第23話

 家の最寄り駅に着く頃にはとっくに午前授業は終わっていて、遊びに出かける京駒高校の生徒の姿がちらほら見えた。僕は彼らの流れとは反対方向に向かって歩いていく。目的地は、言うまでもない。

 この数日で何度目だろうか、あの東屋にやってきた。期待通り、フードと狐面を身に着けたケレスがそこにはいた。僕は陽気に声を掛ける。

「ケレス……助かったよ、おかげで過去にケリを付けられた」

「うまくいったんだね。これで晴れて彼女持ちだ」

 ケレスは安堵したかのようにそう喜ぶ。けどそれは彼女の勘違いだ。

「いや、告白はしたけど付き合うわけじゃないよ」

「……それは、振られたってこと? ならまだタイムリープに付き合うけど」

「いや、そういうわけでもないな。どっちかというと振ったのは僕の方になる、のか?」

「……なんで、そんなことに」

 僕の言葉を聞いたケレスは唖然としていた。まるで自分の人生を賭けた計画が失敗したかのようなそんな雰囲気だ。

「別にそんな驚くことじゃないよ」

「……今すぐ引き返して栗原葵と付き合いなさい」

 そう言って僕の背後を指さすケレスから、睨みつけるような視線を感じる。

「それはできないよ」

 僕は静かにそう答える。ケレスがそう言うことに驚きはなかった、予想していたから。

「君は勘違いしてるかもしれないけど、栗原葵は君のことが好き。君がちゃんと交際を申し込めば彼女は絶対に断らない」

 ケレスは今までにないくらい必死な様子で僕に訴えかけてくる。……でも、僕はその言葉に従うつもりはなかった。

「葵が僕のことをどう思っているかは……もう関係がないんだ」

「……どういうこと?」

「確かに、小五の僕は葵のことが好きだった。でも今の僕は……そうじゃない」

それは別に嫌いになったとかそういう意味じゃないけれど、五年間という時間は葵が変わり、僕が変わり、僕の中の恋心を変質させてしまうには十分だった。それに気づくのにずいぶん遠回りをしてしまったけれど。

 離れ離れになってから、ずっと葵のことを考えていた。そうやって醸成された恋心は、僕の中で葵のことを勝手に理想化した。気高く、強く、何者にも負けないようなそんな強い存在に。……本物の葵は、自分の取り巻く環境に悩んで泣いてしまうような、そんな普通の女の子だったのに。

 この僕の恋心は、偽物だ。今この瞬間を生きている葵のことを見ていない、自分勝手な想いだ。もし付き合ったとしても、きっと僕は葵のことを傷つける。僕が見ているのは、僕の中で形作られた虚構の栗原葵だったから。

 だから、僕はその恋心に決着をつけるために葵に会いに行った。葵にとってははた迷惑な話だろうけれど。

 それに……。

「好きな人が、出来たんだ」

「好きな、人……?」

 結局のところ、僕はちょろいんだ。

 僕を振り向かせるためだけに勉強を頑張って、花を育てて、そして。

「過去にまで戻ってくる、そんな女の子のアピールに参っちゃったんだよ」

 ケレスが被っているお面をそっと外す。その下にある顔は良く見覚えのある顔で。

「……駄目だよ。翔也くん」

 僕の幼馴染である岬深愛そのものだった。


 ケレスの正体はずっとわからなかったけど、タイムリープを重ねることでいくつか条件が見えていた。

 まずタイムリープなんていうとんでもない力をどうやって手に入れたのかということだ。僕にそんな方法はわかるわけないけれど、でも少なくともその辺を歩いている人間が使える力じゃないはずだ。

 次にこんな世界を壊し得る危険な力を赤の他人に授けること自体がおかしいという推測。それならば、ケレスは赤の他人じゃないのではと考えた。僕のことをよく知っている誰か。そういう人物ならまだ納得がいく。

 三つ目は、ケレスが僕を助ける動機だ。ケレスはずっとはぐらかしていたがその行動は徹底して僕と葵をくっつけようとしていた。もしこの推測が合っていればケレスは僕と葵がくっついて得をする人間と言うことになる。……そんな人間が僕以外にいるのかはわからなかったけれど。

 確証を持ったのはWorld1.02において明け方に深愛と会った時だ。彼女は最後に僕のことを「翔也くん」と呼んだ。それはケレスが僕を呼ぶのと同じ呼び方だ。この世界においても僕は深愛に「翔ちゃん」と呼ぶことをやめるように再三言っていた。未来において僕の呼び方が変わるのであれば腑に落ちる。

そして未来の深愛ならば、ここまでの条件に合致する。

未来がどうなっているのかはわからないが、少なくとも現代技術でタイムリープを実現したと言われるよりは納得がいく。

 そして深愛は僕の幼馴染であり、赤の他人じゃない。それどころか彼女は僕のことが好きで、僕のことを助けるためにタイムリープと言う力を与えることもおかしくはない。

 深愛は葵から僕の手紙をすり替えたことに強い罪悪感を持っていた。だから自分から僕に告白することをしなかったし、もし手段があるのなら深愛は矛盾した気持ちを抱えながら僕と葵がくっつくことを望むだろう、そう思った。深愛は優しい奴だから。

 自分の正体を見破られたケレスは深く俯いていた。まるで自分の存在が罪であるかのように、地面を見つめている。

「なあ、深愛」

 本題に入る前に、聞かなければならない事があった。

「岬深愛である時は、全部わかってて僕と話をしていたのか?」

 僕がしたタイムリープでは、僕の体には未来からやってきた僕自身が入っていた。未来にやってきたときも同様で、元々の人格は僕の知覚する限りだといなかったように思う。

ケレスがいつこの時代にやってきたかはわからないけれど、どこかのタイミングで入れ替わってるはずだ。葵と違って僕にはそれを察することはできなかったけれど、もしそうなら僕が取り乱している時も深愛とお祭りに行った時も全てをわかったうえで知らないふりをしていたことになる。

「それは……違うよ。あたしのタイムリープは翔也くんのとはちょっと違うから。意識を上書きしてるわけじゃなくて、共存している」

 まあこの世界のあたしはそれを知らないけどね、と続ける。

「だからあたしが翔也くんと話したのはケレスの恰好をしていた時だけで、それ以外の時はその時間軸の岬深愛が話していた。そこは安心していいよ」

「そっか」

 これまでの深愛との会話が茶番じゃなかったことに安心すると同時に、もし深愛のタイムリープが僕と同じだった場合を考えて恐ろしくなった。

 未来の深愛に悪感情はないけれど、正直僕と一緒の時間を生きてきた深愛が突然いなくなったと考えるとぞっとしない。そこまで考えてWorld1.02の葵も似たような気持ちだったのかな、と感じる。なるほど、確かにこれは恐怖だ。

「じゃあ、本題に入ろう。……深愛はどうして未来からやって来て、なぜ僕にタイムリープの力を与えたんだ?」

 僕の問いに深愛の視線は数秒宙を迷った。それは本当のことを話すかどうかという迷いよりはどう話せばいいかという迷いに見える。

「……どこから始めるべきかと言ったら、きっと昔話からなんだろうね。翔也くんにとっては、未来の話だけれど」

「深愛にとっては昔話で、僕にとっては未来の話……」

「あたしと翔也くんは高校の三年間もつかず離れずのまま過ごしてた。そしてそのまま同じ大学に入って、二年目の夏。相変わらずあたしたちはただの幼馴染でしかなかったけど、あたしは一緒に入れるだけで幸せだった。あの日までは」

「あの日?」

「その日二人で学食で昼ご飯を食べてたら、栗原さんの婚約発表がテレビで流れてた。お相手はイケメンの俳優さん。あたしも翔也くんも栗原さんが活躍するような分野には疎かったから、芸名を使ってた栗原さんのことをその日まで全く知らなかった」

 婚約か……。大学二年ということは二十歳、芸能人がそういう発表をするには相当早いように思うが事情があったんだろう。

「あたしは翔也くんがショックを受けてないか心配だったけど、正面にいた君は驚いてはいたけど大して気にしてなさそうに見えた。でも……それはあたしの勘違いだった」

 深愛は悔しそうに唇を強く噛む。

「その婚約発表からすぐ後だった――翔也くんが自殺したのは」

「――」

「翔也くんは遺言を何も残さなかった。でも身辺整理をしていたことから事件性はないとして自殺で処理された」

 あたしも殺されたとは思わなかった、と深愛は言う。

「……間接的にはあたしが殺したようなものかもしれないけど。翔也くんと栗原さんの仲を切り裂いたのはあたしだった。ほとんどあたしが殺したようなもの」

 深愛の可愛らしい瞳は真っ赤に充血していて、彼女の痛みが伝わってくる。

「あたしは翔也くんを生き返らせるために何でもするって誓った。でもただ生き返らせるだけじゃきっと翔也くんは納得しないと思った。だから翔也くんの後悔を晴らしたうえで生き返らせる手段を考えて、それを実現できる方法を研究できる研究室に進んだ」

翔也くんに振り向いてもらうために勉強だけはたくさんしてたから好きな所に行けたよ、と深愛はそれ以外何もないかのように自嘲する。

「あたしの理論は表立って言えばクビになるくらい突拍子のないものだったから、表に出す用の研究と並行して隠れて続けてた。そうやってずっとずっとずっとひとりで研究し続けて……実用化できたのは翔也くんが死んでから十五年後だった」

 深愛は手からぶら下げたかごを眺める。そこにいくつも並んだりんごは彼女の人生を賭けた研究の結晶なんだろう。それも名誉にもお金にもならない、ただ僕を救うためだけの研究の。

「翔也くんの未練は栗原さんと結ばれなかったことだと思ったから、どうにかしてそれを叶えるためにたくさん手助けした。今からだってなんだってする。だから……死なないでよ……」

 深愛は大粒の涙をこぼしながら僕に縋りつく。深愛にこんなつらい想いをさせてしまった事実が針のように心臓を刺し貫く。

「……」

 僕の自殺は他の世界と同じように僕自身が経験していないことで、想像することしかできない。でもタイムリープによって変わった世界の僕とその未来の僕との間には決定的な差がひとつだけあった。

 それは高校一年生になり、ケレスと出会う直前までは僕と同一の人生を送っている鉄翔也だと言う事だ。

 他の世界の僕は小学五年生の葵との別れから世界が変わっているけれど、未来の僕とやらは違う。だから他の世界の僕と違って、今の僕の感性の延長線上で考える事ができる。だから、わかる。深愛の認識にはひとつ勘違いがある。きっとこの推測はそれほど的外れでもないはず。

「深愛、きっと未来の僕は葵の婚約発表を見たから自殺したわけじゃないと思う」

 泣き崩れている深愛に寄り添いながら僕はそう告げる。

「……どういうこと?」

 深愛は半泣きのまま顔を上げ、悲しみと不可解さがないまぜになった表情で僕に問いかけた。

「僕は確かに五年前葵に告白できなかった事をとても後悔して、今に至るまで引きずってた。でも二度のタイムリープで気づいたんだ。僕は葵に恋焦がれていたわけじゃない。葵と結ばれることが僕の救いにはならない」

「え……?」

 実際に葵と結ばれた世界線を経験したからこそわかる。それで僕のモヤモヤが晴れることはなかった。

「じゃあ……なんで翔ちゃんは自殺したの……?」

 そう、当然その疑問に帰結する。未来の深愛にとって最大の謎。その答えを、僕は持っている。

「……元から決めていたんだ」

「決めていた?」

 僕は、大きく深呼吸する。これは誰にも言った事がない、僕の心の中だけにある事実。そしてあまりにも重い、口にするのも憚られる決意。それでも、僕のために人生を賭してやってきた未来の深愛のために答えなければならない。

 僕は、ゆっくりと口を開いた。


「二十歳になって、自分が命を懸けられる何かを見つけられなかったら、死のうって。そう決めていた」


「……!」

 僕の言葉を聞いた深愛は、文字通り絶句した。口を魚のようにぱくぱくさせ、放とうとする言葉は全て虚空に消えてゆく。

「……ゆっくりでいいから」

 僕は焦る深愛にそう語りかけ、背中を撫でる。さっきの僕と同じように深呼吸をした深愛は、幾分か落ち着きを取り戻していた。

「死ぬって、なんで」

「僕が葵のように命を懸けられるものを探していた理由、覚えてる?」

「確か、おじいさんが亡くなる時の様子を見て……だよね?」

「うん」

 僕の自慢の祖父。その祖父が病床で吐いた弱音、この世への深い未練。それが僕を葵のように突き動かした要因の一つだった。

「僕はあのおじいちゃんの姿を見た時に、死の間際に後悔しない人生を送ると決めた。同時に――それが無理ならさっさと死のうとも、決めたんだ」

「ちょっと待って……」

 深愛が頭に右手を当てて混乱したように俯いた。

「その時の翔ちゃん、小学三年生だよね?」

「もちろん、その時から何歳までに死のうって具体的に決めてたわけじゃない。でもそういう考えを最初に持ったのは、その時だね」

 たかが子どもの考えだ。歳を重ねればすぐに忘れてしまうだろう。そう思う大人はいっぱいいるだろう。でも高一になってもいまだその考えが消えなかった以上、大人になるまで僕がその考えを持ち続けていても何らおかしくない。

 僕に対し、深愛は顔を真っ赤にして叫ぶ。

「何も成し遂げられなくたって、幸せな人生を送れる人なんてたくさんいるよ!」

「それでも、僕は数十年生きた上で苦しみに塗れて死ぬより二十年で自分の人生に見切りをつける方がマシだと思ったんだよ」

「どうして……どうしてそんなこと……」

 膝から崩れ落ちる深愛を慌てて支える。無理もない、僕だって他人が同じ事を言っていたら泡を食って止めると思う。正気の沙汰じゃない。

 でもタイムリープをする前の僕は間違いなくそれが自分にとって正しいことだと思っていた。それくらい祖父の死は僕にとって雷に打たれたように衝撃で、心の深い深いところに楔を打っていたんだ。

 だから――この楔は、そう簡単に抜けるものじゃなかった。

「話には、続きがあるんだ」

 僕の穏やかな声を聞いた深愛は、ゆっくりと顔を上げてこちらを見る。その顔は涙に濡れ、頬は赤く、いつも笑顔を絶やさない普段の深愛とは全然違っていた。それはきっと、彼女の中身が十五年後の深愛だからというだけじゃないだろう。

 僕が死ぬという未来への不安にまみれた深愛を安心させたい。その気持ちのおかげで、タイムリープの狭間で二回も夢見てもまだ記憶の底に埋まっていた祖父の遺言を、今ようやく思い出した。

「おじいちゃんは最後の最期に、僕に『でも、翔也がいてくれたから。いいか』って言ったんだ」

「……!」

「おじいちゃんは人生の終わりに未練や不満がいっぱいあったかもしれない。でも、自分が愛する人、自分を愛してくれる人がいたならそんな未練があっても、『まあ、いいか』って言えるんだよ」

 僕の心の奥底に眠っていた真実を聞いた深愛は、震える声で反論する。

「でも……それなら栗原さんを選べば……」

「言ったでしょ。葵と結ばれることは僕の救いにはならない。五年前と違って、今僕が好きな女の子は違う子なんだから」

 そう言いながら僕は少し膝を曲げ、二回りほど身長の低い深愛と同じ目線にかがむ。

「だからさ、ちょっと情けないんだけどもう一度同じことを言うよ」

 手が震える。ちゃんと噛まずに言えるか不安で仕方がない。それでも、この想いは今伝えるべきだ。

 そして僕は胸を裂きそうなほどの強烈な想いを、言葉へと変える。

「僕を好きだと言ってくれる女の子が、僕のために必死で勉強したり、毎年ひまわりを送ってくれたり、僕の死ぬ未来を変えるために過去にまで戻ってくれる。そんな献身的な女の子に、惚れちゃったんだよ。将来何も成し遂げられなくても、深愛がいるなら死ななくてもいいかなって思うくらいに」

 本当の愛の告白を、今告げた。


 僕の告白を聞いた深愛は、憑き物が落ちたかのようにその口角を上げる。

「そっか。翔ちゃんはもう死んだりしないんだね」

「うん、深愛のおかげで自殺なんてもう考えないよ」

「なら、良かった」

 安心したようにそう答えた深愛は自分の持つかごからリンゴをひとつ取り出した。それは今まで僕が食べたものよりも一層赤く……それを見た僕は、なぜかその色を不吉に感じた。

「ま、待って……!」

 伸ばした手は空を切り、深愛はそのリンゴを一口かじる。

その直後……リンゴと同じくらい真っ赤な血が、深愛の口から流れ出た。

「深愛⁉ 何したんだ!」 

「今食べたのは……毒リンゴ」

 魔女が持つリンゴなんて、毒リンゴって相場が決まってるでしょと苦しそうにしながら深愛は言う。口元から流れ出る血液は不思議なことに服や地面に触れると同時に消失していく。

「安心して。この世界の岬深愛には何の影響もないから」

 そう言いながら苦悶に顔を歪める深愛の姿はどう見ても安心できる様子じゃない。

「じゃあ、じゃあ君はどうなるんだ!」

「あたしは……消えるんだ。この世界から」

 深愛の言葉を聞いた僕は息を呑む。今にも倒れそうな彼女の肩を抱え、懐に引き寄せる。

「なんで、そんなこと……」

「あたしがこのまま過去に戻っちゃうと、この世界の岬深愛の意識は消滅してしまう。あたしは別にそれでもいいけど、そうなったら翔也くんは苦しむでしょう?」

「それは……」

 この世界の深愛が、十五年後にいなくなってしまう。そんなこと、考えるだけで胸が痛くなる。でもだからと言って未来の深愛が犠牲になることなんて……!

「あたしには変えた後の世界を見る権利なんてないから。栗原さんの手紙をすり替えたことも、タイムリープを使ったことも、どっちもズル。ズルをした人は、罰を受けないとね」

それに、とますます弱っていく深愛は続ける。

「君が見つけた結論にそのまま乗っかるようで気が引けるけど……やっぱりあたしの翔也くんは、あの時死んじゃったんだんだ。だからこのまま戻っても、きっとあたしは後悔する。君のようにね」

 懐にいる深愛の体の温かさは何も変わらない。でも、確実に何かが抜け出て行くような感触が腕に伝わってくる。

「……計算上、一瞬だけ……あたしの意識が浮上する可能性は、あるけど……すぐに消失するはずだから……安心して……」

 深愛は息苦しそうに言葉を残す。自分にできることはもうほとんど残っていないことがわかった僕は、最後にやるべきことを見つけた。

「深愛! ……ありがとう、君のおかげで僕は生きていける。絶対に、忘れない」

 僕の精一杯の感謝を聞いた深愛の表情は、苦しみに耐えるものから微笑みへと変わる。

「そ……っか。それは、嬉しいな。……じゃあね、翔ちゃん。……幸せに、なってね」

 その言葉を最後に、深愛の瞳が閉じられた。理屈も何もわからないけれど――未来の深愛が消失してしまったという実感だけが腕に残った。

「……」

 僕の頬を涙が伝い、深愛の顔に落ちる。その涙に反応し、深愛はぴくりとまぶたを動かした。

「翔、ちゃん……?」

 腕の中でこの世界の深愛が意識を取り戻す。気づかれるわけにはいかないと覚醒しきる前に僕は目元をぬぐう。そして言わなければならない言葉を伝えるため、問いかける。

「深愛……話があるんだ。聞いてくれるか?」

「……寝起きに、いきなりだね。何の話?」

 他の世界の僕たちと未来の深愛が与えてくれたこの時間を噛み締めて、人生最後の告白を口にした。

「深愛……好きだ。僕と、付き合ってくれ」

 その返事は、ここに記すまでもない。

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