第10話
終礼後食欲がまるで湧かなかった僕は食堂や購買に走る同級生たちを横目に、まともに使わなかった教科書をカバンに詰めているといつものように深愛が声を掛けてきた。
「翔ちゃんお疲れ様」
「お疲れ、深愛は今日も園芸部?」
「うん、翔ちゃんは勉強会だっけ」
「あー、うん。らしいね」
「……? なんでちょっと他人事なの?」
「そ、そんなことないよ」
正直どのような経緯で葵との勉強会をすることになったか全く知らないので、紛うことなく他人事なんだけれどそんなことはとても口にできない。
怪訝そうな顔をしている深愛をどう誤魔化そうか考えていると、ふと思ったことがあった。
「そういえばさ。いいの? 僕と葵が二人きりで勉強なんて」
「どうして?」
「いや……浮気とか言わないのかなって」
男女が二人きりで時間を過ごすのって、そういう見方をされるんじゃないだろうか。少なくとも彼女のいるような人間が軽々しくしていいことではないと思う。しかし深愛は全く気にした風もなく、いつものようにふわっと笑った。
「今更そんなこと言わないよ。栗原さんと翔ちゃんが友達なのは知ってるし、それに――」
「それに?」
「翔ちゃんはあたしの彼氏だから浮気なんてしないでしょ?」
「……ハイ」
ニコニコしているのになぜか圧を感じる深愛の笑顔に、僕は黙ってコクコクと首肯した。深愛ってこんな怖い顔もできるんだ……。
「……ちょっと後ろめたいこともあるしね」
「え?」
「なんでもない! じゃ、帰るときには声かけてね」
深愛はそう言うと教室から足早に出ていった。……後ろめたいってどういうことだろう。
まあ、いいか。元の世界とは大きく異なるこの世界には僕にはわからない事情がたくさんあるはずで、それをひとつひとつ追っていたらパンクしてしまう。とりあえず当面は違和感を持たれないように行動してすり合わせていくしかない。
結局、昼飯抜きで勉強会に臨むことになった僕は図書室で待ち合わせていた葵と合流し、声を出していい勉強エリアで机を確保する。と言ってもまだ試験期間は先だったから図書室の使用者はまばらだった。
「この二次関数の問題が分からないんだけど」
席に着き、ノートを広げた葵は早速質問を投げかけてきた。
「ああ、これは因数分解してから考えるんだけど……」
葵の学力がどれくらいかわからなかったからちょっと緊張していたけれど、話を聞いていると僕でも教えられそうな初歩的な内容だったからホッとした。……まあ初歩的とは言っても直道よりは遥かマシだったけれど。
「……」
「……」
お互いに黙々と問題を解き始め、沈黙の時間が生まれる。ちらっとノートから顔を上げて葵の方を見たが、その整った顔は目の前の問題を解くことに集中しているようだった。これだけ真面目に勉強してるならもう少し理解度高くてもよさそうなものだけれど。
そういえば、この世界の葵はモデルの仕事をしているのだろうか。あまりにもいろいろなことが変わりすぎていて、それすら確証がない。
とはいえ、どう尋ねるのがいいのかすぐには思いつかない。もしモデルをやっているのであれば、ある程度葵と仲がいいこの世界の僕はそれを知っているはずで、今更聞くのはおかしな話だ。けれど知らないままでいるのも虫の居所が悪い。僕は少し迷った上で思い切って葵に問いかけた。
「モデルの仕事って、どう?」
もし『モデル? どうして?』みたいな答えが返ってきたら『いや、葵って綺麗だからモデルとか目指したりしないのかなー』なんていう言い訳を用意していたけれど、それは杞憂だった。
「そうね。まあ大変なことも多いよ。今日だって久々のオフだし」
元の世界と同様に、それなりに売れっ子になっているようだ。それで普段勉強する時間が取れないのであればあまり成績が良くないのも仕方のないことだとうなずける。
「大変なんだね」
「うん。でも、それが気にならないくらいすごく楽しい。充実してる。今度大きめの仕事もらったんだ」
口元を緩めてそう語る葵は邪推する余地が欠片もないほど晴れやかな笑顔をしていて、昔の鬼気迫る葵とは少し印象が違った。
充実した様子の葵を羨ましく思うと同時にちょっと不思議に思ったことがあった。
「でもさ、そんなにちゃんとモデルやってるなら勉強なんて適当でもいいんじゃないか?」
少なくとも試験期間でもないのにわざわざ放課後に残って勉強するほど頑張らなくても別にいいだろう。それこそ小学生の葵は先生に居残りさせられないギリギリのレベルでしか勉強してなかった。たまにラインを読み間違えて居残りさせられてたけど。そういうところはポンコツだよなあ。
「ま、あんまり成績が悪いと退学になっちゃうし。そうならないくらいには勉強しとこうかなと。そんなことよりこの問題ってどう解くの?」
露骨に話を逸らされた。葵にとって何か地雷が埋まってそうなのを感じてこれ以上触れるのはやめることにする。勉強する理由がなんであれ、勉強しないよりはマシだ。
「これは、まず切片を求めてからじゃないと解けないから……あ、切片っていうのは直線とy軸の交点のことで――」
葵の質問に答えながら僕はふと、今更ながらこの状況に対して疑問を抱いた。どうして高校生の僕と葵がこうして仲良く勉強できているんだろうか。
僕と葵がなぜか同じ高校に通っているというのを差し置いても、五年前あれだけ手ひどく振られたのにこうして友達としていられているというのも不思議な話だ。そもそもいまだに夢も見つけずにぼんやりと高校生活を送っているような僕に対して、葵は好印象を抱かないはずで。それは元の世界で一度確認しているし、何をどうすれば今みたいに仲良くできるのか。
世界がどう変わったのかを確かめるために、僕と葵が再会した時の話を上手く引き出せないか試してみることにする。
「葵はさ、僕と再会した時に何か思わなかった?」
「何かって?」
僕の問いかけに、葵は要領を得ないような顔をした。あまり余計なこと言うとこの世界の僕と辻褄が合わなくなりそうで怖いけれど、仕方ないから一歩踏み込んでみる。
「葵は自分の目標に一直線なのに、僕は高校生にもなってまだその目標すら見つけられてない。僕と会ったときに失望とかしなかったのかなって思って」
「失望? なんで?」
葵は目をパチパチさせながら首を傾げた。あれ? 予想していた反応と全然違うな……。
「昔やりたいことのない人生に意味なんてあるのかって言ってたじゃないか」
「あー、確かに言ってたね、そんなことも」
「そんなことって」
それは、僕の記憶の中であれだけ苛烈だった葵からはとても出てこないような言葉だった。
「あの頃の私は若かったし」
こんなこと言うと大学生モデルの先輩とかにすごい顔されるけどね、と葵はからからと笑う。
「モデルをやってみて、やりたいことやる人生っていうのもなかなか大変だってわかったから。今はこういう生き方を他人に押し付けるつもりはないんだ」
「……」
「それに翔也だって何か見つけたいから人助けしてるんでしょう? 目標を見つけるのが遅いからって失望なんてしない」
「……そっか」
じゃあなんで前の世界ではあんな風に突き放したんだ。そう言いたくなったけれどこれは僕の記憶にしかないことで、今の葵に言っても意味のない言葉だ。
沈黙してしまった僕に対し、葵は言葉を続ける。
「それに、連絡は取り合ってたじゃない。近況は聞いてたし再会していきなり印象悪くなったりしないよ。……あ、もしかしてカッコよくなってた、とでも言ってほしかったの?」
可愛いところあるじゃん、と葵はクスっと笑った。
「そんなんじゃないよ!」
僕は葵にからかわれたのが恥ずかしくて顔を赤らめながらそう答えたけれど、実のところ今の話にもっと気になる点があった。
連絡を取り合っていた……? そうか、僕と葵が同じ高校に通っているということは、お互いあるいは少なくともどちらか一方が進学する高校を知っていたことになる。となれば僕と葵は連絡を取り合っていなければそんなことは不可能だ。
でも葵が手紙に記した住所は間違っていた以上、僕の側から連絡を取るのは不可能だ。なら、僕の告白によって葵の心象に変化が生まれて葵の側から手紙を送ってくれたということだろうか。
「……ま、再会してショック受けなかったかというと嘘になるけど」
「……ん? なんか言った?」
新たな手掛かりが出てきたために世界がどう変わったかを考えるのに夢中になっていて、葵の言葉を聞き漏らしてしまった。
「なんでもない。そろそろ休憩終わりにしましょう」
葵はそう言って再び問題を解くのに戻ってしまった。……なんだったんだろう。
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