第3話
今日の放課後は特に何かの助っ人を頼まれていなかったので、まっすぐ帰ることにした。部活の開始時間に厳格な運動部とさっさと帰りたい帰宅部の生徒たちで混雑した昇降口で自分の下駄箱から上履きを取り出していると、大量のプリントが詰まった段ボールを抱えて階段を登ろうとする中年女性の姿が目に入った。あれは確か、音楽の先生だったはず。名前は思い出せないけど。
危なっかしくふらふらする彼女を助けようとする生徒がいないのを確認した僕は、ひとつ息を吐いてから声をかける。
「……大丈夫ですか?」
「藤原先生、あんな気弱そうな見た目でこき使いやがって……」
プリント運びを手伝った後、あれよあれよという間に楽器整理という力仕事を手伝わされた僕は筋肉と時間を消耗した状態で家路についていた。
「毎度あり!」
下校途中にある商店街の馴染みの弁当屋でチキンカツ弁当を買った僕は、誰もいない自宅に向かって歩を進めていた。途中でいつもシャッターが下りている八百屋といつもガラガラの居酒屋の建物の隙間を通る。薄暗いが近道だから仕方ない。
家に誰もいない、とは言っても別に天涯孤独の身じゃない。普通に両親はピンピンしている。大学の准教授をしている父さんは学会発表のために今頃はヨーロッパに向かう飛行機の中だろうし、作家である母さんは締切間際で編集の人とホテルに缶詰で二人とも家を空けているというだけだ。
こうやって家に僕がひとりでいることはよくあるけれど、別に仕事にかまけて僕が蔑ろにされてきたわけじゃない。休みの日は家族で旅行にも行くし、家族関係は良好だ。それに仕事について楽しそうに話をする二人は僕にとっても自慢の両親だし。
でもだからこそ、夢を叶えて楽しそうに生きる両親を羨ましく思うことは多い。
同時になぜあの二人からこんな夢も希望も持たない僕が生まれたのか、そう引け目を感じることもある。
その想いは、葵に対してもまたある。きっと彼女は今の僕を見たら失望するだろうから。まあ最も。彼女の行方がわからない以上、おそらくは二度と葵に会うことはないのだろうけれど。
その事実を思い返し、肺が機能不全に陥ったかのような息苦しさを覚える。……いつものことだ。足を止めてから大きく深呼吸をして息を整え、再び歩き始めようとしたその時だった。
「悩みがあるようだね、少年」
背後から声をかけられた。振り返り、目を見張る。そこに立っていたのは、創作物における魔女が着るような真っ黒なローブに身を包み、右腕からかごをぶら下げ、狐のお面をつけるという常軌を逸した恰好をしている人物だった。
ハロウィンはまだ三か月以上先のはずだ。コスプレにしてもこの猛暑にその恰好は正直言ってまともじゃないし、この付近が何かの聖地になったというのも寡聞にして聞いたことがない。
「……どちらさまですか?」
恐る恐るそう尋ねると、謎の人物はお面をかぶった隙間から見える口元に不敵な笑みをたたえる。
「そうだね、端的に言えば人生に迷う君を導きに現れたお姉さん、とでも言えばいいかな」
「……」
僕はスッとスマホを構えて電話を掛けようとする。当然、掛ける先は一一〇番だ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、翔也くん!」
自称お姉さんが慌てふためいて通報を阻止しようとしてくる。それに応じたわけではないが、僕の手は一瞬止まった。
「……なんで僕の名前知ってるんですか」
どさくさ紛れに不審者に名前を呼ばれるの怖すぎる。ストーカーかなんかなのか?
「君の名前を知っている理由なんて……この恰好を見たらわかるだろう?」
なぜか胸を張ってそんなことを宣ってくるが、皆目見当がつかない。強いて言えば……。
「いや、イカれたコスプレイヤーにしか見えないですけど……」
「なんでよ、どう見ても魔女でしょう! 魔法だよ魔法、魔法で知ったの!」
「……」
「ちょいちょいちょい!」
無言で通報を再開しようとする僕を必死で止めてくる自称魔女。
「はあ、本当に魔法が使えるなら警察も魔法で撃退したらどうですか?」
「いやあ、魔法にもできることとできないことがあるというか……」
もじもじしながら言い訳をする自称魔女。最初に醸し出していたミステリアスな雰囲気はもはや見る影もない。
「で? その自称魔女さんが何の用ですか?」
「お、ようやく話を聞いてくれるんだね」
「さっさと済ませてください、壺は買いませんよ」
「売らないよ!」
もう面倒だし適当に話を聞いてあしらおう、という諦めの境地に至ってしまった。壺を売りつけてきたらダッシュで逃げるため、脳内で交番までの道のりを想定しておく。
魔女はおほん、と咳払いをすると口を開く。
「今日の黄昏時、君の未練の始まりの地に赴きなさい。さすれば道が開けるでしょう」
「……なにそれ、全然意味わからないけど」
僕は察しのいい方じゃないからそんな芝居掛かった言い方されても困る。それに今のは占いかなんかか? 後から占い代金とか請求されたら面倒だな……。
そんな風に煮え切らない僕の態度に、魔女は呆れたふうに肩を竦める。
「仕方ないなあ。じゃあもっとわかりやすく言うよ。……君が五年前、彼女と最後に話した場所、そこに行きなさい」
「……!」
なんで五年前のことを、と問い詰める間もなく、魔女は踵を返して僕が通ってきたビルの隙間に駆けて行く。
「ちょ……!」
慌てて追いかけるも、山積みになっていた空のビールケースやら箒やらをぐしゃぐしゃに撒き散らしながら逃げるものだから追いつけるわけもなく。苦労して抜けて通りを見回した頃には、それらしい人影はどこにも見えなくなっていた。
「なんだったんだ、一体」
意味深なことだけ言って逃げることに一体何の意味があるというのか。意味がわからない。
どうでもいいことだが、この後ビルに入っている居酒屋の店長が出てきてめちゃくちゃ怒られ、魔女が崩した諸々の後始末をさせられた。納得いかない。
「ただいま……」
無賃労働から解放され帰宅した僕は、屋外のセミの鳴き声が壁を貫通するのにうんざりしながら二階の自室に向かう。
汗で三倍くらいの重さになったワイシャツを脱ぎ、深愛に良く「センスの欠片もない」と言われる無地の白シャツに着替える。
「……」
ふと思い立って勉強机の上から三段目の引き出しを開く。そこには普段使わない書類がまとめられたクリアファイルと――開封済み封筒がひとつ入っていた。そっと封筒を取り出し、中に納められた一枚の便箋を抜き取る。
紙端が少し擦り切れている便箋には転校先の住所以外にメッセージが一言だけ書かれていた。住所については故意か過失か誤ったものだったから、結局のところこの便箋の価値はメッセージだけだ。
またね
その三文字が葵の残したメッセージのすべてだった。彼女らしい端的さと彼女らしからぬ素直さが共存した言葉で、葵がどんなことを考えてこのメッセージを残したのかその真意を汲み取れるほど僕は彼女のことを理解できていなかった。
「……あー、喉乾いた」
便箋と封筒をそっと所定の位置に戻した僕は、麦茶を飲みにリビングに向かう。
ぐっしょりと濡れたワイシャツとさっき買った弁当を持って階段を下りながら、制服っていうのはなんでこんな張り付くような素材で出来ているのだろうか、いや肌着を着ればいいだけか、でもこんな暑い中でこれ以上着る枚数を増やしたくはないなあ、などと益体もないことを考えてみる。
「……」
ワイシャツを洗濯籠に放り込んだ後、弁当をしまうのと入れ替わりに冷蔵庫から冷えた麦茶を取りながら自分が何かを考えないようにしていることに気付く。
「ばかばかしい」
そんな風に自分を誤魔化そうとしても、あいつの言葉が脳裏から離れない。
キンキンに冷えた麦茶をグッと飲み干す。こめかみがギュッと収縮するような痛みを感じ一瞬後悔するが、すぐにカラカラの体に水分が行き渡るような心地よさがやってきた。
ふと窓の外に目をやると、太陽が傾き始めて西日が強くなってきていた。庭に植えられた一輪のひまわりが夏風に吹かれて揺れている。
五年前の、あの日のように。
『なんでも、ないよ。またね、葵』
僕にとってあの日、あの場所での後悔は、地面に縫い付けられた影のように僕の足を引っ張り続けている。それ故、どんなに細い道筋だとしてもまた彼女に会える可能性があるのなら無視できない。
冷蔵庫の鍵かけから自分の自転車のカギを手に取る。
「……行ってみるか。どうせ暇だし」
言い訳がましくポツリとこぼした言葉は、自分で振り返っても情けなさすぎた。
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