第15話
帰宅した後の僕の家はいつも通りに静かだったけれど、お祭りの喧騒と深愛がいた賑やかさを経験してしまったからかその静けさがどこか冷たく感じる。
「……楽しかったな」
ポツリとそんな言葉がこぼれる。深愛と遊びに行ったことは何回もあったけれど、恋人という関係では当然初めてだった。
僕への好意全開なのはまだやっぱり慣れないけど、それ以外では自然体でいられたしいつもの深愛とほとんど変わらなかった。
けれど……喉に刺さった小骨のように心に引っかかっているこの気持ち。
この世界の深愛には申し訳ないけれど、あの告白を受けてしまったのは僕のミスだ。自分の意志もなくただ物の弾みで応えてしまっただけ。
そうであるなら、なかったことにしなきゃいけない。そのためにはあの魔女、ケレスをもう一度見つける必要がある。やり直すことをやり直す、なんてあまりにも不毛なことに思えるが仕方がない。自分のケツは自分で拭かなければ。
とは言ったものの。
「手がかりも何もないんだよな……」
そもそもこの世界にもまだケレスがいるかどうかすらわからない。過去を変えた結果、昨日僕とケレスが出会う事象自体がなくなっている可能性が高いし、当然のことながら彼女の連絡先なんて持っていない。
正直言って、手詰まりだった。葵に振られてボーっと歩いているときに遭遇したし、また夜に徘徊でもしていれば見つかるだろうか。
ポロン♪
僕が頭を悩ませていると、スマホの通知音が鳴った。ポケットから取り出して画面を見るとラインからの通知で、スマホのロックを解除して内容を確認する。
『今から、会えない?』
それは、葵からの呼び出しだった。
葵から指定された場所は、駒野公園だった。夜の公園は、昼の暑さが嘘のようにひんやりとした風が吹き抜けている。
公園の端にある東屋を訪れると、そのベンチにはスッと背筋が伸びた綺麗な姿勢で座っている葵がいた。
……なぜか、葵のすぐそばには大きめのスーツケースがあった。明日なのに、これからどこかに旅行でも行くのだろうか。それに、どことなく挙動不審で辺りの様子をきょろきょろと気にしているようにも見える。
僕は不審に思いながらも声を掛けた。
「こんばんは、葵」
僕の呼びかけに気付いた葵は、軽く手を上げる。
「こんばんは、翔也」
「どうしたの、こんな時間に」
僕はベンチに座る葵に対し、体一個半分空けて隣に座った。お尻からひんやりとしたベンチの温度を感じる。葵は、どこかバツが悪そうな顔をしながら口を開く。
「こっちから連絡しといてなんだけど、大丈夫?」
「大丈夫って……何が?」
「いや、岬さん怒んないのかなって」
葵に言われて気づく。確かに自分の恋人が夜に異性と二人きりで会っているっていうのは、放課後に勉強会してるというのとはわけが違う。
僕自身が深愛の恋人という自覚にあまりにも乏しいがゆえにそういうことに気が回らなかった。本来のこの世界の僕なら、断っていたのだろうか。
「……葵が呼び出すってことは、よっぽどなんでしょ」
答えになっているような、なっていないような回答を返す。今の深愛が許してくれるかどうかは、僕には判断がつかなかったから。
「それで、用件は?」
呼び出されたこと自体は、そんなに問題じゃない。でも葵が呼び出した理由について僕には全く心当たりがなかった。
僕の問いに対し、葵はらしくもなく目を伏せる。そして何度か言い淀んだ後、意を決したようにこちらをまっすぐ見つめてこう言った。
「私と……一緒にどこか遠くに逃げて」
「……え?」
一瞬、耳を疑った。一体、何の冗談だ。いや、葵はこんな冗談は口にしない。でも、冗談じゃなかったとしても僕の知る葵はこんなことを言う人間じゃない。
もう夏手前なのに、寒気を感じる。それは夜ゆえの寒さなのか、理解ができない今の状況に僕の心がおかしくなってしまったからなのかは、わからなかった。
「どうしたの急に」
葵の言葉に動揺した僕は、そんな当たり障りのない返ししかできなかった。葵は今まで見たことのない、すがるような目で僕を見つめる。
「お願い、私と一緒に逃げて」
葵はさっきと同じ言葉を繰り返した。切羽詰まった様子なのは間違いなくて、適当にはぐらかしていいような状況じゃないことはわかる。
でも僕がどう答えるにしろ、少なくとも一つ問題があるはずだ。
「モデルの仕事はどうすんのさ」
葵が叶えた夢、それすらもどうでもいいってことはないだろう。
「……私なんて、いてもいなくても変わらないよ」
けれど、葵はそんなこともうどうでもいいとでもいいたげだった。そんな馬鹿な。
「そんなことないだろ、人気モデルなんだし。舞台とかもやってるんでしょ?」
僕はインターネットで聞きかじった情報を引き合いに出すが、それを聞いた葵は眉をひそめた。それは僕が浅い知識で話しているからというわけではなく、僕の言っていることがまるで理解できないような顔で、その目は――
「人気なんかじゃないよ、まだ。それに舞台なんてそんなの、やったことない」
――話が嚙み合わない相手に向ける視線だった。
「……そんな」
葵の言葉を聞いて、僕は大きな勘違いをしていたことを知る。葵は今モデルをしているというのは間違いじゃない。それは図書室で話したときに確認している。でも、僕が元の世界で調べた内容とはずれがあるのだ。
元の世界の栗原葵よりも、この世界の栗原葵はモデルとして成功していない。階段は着実に上っているが、その速度が緩やかなんだ。
その原因は、わかりきっている。僕が、過去を変えたからだ。
「……」
しかし、だからと言ってなぜ「逃げる」なんてことになるのか。まだモデルとしては駆け出しの存在なのだとしても、高校一年生なら落ち込むことじゃない。これから伸びていく可能性だって十分あるし、葵はその可能性を信じられる人間のはずだ。
仮に葵の言う通りに「逃げる」として、学校はどうするのか、親にはなんて言うのか、後悔はしないのか、そんなことが僕の脳裏に思い浮かぶ。
でも葵はそんな当たり前のことは当然分かったうえでそれでも助けを求めているはずで、僕が今更そんなことをつつくことに意味があるとは思えない。
今の葵は、理由はわからないけれど深く傷ついている。きっとその理由を尋ねても答えてはくれないだろう。もし答えてくれるなら最初から教えてくれている、葵は意味のない隠し事はしない。
だから僕は、別のことを聞くことにする。
「……なんで、僕なのさ」
この世界の僕は葵にとって友達以外の何者でもないはずだ。けれど葵が言っていることは、駆け落ちそのものでただの友達に誘う内容としてはあまりにも重すぎる。
「本当に、わからないの?」
葵が震えた声で、僕に聞く。
「……」
わからない。わからない、はずだ。
ひとつだけ、ひとつだけ全てに納得がいく仮説はある。でもその仮説は、僕が口にするにはあまりにも自意識過剰で、恥ずかしい妄想と紙一重のものだった。
僕を見る葵はほとんど泣きそうな顔をしていて、彼女の中ではどんな感情が渦巻いているのか、僕には想像する余地すらなかった。煮え切らない態度の僕に、苛立った様子の葵はしびれを切らして口を開く。
「そんなの、好きだからに決まってるじゃない!」
葵から放たれた言葉は僕の頭をガツンと殴りつけるような、そんな言葉だった。
それは僕の仮説と一致していたものだったけれど、僕はその言葉を飲み込めない。脳が情報を処理してくれない。
葵が、僕のことを好き? そんなわけない。そんなわけ、ないだろう。だって。
「……五年前は、僕のことを振ったじゃないか」
それは僕の記憶には真新しい出来事で、まだ癒えていない僕の傷でもあった。けれど葵はそんなことは些細なことだと言わんばかりに声を張り上げる。
「そんなの、関係ないよ! だってあれから五年間、翔也はずっと私のそばにいた」
そう語る葵の瞳は嘘偽りのない輝きを灯していて、僕は反論を飲み込むしかなかった。
「転校してからも毎月手紙を送ってくれて、いつも楽しみだった。誕生日にはプレゼントまで送ってくれて、嬉しかった。こっちに来て初めての一人暮らしで大変だったのを手伝ってくれて助かった。勉強も優しく教えてくれた」
葵が語るその過去はほとんど僕の知らないもので、罪悪感が胸を刺すけれど同時にわかったことがあった。
この世界の鉄翔也は、僕と違ってこの五年間も葵とずっと交流を続けていた。じゃあ、葵との距離が縮まっていてもおかしくはない。元の世界の僕と葵との関係とは全く異なるんだ。
この世界で初めて葵に会った時、違和感があった。それは葵の距離感の近さだ。通学中はぴったりと僕の真横についていたし、勉強中も明らかに普通の友人同士より顔が近かった。気のせいかとも思っていたけれど、そうじゃなかったようだ。
「私、あなたと一緒の高校に通いたくて京駒高校を受けたのよ。もちろん東京が今後のためにいろいろと便利だったってこともあったけど」
葵は過去を振り返るようにひとつひとつを思い起こしながら言葉を紡ぐ。
「翔也と会えるのが楽しみで、楽しみで。それで入学式に翔也と会えた時、あなたと岬さんの距離感ですぐにわかった、二人が付き合ってるんだって」
「……」
その時に葵が感じた気持ちは、たぶん少しわかる。この世界の鉄翔也にはわからないだろうけれど、僕がつい昨日陥った感情と同じなんだと思う。既に手遅れで、取り返しがつかなくて、それを頭ではわかっているのに心が拒絶する、そんな想い。
「でもそれ自体は仕方のないことかとも思った。五年もあって、私は自分から好意を伝えることもサボってたんだから、ちゃんと告白した岬さんに文句を言う筋合いなんてない」
けれど葵は僕とは違って、すっぱりとその想いを割り切ったと答えた。だからこそ解せない。
「じゃあ、なんで今更」
一度決めたことを曲げるなんて葵らしくない。しかも今の葵は僕への告白以外にもモデルの仕事を投げ出そうとすらしている。僕の知る栗原葵は、無茶苦茶な女の子ではあったけれど、支離滅裂な女の子ではなかった。
葵らしくない。
そう言おうとして、僕はハッとする。僕はさも自分は葵のことをよく知っていると考えていたけれど、一体僕は、今目の前で震えている栗原葵という女の子の何を知っているというのだ。
僕が目の前の葵についてちゃんと知っていることは、小学五年生の頃の記憶と、家で一度読んだ手紙くらいのものだ。それこそ再会してからの葵のことは、記憶どころか記録すら知らない。そんな僕が、いったい何を根拠に彼女を理解できるなんて考えているのか。
「……もう時間切れなの」
僕の葛藤を知ってか知らずか、葵はそう口にした。……限界、とはいったい何のことだろうか。
「時間切れって、何が」
あの強い葵をここまで疲弊させるような、何か。一体それは何なのだろう。
「私が、特別になるために許された時間」
それはまだ十五歳の、未来ある女の子の口から出たとは思えない言葉で。でもその切迫した声のトーンはそれが真実であることを示していた。
「……」
言葉を失う。僕は、どうすればいい。僕が過去を変えて葵が不幸になってしまったのならば、それは僕が責任を取るべきなんじゃないだろうか。けれど……。
沈黙する僕に、葵はさっきと同じ願いを口にする。
「答えて。私と一緒に逃げてくれるか、否か」
葵がベンチに座ったまま顔を僕の方に向け、僕と葵の視線が交わる。吸い込まれそうなほど深い彼女の瞳に、僕は……視線を逸らしてしまった。
その瞳の奥に、僕に寄りかかる幸せそうな深愛の姿がちらついてしまったから。
……今の僕は、葵に向き合えない。葵に告白するためにタイムリープまでしたはずなのに、今の僕は葵と深愛、どちらを大切にすべきかがわからなくなってしまっていた。
「……なんてね、冗談よ」
視線を逸らされた葵は、くすっと笑ってベンチからスッと立ち上がる。まるで、今までの話が全てお芝居かのように。
でもいくら僕でも、葵の言葉に熱があったかどうかくらいはわかる。彼女が話していた言葉は全部本当の熱がこもっていて、冗談めいた声音は一片たりとも混ざっていなかった。
「翔也が浮気しないか、試したの。私、可愛いから私に迫られて断れるなら他のどんな女の子に迫られても、大丈夫でしょう? 岬さんはいい子なんだから、放しちゃダメだよ」
葵はそうやって楽しげに、からかうようにつらつらと語っていたけれど――その声は、震えていた。
「……ごめん」
僕の喉奥から謝罪が零れ落ちる。何に謝っているのか、自分ですらよくわからなかったけれど。
「なんで謝るの? 冗談だって……言ってるでしょ……」
取り繕っていた葵の表情が、だんだんと崩れていく。そして涙が溢れかけると同時に、葵は膝から崩れ落ちた。
「葵……」
僕はベンチから立って、しゃがんで震える葵に寄り添う。
少し迷ったけれど、彼女の肩を抱いた。自分の罪を、少しでも償えると思って。
でも……その選択は間違いで、新しい罪を作る行為だということを、次の瞬間に僕は思い知る。
「翔ちゃん……?」
葵とは別の、震える声が耳に届く。恐る恐る顔を上げると、そこには飼い犬に繋がるリードを持った深愛がいた。
「み、あ……?」「岬、さん……」
比喩抜きで、時が止まる。どう言い訳したって、これじゃあ浮気現場そのものだ。頬を張られても、文句は言えない。僕は必死で言い訳を考えるけれど、さっきまで葵と話していた情報量だけで頭の中はいっぱいで、考えはまるでまとまらなかった。
深愛からの僕を問い詰める声がしんと静まり返った公園の静寂を切り裂くことを予想していたけれど、深愛は怒るのではなく顔をクシャリと歪めて顔面蒼白になった。
「やっぱり……あたしがズルしたから……!」
表情に怒りではない感情を宿した深愛はそう言葉を残すと、飼い犬のハナとともに公園の外に走り出した。
「待ってくれ、深愛!」
静寂に包まれた夜の公園に、深愛を呼び止める僕の声が響き渡るも深愛の駆ける足音はそのまま聞こえ続けていた。
ズル? ズルってなんだよ、何の話だよ!
「……!」
走り去る深愛を追おうとするも、僕の両手は葵にぴったりと吸い付いていて離れなかった。
わからない、わからない、わからない。この世界の僕なら、深愛を追うのか? それとも、葵を置いてはいけないのか? 鉄翔也として何を想い、何をすべきかの判断基準が、僕の中からすっぽり抜け落ちていた。
「……っ!」
「……あっ」
おそらく、その逡巡は数秒だっただろう。次の瞬間には僕は葵を置いて深愛を追い始めていた。葵の名残惜しげなつぶやきは、聞こえなかったふりをした。
公園を飛び出して辺りを見回すも深愛はとっくに夜の闇の中に消えてしまっていて、追い付くことはできなかった。そして二十分は探した後に、諦めて公園に戻ってきた僕は葵が既に立ち去っていることを確認した。こういう状況を、ことわざで聞いたことがある。
二兎を追う者は一兎をも得ず。
今の僕は、全ての選択を誤るドツボにハマってしまっていた。
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