていない。この世界の深愛と葵は仲も悪くなさそうだし、わざわざ僕を選ぶ意味なんてないだろう。

 そんな当たり前のことを口にした僕に対して、二人は不思議そうに顔を見合わせた。

「岬さんってそんなに成績良かった?」

「ううん、翔ちゃんと同じくらいだよ」

 僕と同じ? そんなわけない。いくら謙遜しててもあの成績をそんな風に表現はできない。

 ということは、おそらく本当に深愛の成績は僕と変わらないくらいなんだろう。僕と深愛が恋人になったことでそんなところまで変わってしまったのか。

「もしかしてまだ寝ぼけてる? いつもより早起きだったし、睡眠不足なのかも」

 心配そうに僕を見つめる深愛が、僕の知らない誰かのように感じられて少し怖くなる。

「……大丈夫だよ」

 動揺した僕は深愛に対してそう誤魔化すことしかできなかった。

 僕が過去で起こした行動で、考えていた以上に僕の周りの世界は変わってしまったのかもしれない。そう思うと、僕の心臓はキュッと縮み上がった。

 この事態を解消するにはケレスと会わなければならないけれど、あの魔女はもう一度僕の前に現れてくれるのだろうか。もし二度と現れないのなら、僕はこの世界の鉄翔也としてこれから生きていくことになるが、正直そういう自分を全く想像ができなかった。

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