第16話
翌朝、僕は寝不足で重くなった頭を抱えて起床した。いつも起こしてると言っていた深愛は今日、僕のことを起こしに来なかった。身支度を整えた後、一人で昨日のカレーの残りを食べ学校に向かう。
教室に入ったところで深愛の席に目をやるが、まだ登校していないようだった。あるいは花壇の水やりか。
「なあなあ、翔也知ってるか?」
重たい気持ちを抱えながら着席すると、後ろの席の直道がいつもと変わらない陽気さで話しかけてきた。
「……なんだよ、直道」
正直昨日の出来事で頭がいっぱいで、直道のダル絡みに対応できるほど余力がない。どうでもいいことなら無視しようかと考えながら、直道の言葉に耳を傾ける。
「栗原さん、転校するって知ってっか?」
「……は?」
今、なんて言った?
「その様子だと知らないみたいだな」
特ダネが入るかと思ったんだけどなあ、なんて直道は呑気なことを言っていたが、こっちはそれどころじゃない。
葵が、転校? 昨日の今日でいきなり?
「どういうことか、正確に教えろ」
むんずと直道の肩を鷲掴みにして問い詰める。僕の尋常ならざる様子を理解したのか直道は少しきょどりながら答えた。
「お、おう……。確か野球部のやつが朝練のために顧問に鍵借りに行ったら、栗原さんが担任に転校手続きの書類を渡してるのを見たんだとさ」
つまりただの噂話というわけじゃなくて、れっきとした根拠のある情報だということだ。業腹だが直道は話は盛るが虚言は吐かない。信用していいだろう。
「……行かなきゃ」
僕は椅子を倒す勢いで立ち上がる。葵に何があったのかを問いたださなきゃいけない。あんな後悔は、もう二度としたくはないから。
けれど教室から飛び出して葵の教室に向かおうとした僕を直道が呼び止める。
「ちょちょ、ちょっと待て」
「なんだよ!」
思わず声を荒らげてしまい、教室中の注目を浴びる。いつもだったら恥ずかしくなって委縮するところだけれど、今の僕にはどうでもいいことだった。
けれど苛立っている僕を見て腰が引けていた直道の続けた発言に、僕は動きを止めた。
「栗原さん、書類渡した後は私物整理してもう帰っちゃったって聞いたぞ。だから学校にはもういないと思う……」
「……なんだよ、それ」
土曜までは僕と期末対策の勉強会してたんだぞ。たかだか数日の間に転校を決めるというのは普通じゃない。そこまで考えて、僕は昨夜の出来事を思い出した。
「――そういうことか」
昨日の尋常でない葵の様子は、何らかの要因で望まない転校を強いられたからだったんだ。
私物整理をしたってことはもう学校には登校しないと考えた方がいい。それどころか、今日中に街を去る可能性すら。
それはつまり、僕は葵ともう会えなくなるということだ。五年前と同じように。
「……っ」
「お、おい。どこ行くんだよ、翔」
直道の疑問は当然だ。もうすぐ始業時刻で、今から既に下校した葵を探しに行ったら当然欠席になる。そんなことを抜きにしても、彼女がいるにもかかわらず別の女の子を追って学校をすっぽかすなんてまともじゃない。
でも。
「……知らねえよ」
僕の喉から、普段出たことのないようなドスの効いた声が発せられる。
異様な様子の僕を見て固まっていた同級生たちの中、深愛だけが悲しそうに僕のことを見つめていたことに気付いていたけれど、僕はそれを無視して教室を後にした。
幸いなことに葵の家の住所は、前にラインの履歴を眺めた時に見つけていた。かつての僕が引っ越しの手伝いをした時のものだった。昇降口まで階段を駆け下りる三十秒で、地図アプリを見ながら学校からの道筋を頭に叩き込む。登校して階段を上っている生徒たちに何度かぶつかりそうになったけれど、今はそんなこと知ったことじゃない。
内履きから外履きに履き替える時間すら惜しく感じる。内履きを靴箱にしまうことも億劫だった僕は脱ぎ散らかしたまま昇降口から走り出した。
葵の家まではたかが五分かそこらの距離だけれど、焦りからか永遠のように感じられる。限界を超えた速度で走っていると足の骨が軋み始め、心臓は早鐘を打ち続けていた。
「くそっ」
なんで昨日、もっとちゃんと葵に向き合ってやれなかったんだ。あの時、深愛を追わなければ、いなくなった葵を追って詳しい事情を聞き出せていれば。そんな後悔がたくさん湧いて、僕の両足を重くする。
タイムリープなんてズルをしておきながら、新しい後悔を生み出している。そんな自分があまりにも情けなくて、自己嫌悪感が胸のあたりに広がる。酸素不足も相まって、吐きそうだ。
体力の限界が近くなってきたところで、葵の住んでいるレンガ風に作られたマンションが見えてきた。足の回転数を上げようとする。
その時だった。僕の真横をすれ違うように自家用車が通り過ぎた。それを目の端で捉えた後、一呼吸おいて一つの事実に気付いた。
「まっ……」
思わず、声が出る。だって、その車の後部座席に俯くように座っていた人間は、僕の目が節穴じゃなければ葵に間違いなかったから。
僕は慌てて車を追いかけようと方向転換をして……
「うおっ……!」
地面のコンクリートに右肩からすっころんだ。人は急には止まれない、そんな当たり前の物理法則すら僕の頭からは抜け落ちていた。そして……人間の脚力で車に追いつくことは不可能なんてことも。
僕は痛みに耐えながら顔を上げたけれど、出来ることと言えば大通りを真っすぐ進んで小さくなっていく車を眺めていることくらいだった。
「……ハァハァ、ゲホッ……」
過呼吸とも嗚咽とも取れるようなうめき声を出しながら、よだれか汗か、それとも涙かわからない液体にまみれて、僕はしばらく七月の直射日光に熱された灼熱のコンクリートに突っ伏していた。
呼吸を整えて立ち上がるようになるまで十分近い時間を要した。その間道行く人たちから奇異の目で見られていたけれど、そんなことすら気にならないほど僕の中にはひとつのことしか考えられなかった。
……どうやら、僕はまた同じ過ちを繰り返したらしい。
これは、タイムパラドックスとか世界線の収束とかそんなSFの話じゃない。
単に、僕が優柔不断のクソ野郎だったってだけだ。
ひとつだけ、言い訳をするのなら自分の感情と今の自分の状況に乖離があったことだろう。この世界の僕は深愛の恋人で、葵とはただの友達だ。そんな僕が葵のために動いていいのか。葵を助けたい、でも深愛を傷つけたくはない、そんなどっちつかずの気持ちがことごとく僕の判断を誤らせた。
だがそんなのは僕しか知らないことで、僕自身にしか通用しない言い訳だ。そして自分に向けてする言い訳なんて、無意味で無価値で、何の生産性もない行為だ。
「クソっ」
そんな力ない悪態しか、今の僕に吐き出せるものはなかった。
歩けるようになってからも学校に戻る気は起きなかった。深愛には合わせる顔がないし、それ以上にこのまま日常に戻ってしまったら本当にもう終わりだと思ったから。
とはいえ行く当てなどなく、ただ地面を見つめたまま足を動かすことしかできなかった。
しばらく体が動くままに任せて歩いていたが、ある時自分の足が自然と駒野公園に向いていたことに気付いた。
半ば足を引きずるような歩行で牛歩のような速度で時間をたっぷりかけて駒野公園に到着した。高校のチャイムが聞こえる。広場の真ん中に立っているモニュメントクロックに顔を向けると、いつのまにか十時を示していた。
「……もしかしたら」
もしかしたら、そんな口に出すのも馬鹿馬鹿しい一縷の望みに縋っていつもの東屋に足を向ける。
木々の隙間を舗装した小道を抜け、もう一つの広場に出る。広場の反対側にある東屋を視界に入れた時、気づく。
誰か、いる。影が濃くて姿形までは判別できないが、間違いなく東屋の下に誰かが座っている。
自然と歩く速度が速くなる。もしかして、もしかして、もしかして。
そして、一定の距離まで近づいて認識した。
違う、あれは葵じゃない。けど……あいつは。
「ここに来ると思ってたよ」
東屋のベンチに一人座る小柄な人影は、僕にタイムリープをさせた張本人。自称魔女のケレスだった。
「ケレス……」
「まったく、君は予想外のことをするんだから」
ケレスは呆れ半分面白半分な口調で僕のことを揶揄しながら、自分が座っている方とは逆側のベンチを指さした。座れ、ということらしい。ひとまずその指示に従う。
「間違って告白しちゃうなんて、翔也くんは度を越したおっちょこちょいだね」
からかうようにケラケラと笑うケレス。少し前までだったら怒っていたかもしれないけれど、今の僕にはそんな気力はなかった。
というか……。
「なんで知ってるんだ」
あの出来事について知っているのは僕と深愛だけのはずだ。
「アタシが君を過去に送り出したんだから、世界がどう変わったか知るくらい朝飯前に決まっているだろう?」
「そういうもんか」
「そういうもんです」
正直胡散臭いが、原理もわからないタイムリープについて僕がどうこう言えることもなかった。
「で、どうする?」
テーブルに置いてあるかごの横に頬杖をつきながら、ケレスは僕にそう問いかける。狐面を被ったまま頬杖をつくなんて、器用な奴だ。
「……なにを?」
「もう一度する? タイムリープ」
「できるのか⁉」
僕はケレスとの間にあるテーブルに身を乗り出す。期待していなかったと言えば嘘になるが、向こうから提案してくれるとは思っていなかった。
「一応聞いておこうかな。もう一度過去に戻ったら君は何をするつもりだ?」
ケレスの問いに、僕は少し考える。この世界が僕の想定と異なる世界になってしまった原因はたったひとつだ。
僕が五年前に深愛の告白を受けてしまったこと。
なら僕が変えるべき箇所はそこだけ。あの告白をなかったことにするか、断るかだ。
ただ、それを実行するにはひとつ不安があった。
「なあ、ケレス。過去の自分にメモを残すことって可能か?」
タイムリープによって、僕の希望通りになった数少ないことのひとつが、僕が葵の正しい連絡先を持っていたことだ。その原因というのはわかっていないが、過去を変えた結果であるのならば深愛の告白がその要因のひとつであることは確かだ。
深愛の告白を断ることでそれが失われると断言できるわけではないが、軽くは考えられない。
そうであるなら、保険は掛けておきたかった。未来のことを自分の意識が離脱した後の自分に伝える、それが無理なら葵の本当の引っ越し先のメモを残すと言った具合に。しかし。
「それは……ちょっと難しいね」
ケレスは僕の問いに難色を示す。少し真剣な雰囲気で頬杖をつくのをやめて、姿勢を正した。
「ちょっと、タイムリープの仕組みについて話そうか」
「仕組み?」
気にはなるが、なぜこのタイミングで? そんな僕の疑問をよそにケレスは言葉を続ける。
「この世界は、一冊の本みたいなものなんだ」
「本?」
「そう、『今』というのは開かれた本の見開き一ページに過ぎない」
続けてケレスは驚くべきことを言った。
「君のタイムリープは厳密にいえば過去に回帰しているわけじゃない」
「えっ?」
どういうことだろう。あの時の僕は間違いなく過去に戻っていたと思うし、だからこそああやって過去を変えられたはずだけれど。
「簡単に言ってしまえば、物語の序盤を一部変えることでその先の展開を変えてしまうという現象さ。プログラムの途中のコードを書き換えて最終的な出力を変える、という言い方でもいいね」
言っていることは、なんとなくわかる。それが世界の真実だと言われてもピンとは来ないが。
「要するにこの世界は過去も未来も今も同時に存在していて、それぞれが一冊の本の一ページという断面ということ。そしてその一冊の本というのは人間の集合的無意識そのものだ。つまり誰でもアクセスできる」
もちろん自由に操れるものじゃないけどね、と前置きした上でケレスは続ける。
「例えば予知夢だとか、前世の記憶だとかは偶然集合的無意識に繋がった際に情報を引き出してるってこと。アタシのりんごは『過去の自分の記憶』という最も繋がりの強い事象に限定することで集合的無意識にアクセスできるように調整しているだけ」
「過去の自分の記憶……」
「『過去の自分の記憶』を書き換え、その記憶が全体に与える影響の重みを強くしてやることで世界全体の形を少しだけ変える。元の世界をWorld1.0と表現するのなら、書き換えた後の世界はWorld1.01とでも表現するのが一番近いかな。世界の根幹は変えないまま、細部を書き直すという意味で」
同じ本の、バージョン違い。確かに世界から見れば僕が誰とくっつこうがそんなのは些末なことだ。けれど、当事者としては自分が軽く見られているようで少し腹立たしかった。
「ただ無制限に書き換えることができるってわけじゃない。書き換えて以降の補完は世界に一任せざるを得ない以上、大きな改変は物語が補完不可能なほど崩壊してしまう。何百何千といった人間に直接影響を与えるようなものは特にね」
ケレスの解説にふと疑問が湧く。
「でも、例えば葵がモデルにならない世界になったらより多くの人間に影響が出るんじゃないか? 僕が葵に接触することでそういうことになる世界になる可能性はなかったのか?」
もし、タイムリープして僕が葵にモデルを目指すのをやめるように言ってたらどうなっていたのか。……葵は僕が言って諦めるような人間じゃないだろうけど。
「可能性がなかったかと言えばあった。でも仮にそうなっても似た立場の別の人間がスライドするだけで『世界』という物語は容易に修正可能だろうね。現代ではいくら特別な人間でも、代替不可能な人間なんて存在しないから」
「じゃあ、どういう行動が修正不可能なものなんだ?」
「世界に物理的な影響を与えること」
ケレスは極めて端的にそう答えた。
「自分の行動の結果、誰かから何かを受け取ったりすることは問題ないけれど、過去の自分自身がメモを残したり、物を壊したりすることは極めて危険だ」
ケレスは具体的にどうなるかについては答えなかったけれど、その真剣な眼差しはペナルティについて甘く考えていいものではないことを教えていた。
だが、それが真実だとしたら新しい疑問が出てくる。
「……なんでそんな危ない代物を僕に与えたんだ?」
世界を書き換える、なんてとんでもない芸当を実行できるなら彼女自身が好きなようにふるまえばいいように思う。少なくとも、何の関わりもない僕みたいな人間に対し力を与えることに意味があるとは思えない。それが世界を壊すかもしれない危険なものならなおさらだ。
「面白いから」
「それで納得すると思ってるの?」
「……そうだね、全部を明らかにすることはできないけど言えることがあるとすれば、君が過去を変えることによってアタシが得をするのさ」
「あんたが、得する?」
一体どういう理屈だろうか。しかしケレスはそれ以上は答えず、テーブルの上のかごの中からひとつのりんごを取り出し、僕に差しだす。
「さあ、二度目のタイムリープだ。今回は失敗しないようにね」
「……ああ、そうだね」
どうなるのが成功かは、もはやよくわからないけれど。
クシャ、と水っぽい音が口元から発せられる。相変わらず、土臭い味だ。
咀嚼してから数秒で体から力が抜けていき、テーブルに顔面から突っ伏す。けれどもはや痛みは感じず、僕の意識はただ微睡みに飲み込まれていった。
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