第20話

 家の最寄り駅に着いたのは水曜日の朝五時だった。七月とは言え早朝はまだ寒く、夏服しか持ち合わせのなかった僕は半そでで体を震わせていた。

 自宅までは一本道でそう遠くもないが、バス内でほとんど寝れなかった倦怠感からか足取りは重かった。家と駅の中間地点で足が止まってしまい、道沿いにあったスーパーの敷地に設置されたベンチに腰を下ろした。

「」

 目を閉じるとケレスに会ってからの数日間の光景がまぶたの裏に投影される。二度のタイムリープ。深愛や葵との思い出。そして、二人を傷つけたその瞬間。

 タイムリープなんて大層な力を使わせてもらっておきながら、結局僕はなんの意味も生めなかったのだけれど。

「翔ちゃん……?」

 その時、ふと僕を呼ぶ声が聞こえた。一瞬、幻聴が聞こえたのかと思ったがどうやら違うらしい。

「……?」

 ゆっくりと目を開くとそこにいたのは僕の幼馴染、岬深愛だった。

「なにしてるの、こんなところで。というか二日も学校来てないから心配したんだよ? 先生が翔ちゃんちに電話かけてもだれも出ないからって幼馴染のあたしに事情を聴いてきたし……。翔ちゃんのお父さんやお母さんの予定なんてあたし知らないのに」

「ごめん。いろいろあって。今日は行くよ……たぶん」

 肉体的にも精神的にも疲労しているから正直保証はできないけれど。

「それより深愛の方こそこんな時間に起きてたら授業中寝るんじゃないか」

「早寝早起きだから大丈夫だもーん。それに翔ちゃんも知ってるでしょ。あたし、成績はとびきりいいんだから多少寝ちゃったって先生もとやかく言わないよ」

「そっか……そうなのか?」

 元々僕の中で深愛が成績優秀なのは当たり前だったから流しかけたけれど、ひとつ前の世界、World1.01では深愛の成績は人並み程度だったはずだ。それが元の世界と同じようになっているということは僕の行動がなんらかのズレを生んだのだろうが、そんな影響を与えるようなことがあっただろうか。

「もしかして翔ちゃん、寝ぼけてる? 成績いいのはあたしにとってアイデンティティのひとつだから忘れられると結構ショックなんだけど……」

「いや、ごめん。ちょっとボケてた……くしゅん」

 僕はそう言いながら明け方の寒さにくしゃみが出てしまう。それを見た深愛は心配そうにしていた。

「……ちょっと待ってて」

 そう言うと深愛は壁際に並んでいる自動販売機に小走りで近づき、なぜか夏になっても入れ替わっていないコーンポタージュを一つ購入する。ポケットからハンカチを取り出して取り出し口からスチール缶を取り出し、こちらに駆け寄ってくる。

「これどうぞ」

「なんだよ、急に奢りなんて」

「だって翔ちゃん寒そうだったし」

「まあ寒いけど。じゃあもらっとく……ってあちっ」

 コンポタ缶を受け取った僕は思った以上の熱さにあたふたとお手玉してしまう。その様子が滑稽だったのか深愛はくすくす笑っていた。

「ふふっ……隣、いい?」

「……お好きにどうぞ」

「じゃ、遠慮なく」

 深愛は僕のおざなりな返答に律儀に感謝しながら隣に腰掛けた。深愛は続けて僕に問いかける。

「学校サボってたのは、栗原さんが急に転校したことと関係ある?」

 どうやらこの世界の深愛は僕と葵が公園で話していたところに遭遇したわけじゃないらしい。僕と葵が駆け落ちしてたなんてことも知らないようだ。

「関係、ないよ」

 何も知らない深愛に余計なことを言っても仕方ないだろう、と僕はそう誤魔化しながらコンポタに軽く口をつける。

「そっか」

 僕の真意を知ってか知らずか深愛は淡白にそう答え、薄明に照らされた夏の空を見上げる。

「小学校の時に栗原さんが転校したのもこの時期だったね……。終業式の日、公園での出来事覚えてる?」

「そりゃあ」

 忘れられるわけがない。

「あたしもよく覚えてるよ。あれはあたしの初めての失恋だったから」

「……」

「翔ちゃんが栗原さんに告白したのを木陰からこっそり覗いてた時、胸がきゅってなって本当に苦しかった」

「今更言うのもなんだけど、覗きは趣味悪いよ」

「本当に今更だね……。でも趣味悪いことをしてでもあたしは二人のやり取りを見届けたかった、栗原さんに振られてたのを見て正直ほっとしたけど、でもたぶんいつか栗原さんと翔ちゃんは付き合うことになるんじゃないかって思った」

 その予想は大当たりだったね、と深愛は胸を張った。

「それであたしはこのまま手をこまねていたら翔ちゃんを取られちゃうって思って、傷心の今ならと思って告白したんだ」

 こっちの方が覗きよりよっぽど性格悪いね、と深愛は悪びれながら頬を掻く。

「でも翔ちゃんにあっさり振られて……その時最初に頭に浮かんだことは、栗原さんの手紙なんてなくなっちゃえばいいってことだった」

 その深愛の言葉に合点がいった。そうか。逃げた深愛に追いついたあの日の教室で、彼女が握っていたのは葵から僕への手紙だったんだ。あれを僕から隠すために深愛は学校に走ったのか。

「でも翔ちゃんが追ってきてくれたから、そんな馬鹿なことしなくて済んだ。もしそんなことをしてたら、あたしはずっとずっと罪悪感で苦しんでたと思う」

ありがとね、と言った深愛は泣いているのか微笑んでいるのか曖昧な表情をしていた。その表情が意味するものを理解できなかった僕は、コンポタ缶をグイッと飲み干してからひとつ質問をする。

「あのさ……深愛は、僕に振られたこと引きずらなかったの?」

「うっわ、なんてこと聞くの。デリカシーなさすぎ。最低」

「……ごめん」

 よく考えなくても自分が振った相手に「引きずってないの?」とかどの口が聞けるんだ。どうやら本格的に脳がつかれているらしい。

 でも僕自身が告白できなかったことを五年も引きずり続けていたから、振られた深愛はどう考えていたのかが気になったというのは本音だった。

 しばらく僕のデリカシーのなさを責めるようにジト目で睨みつけていた深愛は、フッとその視線を和らげる。

「しょうがない、答えてあげようか。……あたしさ、翔ちゃんに毎年ひまわり贈ってるじゃない? あれ、なんでかわかる?」

「いや……」

 World1.01の深愛は花言葉がどうとか言ってたけれど、結局聞きそびれてしまった。深愛は僕が本当にわかっていないことを確認すると満足げに頷き、言葉を続けた。

「ひまわりの花言葉ってね、『私はあなただけを見つめる』なんだって」

その深愛の言葉は、鉄翔也への告白に等しいものだった。

どの世界でも深愛は僕にひまわりを送り続けていた。小学三年生の時に僕が深愛の育てたひまわりを褒めて以降、ずっと。

「……」

「あんまり驚かないんだね。翔ちゃん鈍いし絶対気づいてないと思ってたんだけど、もしかしてまだあたしが翔ちゃんのこと好きだって知ってた?」

「……いや、知らなかったよ。驚いた」

 これは、嘘じゃない。本来の鉄翔也はこの時点で深愛の気持ちを知るはずがなかっただろう。深愛は自分の気持ちを隠すのが得意だから、きっとこの世界でもうまいことやって告白以後も幼馴染としてうまくやっていたのだろう。

元の世界で僕が深愛の好意に全く気付かなかったように。もしかしたらただ「鉄翔也」が鈍いだけかもしれないが。

「栗原さんは特別な子だったから翔ちゃんが惹かれる気持ちも理解できた。あたしはあんな風に綺麗にはなれないとも。でも翔ちゃんを想う気持ちは負けないって、そうも思ってた」

 だからその気持ちを嘘にしないためには何か形にしないとダメだと思った、と深愛は言う。

「翔ちゃんが特別な子に惹かれるんなら、私も何か特別を手に入れられれば翔ちゃんの気を引けるかと思って……それでやってみたのが勉強を頑張ること」

「僕の気を引くために勉強を……?」

「翔ちゃんは栗原さんにお熱で見向きもしてくれなかったけどね」

 お熱いことで、と深愛は右手をうちわのようにして僕を扇いでひんやりとした朝の空気を送ってくる。

 元の世界でも深愛は学業優秀だった。それはきっとこの世界の深愛と同様の理由で、それくらい深愛の僕を想う気持ちは強いということなんだろう。

だったら、ひとつ聞いてみたい事があった。

「なあ、深愛」

「ん?」

「もし僕と付き合ってる世界に行けるって言われたらどうする?」

「急にどうしたの、中二病?」

「真面目に聞いてるんだ」

「うーん……行かないかな」

 深愛は少し迷っていたけれど、すぐにそう答えた。

「理由、聞いてもいい?」

 僕が尋ねると、深愛は少し目を伏せる。

「翔ちゃんと付き合えてる世界は、確かに魅力的だよ。でもそうなったらあたしの七年分の片想いはどこかに行っちゃう。この気持ちはとてもつらい感情だけど、でも私にとってこの気持ちを昇華させることはこの世界でしかできないから」

 それに、と深愛は付け足す。

「その世界のあたしは、きっとあたしにないものを持ってたんだと思う。それが努力にせよ、幸運にせよ、よそのあたしが横からひょいと盗っていいものじゃないと思う」

「――」

「だから、あたしは今もここで頑張ってる」

 そう宣言する深愛の姿は、迷いに迷いを重ねている僕からしたら直視できないくらいまぶしくて――五年前に葵に感じたものと同じ憧憬を、深愛に覚えた。

「あっ、もうこんな時間。あたし、そろそろ帰らないと」

時計を見た深愛は慌てた様子で立ち上がった。釣られて時計を見るといつのまにか六時前になっていた。そのまま立ち去ろうとした深愛は、ふと何かを思い出したかのように足を止め、僕の方を向いた。

「そう言えば、今日はずっと翔ちゃんって呼んでるのに嫌がらなかったね。なんか今の翔ちゃん昔みたいだったから、忘れてたや」

「なんだっけ、それ」

「忘れたの? 栗原さんと付き合ったタイミングで翔ちゃんは馴れ馴れしすぎるからやめろって言ってきたんじゃん。だから――って呼ぶようになったのに」

 その深愛の言葉を聞いた僕は、頭のてっぺんからつま先まで電流が走ったかのような衝撃を受ける。

「そうか……そういうことか」

 もしそうならずっと抱いていた違和感に辻褄がつく。でも……理由がわからない。なんでそんなことを?

「ひとりで勝手に納得して、勝手に首をひねって、変な翔ちゃん。じゃあまた学校でね」

「あっ……。うん、そうだね。また、学校で」

 困惑している僕をよそに、深愛は駆け足で帰っていった。東の空にはもう朝日が昇っていて、夕方とはまた違った赤色を演出していた。

 深愛が去って十分くらい経ったところで僕も立ち上がる。でもこれは家に帰るためじゃない。前に進むためだ。

「行くか」

 行かなきゃいけないところは、もうわかっていた。

手に持っていたスチール缶の底にはまだコーンが何粒か残っていたが数秒逡巡した後、それをごみ箱に捨てた。未練は、なかった。

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